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フライデー襲撃事件

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フライデー襲撃事件(フライデーしゅうげきじけん)とは、1986年12月9日未明、ビートたけし(以下たけし)が、当時交際中の女性に対する記者の常軌を逸した取材と暴行に怒り、写真週刊誌『フライデー』出版元の講談社を襲撃した事件である。別称「フライデー事件」「ビートたけし事件」。

概要

1986年12月8日、たけし(当時39歳)と交際していた当時21歳の専門学校生が、雑誌「フライデー」の契約記者に校門で取材を受けた際、軽症を負い、さらに自宅まで押しかけられた上、大声で騒がれるなどの常軌を逸した取材を受けた。

たけしはフライデー側に過度な取材に対し抗議し、説明と謝罪及び当事者の名前を明かすよう求めたが、同誌側は淡々と矛先をかわす姿勢を貫き、これらを拒否した(たけし側の主張)。これに怒ったたけしは「今から行ってやろうか」と通告、翌12月9日の深夜3時過ぎ、たけし及びたけし軍団関係者は、東京都文京区音羽にある講談社本館の同誌編集部を訪れた結果、暴行傷害事件へ発展した。

報道によれば、たけしが「担当者を出せ」と迫った後、どちらからともなく一斉にもみ合いになった。現場にあった傘や消火器を用い、「俺は刑務所行きを覚悟している」などと怒鳴りながら、同誌の編集長及び編集部員らに暴行を働いたという。たけしらは住居侵入罪・器物損壊罪・暴行罪で同社を管轄下に持つ大塚警察署によって現行犯逮捕された。事件は「フライデー事件」として大きな反響を呼ぶことになった。

事件の背景として、たけしは当時、このほかにもフライデーから家族、特に子供に対して執拗な取材を受けていたことがある。後にたけしは「マッチの軸と先」という表現で、専門学校生への取材が切っ掛けとはなったものの、それまでの鬱憤が蓄積されていたと語っている。

その後たけしらは「謹慎」として、半年間芸能活動を自粛。1987年6月10日、東京地方裁判所からたけしらに懲役6ヶ月(執行猶予2年)の判決が下り、控訴しなかった為、刑が確定した。たけしらは芸能活動を再開したが、出演するテレビ局や所属事務所などに各種団体が抗議に訪れるなど、しばらくは事件の影響が尾を引く形となった。なお、判決を下した裁判官は、たけしらの行為を厳しく断罪すると共に、フライデー側の過剰な取材にも苦言を呈した。また、たけしらは所属する太田プロダクションを解雇される寸前だった。

たけし軍団

襲撃に参加したたけし軍団メンバーは以下の通りである。(数字は当時の年齢)

つまみ枝豆井手らっきょラッシャー板前の3名は、軍団の主要メンバーであるが事件に関与・参加していない。井手らっきょは愛人宅を訪れていて連絡がつかなかったため、ラッシャー板前は痔の手術だったためである。また、つまみ枝豆はその性格を熟知するたけしの意向により襲撃が知らされていなかった。襲撃に参加できなかったことを悔んだ枝豆は、事件後にテレビで放送された会見でフライデースタッフの顔を確認し、刃物を持って単独でフライデーを再襲撃するために家を出ようとしていたところに、たけしが拘置所の取調官に頼み込んで電話をかけ、「とにかく動くな」という指示を与えたため踏み留まっている[1]

謹慎中、たけしは軍団員に対し「俺もお前らも芸能界にいられなくなっちゃってごめんな。土方やってでもお前らを一生養わなきゃなぁ」と語ったとされる。また、石垣島での謹慎生活で島の人に逃亡したらと勧められたこともあったと本人は述べている。

反響

人気絶頂の芸能人が集団で暴行に及び逮捕されるという前代未聞の事件は、ワイドショーや週刊誌の絶好のネタとなった。「人権を無視した行き過ぎた報道が悪い」、「取材時の一般人への暴力は行き過ぎ」というたけしへの同情論、「いかなる事情があっても暴力はいけない」、「人気芸能人が青少年や社会に与える影響は大きい」という意見など、様々な議論が巻き起こった。横山やすしは「悪いのは、たけし側ではなく雑誌の方だ」と取材方法を批判した。また、講談社の野間惟道社長が事件の心労も影響し翌年に死去するなど講談社関係者にも衝撃を与えた。

この事件以降、以前から過激な報道姿勢で問題となっていた写真週刊誌に対し、多くの批判の声が上がった。その影響もあってか、「Emma」・「TOUCH」が程なく廃刊した。当事者「フライデー」はその後も刊行されている(2024年現在)。

