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プリンス・ビラ

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プリンス・ビラ(本名:ビラボンス・バヌバン Birabongse Bhanutej Bhanubandh、愛称:プリンス・ビラまたはB・ビラ、1914年7月15日-1985年12月23日)は、タイ王国王子アジア人初のフォーミュラ1ドライバーである。

プロフィール

生い立ち

1914年にタイ王国(当時はシャムと呼ばれていた)の王族の一員として、バンコクで生まれた。当時のタイ王国の王族の子弟の習わしとしてイギリスに留学し、名門校の一つであるイートン校からケンブリッジ大学に進学した。

トップドライバー

大学在学中の1935年に甥のプリンス・チュラ(Prince Chula Chakrabongse)からプレゼントされたE.R.A.をドライブし、ブルックランズ・サーキットで最初のレースに出場し好成績を収めたことをきっかけに、本格的にモータースポーツ活動を開始し、第二次世界大戦前のヨーロッパにおいて数々の勝利を収め、当時のトップドライバーの1人として君臨することになる。

その後、1939年9月の第二次世界大戦の勃発により帰国が困難になり、マネージャーとなっていたプリンス・チュラとともにしばらくの間イギリスに留まることになるが、日本と結託し枢軸国として参戦した母国の状況を憂い、イギリスでイギリス軍の市民兵として防空業務に就くことになる。なお、その後タイ王国は連合国に鞍替え参戦したため、戦勝国として終戦を迎えることになる。

F1参戦

終戦後の1947年からレーシングドライバーとしてヨーロッパのモータースポーツ界に復帰し、その後、1950年にスタートしたF1世界選手権の第1戦・イギリスグランプリよりイタリアの名門メーカー・マセラティのワークスドライバーとして参戦し(1952年シムカ=ゴルディーニから参戦)、1954年スペイングランプリまでの間に全19戦に参戦、最高位4位の成績をおさめた。また、非選手権レースにおいては、1955年に行われたニュージーランド・グランプリで引退するまでに2勝を挙げた。

死去

引退後もタイ王国とイギリスを往復しつつタイ王国のモータースポーツの振興に尽力し、1985年にロンドンで心臓麻痺で死去した。現在、タイ王国国内のサーキットに名前がつけられるなど、アジア最初のF1ドライバーとしてその名が刻まれている。

関連項目