董賢
董 賢(とう けん、前22年 - 前1年)はその眉目秀麗なる容姿から前漢哀帝の寵愛を受けた官人。哀帝の死後は権勢を失い自殺に追い込まれた。字は聖卿。
生涯
董賢は御史であった董恭の子として生まれた。当初は太子舍人となったが、哀帝即位後は様々な官職を転任していた。前4年に哀帝により眉目秀麗さが見出され、帝の男色相手として鍾愛されるようになった。
寵愛を受けた董賢は大司馬に任じられ、妹を昭儀(漢代の後宮女官の位の1つ)として後宮に迎えられ、また妻も入宮し侍奉することが認められるなど破格の待遇を与えられた。その寵愛ぶりは何時も共に過ごし、共に寝ていた際に哀帝が先に目を覚ました際に、まだ眠っている董賢を起こすのが忍びなく感じた哀帝は人に命じ、董賢が踏みつけていた哀帝の袖を切り取った故事が伝えられており男色の別名の1つである「断袖」の由来とされている。
過度な寵愛は董賢一族に経済的、政治的な恩恵が与えられたばかりか、董賢の僮僕にまで賞賜が与えられた。その後哀帝は董賢を侯に封じた。反対した丞相王嘉はその後加増の詔を差し戻すという事態となり、王嘉はそれが元で罪を得て投獄され絶食し命を絶っている。また舜堯の故事を引き合いに禅譲までも申し出たが、これは中常侍王閎に諫言され撤回している。
元寿2年(前1年)に哀帝が崩御すると、哀帝は董賢に皇帝の璽綬を託した。(次の皇帝の決定権を与えたことになる)そこで王閎が太皇太后王氏(王政君)に璽綬を奪うよう進言し、王閎は武装して宮殿に入り董賢から璽綬を強奪した。これにより董賢は政治基盤を失う。太皇太后王氏は董賢を朝廷より遠ざけ、また年少との理由で大司馬の職を解いた。この詔勅が出された当日、董賢は妻と共に自殺した。なお彼の後任が王莽である。この時董賢の年齢は僅かに21歳、死後は財産は没収され、一族は各地に流刑となった。