政界でもプライバシーの問題と合わせて取り上げられ、当時の内閣官房長官後藤田正晴は「ビート君の気持ちも分かる」とコメントした。

当時たけしとの共演が滅多になく、不仲説もささやかれたことのあるタモリマスコミからコメントを求められ、「もし俺がたけちゃんに何か言いたい事があるなら、会って直接話をする。 だいたい、友達同士の大事な話を校内放送でするヤツはいないだろう。」と言った。

その後

後日、東はこの時の事を「全員、抗議をするだけで殴るつもりはなかった。ただ、講談社関係者の対応が『どうぞ、殴ってください。これも記事にしますんで』と、悪態を付いたのがどうしても許せなかった」と語っている。また、たけし自身は「一発殴って終わりにして、編集部員も含めてみんなで飲みに行くつもりだった」と自著に記している。田中康夫による裁判傍聴記においては、当初は軍団メンバーには手を出さないように言っておいたものの、編集部員の挑発的言動が原因で暴行に至ったと記されている[2]

1987年、フジテレビの24時間番組FNS夢列島にてタモリ明石家さんまとのトーク企画という形で深夜帯に約7ヶ月ぶりに生放送でブラウン管に復帰した。たけし復帰の瞬間は、多くのテレビスタッフ、関係者や他メディアの取材陣までがスタジオを囲み、ぴんと張詰めた空気の中であった。たけしは「いやいやいやいや…」と言いながらスタジオに登場した。 トーク中もさんまとタモリはたけしを気遣うも事件のその後を語った(7ヶ月の謹慎中、「ゴルフに行かなかったのは10日位」と話した)。トーク中もたけしは暴力ネタを繰り返し、ときおりタモリが「うわ、やっべぇ…」と苦笑した。さんまは「すいません、このひと反省していません」とカメラに向かっておちゃらけつつフォローした。なおこれがBIG3のスタートとなった。

1988年、当時のフライデー編集部と神宮草野球場で草野球の交流試合が行われ、正式な和解の場が持たれた。1998年2月20日号の同誌に、篠山紀信撮影による、ビートたけしが12年ぶりに同誌編集部を訪れるという設定のカラーグラビアが掲載された[3]

なお、同誌とたけし軍団関連の最近の事情として、2007年1月に当時実行犯だったそのまんま東が本名の東国原英夫として宮崎県知事に当選してから暫くの間、講談社は「週刊現代」「フライデー」にて「そのまんま東は暴力知事である」といった記事を掲載したが、東国原は「20年たっても講談社に狙われている」と外国特派員協会での会見で冗談交じりに語った[4]

2007年発行の東京法令出版「見る,解く,納得!社会資料」では、自由権の項目でこの事件を写真つきで取り上げている。また、国内の多くの大学の法律の授業において、特に行き過ぎた報道の是非を問う講義の題材として取り上げられている。

2009年3月1日、フジテレビ開局50周年特別企画激動!世紀の大事件~証言者たちが明かす全真相~において、ビートたけし、東国原英夫が出演し、この事件について語った内容が放送された。東国原英夫がこの事件に積極的ではなかった件についても詳しく語られた。

エピソード

  • 取り調べ中、取調官から「何か食べたいか?」と言われたたけしと軍団は、とっさに刑事ドラマのワンシーンを思い出し、「(こんな時は)カツ丼でしょう!」と答え、すぐさまカツ丼が全員分出された。食べ終わった後、たけしは取調官から「たけちゃん、お代出してね。」と言われ、後に「これには参った」と述懐している。
  • たけしと共にフライデースタッフに飛びかかる軍団を尻目に、たけしの一番弟子であるそのまんま東は入り口付近でタバコを吸いながら傍観を決め込んでいたという。後に東はこの事件を振り返り、推理小説で講談社が後援する江戸川乱歩賞の入賞を狙っていたため、あまり関与したくなかったことを明かしている。そのため、フライデー編集部に向かうエレベーターには最後に乗ったが、エレベーターのドアが開くとたけし軍団の先頭にいることとなり、待ち構えていたカメラマンによって結果大きく報じられることとなってしまった。また、「酔っていて記憶がない」という言い訳を作るため、あらかじめ缶ビールを飲んでいったことも明かしている。

事件の影響を受けた番組・企業

脚注

  1. ^ コマネチ!―ビートたけし全記録 (新潮文庫)・ナンバ壱番館(朝日放送)より
  2. ^ 『たけし事件 怒りと響き』所収、初出は『週刊朝日
  3. ^ 篠山紀信著「写真は戦争だ」河出書房新社より
  4. ^ 2007年3月14日、外国特派員協会での会見

参考文献

  • 『たけし事件 怒りと響き』(監修・筑紫哲也、1987年、太田出版) - 事件の顛末や識者の意見をまとめた書籍

関連項目