レアル・マドリード・カスティージャ
レアル・マドリード・カスティージャ | |||
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原語表記 | Real Madrid Castilla Club de Fútbol | ||
愛称 | Castilla | ||
クラブカラー | 白 | ||
創設年 | 1930年 | ||
所属リーグ | リーガ・エスパニョーラ | ||
所属ディビジョン | セグンダ・ディビシオンB | ||
ホームタウン | マドリード | ||
ホームスタジアム | アルフレッド・ディ・ステファノ | ||
収容人数 | 6500 | ||
代表者 | ニコラス・マルティン=サンス | ||
監督 | アルベルト・トリル | ||
公式サイト | 公式サイト | ||
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レアル・マドリード・カスティージャ(Real Madrid Castilla Club de Fútbol)は、レアル・マドリードのBチームである。現在、リーガ・エスパニョーラのセグンダ・ディビシオンBに所属している。
レアル・マドリードのカンテラの選手達が所属しており、ここからトップチーム昇格を目指している。
スター選手が名を連ねるレアル・マドリードにおいて、カスティージャの選手達にはトップチームで出場機会さえ与えられないことも多い。その上トップチーム定着となると狭き門といわざるを得ない。そのため、リーガ・エスパニョーラの1部、2部の多くのクラブにカスティージャ出身の選手達が流出しており、移籍先で中心メンバーとして活躍するケースも多々見られる。かつてトップチームの黄金期を支え、現在は名誉会長となっているアルフレッド・ディ・ステファノはこの現状を「自分たちは雌鶏を持っている。しかし卵を外へ買いに行く」と嘆いた[1]。
「銀河系」時代は終焉を迎え、若手路線に徐々に切り替わりつつあるが、国外の有望な若手選手を獲得するなど、カスティージャの選手達にとって厳しい時代は続くようだ。しかし近年は移籍時に買戻しオプションを付与して1部、2部のクラブ(マドリードにあるヘタフェCFなどが多い)に放出して経験を積ませる政策をとっている。
クラブの歴史
ADプルス・ウルトラ
レアル・マドリード・カスティージャの歴史は、1948年に「アグルパシオン・デポルティーバ・プルス・ウルトラ, "AD プルス・ウルトラ"(Agrupación Deportiva Plus Ultra, "AD Plus Ultra")」というテルセーラ・ディビシオン所属の地元アマチュアチームが、レアル・マドリードの選手育成について合意したことから始まった。チームは元々1930年に創設され、チーム名をスペインの国家標語からとった。レアル・マドリードはADプルス・ウルトラに対し経済援助を行い、見返りにチームに在籍している最高の選手たちの第一先買権を得た。チームは1949年にセグンダ・ディビシオンに昇格し、1952年に正式にレアル・マドリードのBチームとなった。1954年、ADプルス・ウルトラはスペインU-19カップ決勝でエスパニョールを破り優勝。1959年にはコパ・デル・レイ準々決勝でグラナダCFに敗戦した。
1950年代、1960年代には、サラガ、マテオス、マルサル、カサード、ビジャ、ビダル、セレーナ、グロッソなどの未来のレアル・マドリードの選手たち、スペイン代表選手たちがADプルス・ウルトラでプレーしていた。またルイス・アラゴネスも短期間ながら在籍し、ミゲル・ムニョスはこのチームで監督のキャリアをスタートさせた。1972年、ADプルス・ウルトラと同名の保険会社が破産したため、チームは「カスティージャCF(Castilla CF)」と名称を変え、新しくレアル・マドリードのBチームとなった。
カスティージャCF
名称がカスティージャCFとなってから、チームは黄金時代を迎えることとなった。この時代、チームにはアグスティン、ガジェゴ、ピネダが在籍し、1979-1980シーズンのコパ・デル・レイの決勝に進出した。カスティージャCFはトーナメントで、エルクレスCF、アスレティック・ビルバオ、レアル・ソシエダ、スポルティング・デ・ヒホンという四つのプリメーラ・ディビシオン所属チームを破る快進撃を見せた。ちなみにソシエダとスポルティングはこのシーズンにプリメーラでそれぞれ2位と3位になっている。決勝ではカスティージャCFのトップチームであるレアル・マドリードと対戦し、6-1と大敗、準優勝に終わった。しかしレアル・マドリードがリーガで優勝したため、カスティージャCFはUEFAカップウィナーズカップの出場権を得る。翌シーズンのカップウィナーズカップ1回戦ではウェストハムと対戦。サンティアゴ・ベルナベウで行われた1st legは3-1で勝ったものの、2nd legでは5-1で敗戦し、トーナメントから姿を消した。カスティージャCFは1984年、1986年、1988年のコパ・デル・レイで準々決勝に進出した。
1984年、アマンシオ・アマロ監督の下、カスティージャCFはセグンダ・ディビシオン優勝を果たした。チームでは「キンタ・デル・ブイトレ(La Quinta del Buitre)」のメンバーたち、エミリオ・ブトラゲーニョ、マヌエル・サンチス、マルティン・バスケス、ミチェル、ミゲル・パルデサがプレーしていた。しかしながらレアル・マドリードが既にプリメーラに所属しているため、カスティージャCFの1部昇格は不可能であった。1987-1988シーズンには3位に入ったが、同じ理由で昇格は出来なかった。
