メッシーナ地震
メッシーナ地震 | |
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等震図 | |
本震 | |
発生日 | 1908年12月28日 |
発生時刻 |
04:20:27(現地時間) 04:20:27(UTC) |
震央 |
イタリア王国 メッシーナ海峡 北緯38度09分00秒 東経15度40分59秒 / 北緯38.15度 東経15.683度座標: 北緯38度09分00秒 東経15度40分59秒 / 北緯38.15度 東経15.683度 |
規模 | Mw:7.1 |
最大震度 | 改正メルカリ震度XI |
津波 | 最大12メートル |
被害 | |
死傷者数 |
死者 推定8万2000人 (諸説あり。本文参照) |
被害地域 | メッシーナとレッジョ・ディ・カラブリアを中心とするシチリア、カラブリア |
出典:特に注記がない場合はPino et al. (2009)[1]による。 | |
プロジェクト:地球科学 プロジェクト:災害 |
メッシーナ地震[2](伊: Terremoto di Messina del 1908; 英: 1908 Messina earthquake)[注釈 1]は、1908年12月28日にイタリア南部のシチリア島からカラブリアにかけて発生した地震。地震とそれに伴って生じた津波により、メッシーナ海峡に面した大都市メッシーナとレッジョ・ディ・カラブリアは壊滅的な被害を受けた。犠牲者の数には諸説あり、8万2000人、あるいは10万人以上と推定されている。近代ヨーロッパにおいて最悪の犠牲者を出した地震である。
地震
1908年12月28日(月曜日)午前5時20分頃(現地時間)[6][注釈 2]、メッシーナ海峡を震源域として、モーメント・マグニチュード7.1[1][注釈 3]の地震が発生した。地震の揺れは北東ないし東へ約400km離れたアルバニアやイオニア諸島でも感じられた[1]。地震の揺れが非常に大きいものであったばかりでなく、津波が発生したことで被害が大きなものとなった[1]。津波は、メッシーナ南部およびレッジョ・ディ・カラブリア南部で最大12メートルを記録している[1]。
6,000 km2におよぶ地域でほぼすべての建物が破壊され[1]、メッシーナ海峡に面した2つの大都市、メッシーナ(人口14万人)とレッジョ・ディ・カラブリア(人口4万5000人)は深刻な被害を受けた[1]。特にメッシーナでは地震と津波の襲来によって建築物の90%が破壊された[4]。
メルカリ震度階級は19世紀後半から20世紀初頭にかけて考案・改良されたが、サンフランシスコ地震(1906年)のメルカリ震度 X を上回り、初めて XI が記録された[注釈 4]。メッシーナとレッジョ・ディ・カラブリアの震度について、イタリア国立地学火山学研究所(INGV)の地震データベースは改正メルカリ震度 で X - XI としているが(郊外で最大震度XI)[5]、同じくINGVの写真ギャラリーでは改正メルカリ震度 XI - XII に達したとも記されている[4]。
犠牲者数
メッシーナとレッジョ・ディ・カラブリアをはじめとして、多くの犠牲者が出たと報告されているが、正確な犠牲者は不明である[1]。「15万人いたメッシーナの人口がわずか数百人になり、イタリア全国では20万人が死亡した」とも語られる[6]。推測値には6万人とするものから10万人以上とするものまで、諸説に幅がある[1]。
E. Guidoboni らは8万2000人(地震による死者8万人、津波による死者2000人)としている[1]。日本の宇津徳治も「世界の被害地震の表」で8万2000人を採用しており、日本の気象庁は地震被害の比較にこの数字を引用している[2]。いずれにしても、犠牲者数の面では近代ヨーロッパで最悪の地震であり、世界的に見ても記録的な犠牲者を出した地震の一つであると言える[1][注釈 6]。
被害の状況
メッシーナやレッジョ・ディ・カラブリアでは、被災の時刻を「午前5時21分」として記憶している[4][8]。
この地域の建築物は、脆弱な基礎の上に重い屋根を載せて建てられており、このような大地震に耐えられる構造とはなっていなかった[9]。建築方法・資材の強度が不十分であったばかりでなく、当地で過去15年にわたって頻発していた地震が家屋に損傷を与えていた[1]。救助隊は数週間にわたって瓦礫の中で生き埋めになった人々を捜索した。一家全員が数日後に救出されたケースもあったが、数千人はそのまま埋没死してしまった[10]。
メッシーナでは、あらゆる通信・交通手段(道路・鉄道・電信・電話)が寸断され、電線・ガス・街灯が損傷、津波の襲来によって建築物の90%が破壊された[4]。
救援活動
被災地域の通信・交通は破壊されたため、震災の情報はイタリア海軍の魚雷艇によって、電信線が生き残っていたニコーテラにもたらされたが、それはようやくその日の深夜になってのことであった。震災は世界各地にトップニュースとして伝わり、国際赤十字の支援を受けて国際的な救助活動が行われることになった。
