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司馬瑋

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司馬瑋(しば い、271年 - 291年)は、中国西晋皇族であり、八王の乱の「八王」の一人。彦度。初代皇帝武帝の第5子。生母は審美人。同じく 八王の一人である司馬乂は同母弟である。

生涯

277年8月、始平王に封ぜられ屯騎校尉となった。

289年11月、楚王に移り、平南将軍・仮節・都督荊州諸軍事になって、父の武帝の意向により秦王司馬柬淮南王司馬允と共に領国に赴任した。後に鎮南将軍となった。

武帝の死後、291年2月、淮南王司馬允と共に洛陽に戻った。3月、外戚の楊駿らが誅殺される際に功があった。衛将軍・領北軍中候となり禁軍を掌握した、侍中を加号され行太子少傅となった。 当時、汝南王司馬亮衛瓘の二人が皇帝恵帝を輔佐していたが、彼らは、司馬瑋は若く果敢な性格だが情がなく厳しいところがあり、重要な役職は任せられない、として領国に帰還させようとした。このため、司馬瑋は彼らを恨んでいた。 一方、賈后にとっても、自らが実権を握るために彼ら二人は邪魔な存在だった。 6月、司馬瑋の部下の公孫宏は危険人物として逮捕させそうになり、積弩将軍の李肇を通じ司馬瑋からと衛瓘らを賈后に誣告した。賈后に二人が謀反を企てていると吹き込まれた恵帝は司馬瑋に密勅を送り、彼らを除くように指示する。指示に何の疑いも持たないまま、司馬瑋は詔勅に基づくと信じて挙兵して、司馬亮と衛瓘を誅殺した。司馬瑋の部下の岐盛は外戚の賈氏や郭氏も同様に誅殺するように進言したが、司馬瑋は躊躇した。この事態に張華は、恵帝(そして、それを裏から操る賈后)に、司馬瑋は詔を偽って無法に彼らを殺害した事にするよう進言した。賈后は司馬瑋も嫌っていたので進言を受け入れた。謀反人にされた司馬瑋は司馬柬の所に行く前に捕らえられ、間もなく処刑された。21歳だった。刑場で司馬瑋は、詔勅を見せつつ冤罪を訴え涙したという。

正史の列伝の人物評によれば、司馬瑋は施すこと多く、民衆の心もつかんでおり、その死を聞いて涙しないものなく、人々は祠を立てて祀ったという。しかしその一方、短慮で状況判断が出来ずに命を失ってしまった、という軽薄さは否定のしようがなく、武断ではあるが政治的な能力は低かったと言わざるを得ないだろう。

宗室