レアル・マドリードB
1991年、スペインサッカー連盟がトップチームと下部組織のチームの名称の統一化を図ったため、カスティージャCFは「レアル・マドリード・デポルティーバ(Real Madrid Deportiva)」と名称を変更した後、最終的に「レアル・マドリードB(Real Madrid B)」に落ち着くこととなった。1990年代、二人の元レアル・マドリードの選手達、ビセンテ・デル・ボスケとラファエル・ベニテスがこのチームで監督のキャリアをスタートさせている。1997年、レアル・マドリードBはセグンダ・ディビシオンBに降格するが、チームは素晴らしい選手達を輩出し続けた。レアル・マドリードのトップチームで地位を確立した、ラウール、ラウール・ブラボ、グティ、イケル・カシージャスなどのメンバーである。また、イスマエル・ウルサイス、サンティアゴ・カニサレス、ミスタ、ルイス・ガルシア・フェルナンデスなどの元レアル・マドリードBの選手達も、移籍先のリーガのクラブで成功を収めている。
レアル・マドリード・カスティージャ
2005年、ファン・ラモン・ロペス・カロ監督が指揮し、チームがセグンダ・ディビシオンへ復帰すると、レアル・マドリードBは「カスティージャ」の名称を復活させ、「レアル・マドリード・カスティージャ」となった。2006年にはクラブ施設のシウダード・レアル・マドリード(Ciudad Real Madrid)内の新スタジアムが「エスタディオ・アルフレッド・ディ・ステファノ」と命名され、フランシスコ・モレーノ・カリニェーナがここ16年間で初のトップチームから独立した会長に就任した。
2006-07シーズン、22チーム中19位(下位4チームが降格)という成績で、セグンダ・ディビシオンBへの降格が決定した。
チームはルベン・デ・ラ・レー、ヘタフェCFへ移籍したロベルト・ソルダード、ダニエル・パレホ、セビージャFCのアルバロ・ネグレド、バレンシアCFへ加入したフアン・マタ、SLベンフィカのハビ・ガルシア、レアル・マドリードに復帰したアルバロ・アルベロアやエステバン・グラネロ・モリナなどの有能な選手達を輩出し続けている。
2008年12月、監督を務めていたミチェルが、カンテラ軽視政策を批判し、辞任。ユレン・ロペテギが監督に就任した。
2011年1月からはアルベルト・トリルが監督に就任。2010-11シーズンはリーグ3位となるも、プレーオフの結果昇格することはできなかった。翌2011-12シーズンにはリーグ優勝を果たし、プレーオフでもカディスCFを2試合合計8-1で下してセグンダ・ディビシオン昇格を決めた。
タイトル
- セグンダ・ディビシオン 優勝 1983-84
- セグンダ・ディビシオンB 優勝 1990-91, 2001-02, 2004-05, 2011–12
- テルセーラ・ディビシオン 優勝 1948-49, 1954-55, 1956-57, 1963-64, 1965-66, 1967-68
- コパ・デル・レイ 準優勝 1979-80
- スペインU-19カップ 優勝 1953-54, 2005-06
現所属選手
注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。
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*はAチームでデビュー済みの選手
レンタル移籍中の選手
- OUT
Pos. | 選手名 | レンタル先 | 期間 | 備考 |
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MF | マルコス・テバル | ジローナFC | 2010- |
歴代所属選手
- GK
- イケル・カシージャス
- アントニオ・アダン
- サンティアゴ・カニサレス
- ディエゴ・ロペス・ロドリゲス
- カルロス・サンチェス
- ペドロ・コントレラス
- ホセ・マヌエル・オチョトレナ
- アグスティン・ロドリゲス
- フアン・アロンソ
- DF
- MF
- FW
- サミュエル・エトオはレアル・マドリードと契約した1996-97シーズン、まだ15歳だったためレアル・マドリードBではプレー出来なかった。しかしBチームと共に練習はしていた。翌1997-98シーズンはレアル・マドリードBがセグンダ・ディビシオンBに降格しており、レギュレーションでEU外選手は登録出来ないと決まっていたため、またもプレーすることが出来なかった。そのため、レアル・マドリードはエトオの成長を止めさせないよう他のクラブにレンタル移籍させていた。
歴代監督
- ミゲル・ムニョス 1952-1953
- ファンホ 1980-1981
- アマンシオ・アマロ 1983-1984
- ラファエル・ベニテス 1993-1995
- ビセンテ・デル・ボスケ
- ファン・ラモン・ロペス・カロ 2000-2005
- ミゲル・アンヘル・ポルトゥガル 1997-1999, 2005-2006
- ミチェル 2006-2008
- ユレン・ロペテギ 2008-
脚注・出典
- ^ 隣の芝生は青く見える。レアル首脳陣の迷走ぶり。 Number Web、2008年12月9日
関連項目
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サブグループB |