救援活動は海上から行われた[1]。イタリア海軍と陸軍は、捜索と負傷者の手当て、被災者の避難(艦船によって行われた)にあたった。また、略奪者には発砲が行われることになった。被災地には国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世夫妻も到着した[10]。
地震発生直後から現地で救援活動を行い、住民の救助や避難に協力した外部の人々は、港に停泊していた艦船の乗組員であった。たとえばメッシーナ港に停泊していたイギリスの貨物船 SS Afonwen の船長らは被災地での救助活動をおこない、アルバート・メダル (Albert Medal for Lifesaving) を受けている[11]。地中海で活動していたロシア海軍・イギリス海軍は、最初期から救援に入り[1]、水兵によって捜索と瓦礫撤去がすすめられたほか、医官による医療の提供が行われた[1]。
ロシア海軍からは戦艦「ツェサレーヴィチ」「スラヴァ」および巡洋艦「アドミラル・マカロフ (Russian cruiser Admiral Makarov) 」「ボガティル (Russian cruiser Bogatyr) 」が支援を命じられた。また、イギリス海軍からは戦艦「エクスマス (HMS Exmouth (1901)) 」、巡洋艦「ユーライアス (HMS Euryalus (1901)) 」「ミネルヴァ (HMS Minerva (1895)) 」「サトレッジ (HMS Sutlej (1899)) 」が出動した。
フランス海軍からは戦艦「ジュスティス (French battleship Justice) 」「ヴェリテ (French battleship Vérité) 」と駆逐艦3隻が派遣され、アメリカ海軍は世界一周航海を行っていたグレート・ホワイト・フリートと補給艦2隻に支援を命じた [8]。また、ドイツなどほかの国々の艦船も支援活動に応えた[8][10]。
原因
メッシーナ海峡周辺は、カラブリア弧(Calabrian Arc)と呼ばれる地震活動の活発な地域である。カラブリア南部では、この地震に先立って、マグニチュード6以上と推定される地震が1894年 (it:Terremoto della Calabria meridionale del 1894) 、1905年 (1905 Calabria earthquake) 、1907年に発生している[1]。さらに歴史をさかのぼれば、紀元前91年、361年、1509年、1783年 (1783 Calabrian earthquakes) に大地震がこの周辺で発生している[1]。
2008年に発表された Andrea Billi らの研究[12]では、この津波を発生させたのは地震そのものではなく、地震を引き金とした大規模な地滑りであるとの説も提唱されている[1]。
その後
復興と移民
明けて1908年、再建が始まるとともに、防災措置が取られることとなった。建築物は、この地震と同規模の地震に耐えられるように設計された。しかし、復興の進まない中でイタリアのほかの地域に移住する住民も多く、アメリカ合衆国への移民を余儀なくされた人々もいた。
震災による移民がたどった一挿話として、貨客船「フロリダ」の事故が挙げられる。1909年、移民850人の乗客を載せてナポリから出港した「フロリダ」は、大西洋で霧の中で進路を見失い、豪華客船「リパブリック」に衝突、「フロリダ」では3人が即死した。船上で発生したパニックに対して、船長は空中への発砲などの手段をとってようやく沈静化に成功する。地震と海難を生き延びた人々は、救助されてニューヨーク港に到着し、新しい生活を送ることとなったのであった[6]。
地震学研究
この地震は、地震学史上は近代的な計器観測データが残る最初期の大地震の一つでもある[1]。20世紀初頭は地震観測機器の発展がみられた時期で、ウィーヘルト式地震計などが世界各地に配備されるようになった[1]。
メッシーナ地震の記録は、建築・環境と地震被害の関係についての研究材料を提供し、20世紀における地震学研究・防災研究の発展に寄与した[1]。発生直後から、マリオ・バラッタ (it:Mario Baratta) 、G・B・リッツォ(G. B. Rizzo)、ジュゼッペ・メルカリら多くの学者が地震の発生メカニズムについて研究し、規模や被害を推計した。日本の大森房吉も現地に入り、震央や地震規模を推定する論文を発表して研究史に寄与している[1]。
1980年代前半以後、地震学研究にコンピュータが導入されることによってメッシーナ地震の再検討が行われ、等震線の作成や波形のモデリングをはじめとする研究がすすめられた[1]。2000年代以後は津波の発生機序など多くの議論が深められている[1]。
記憶
メッシーナ市は、震災後100周年の2008年に、全長40分あまりのドキュメンタリー映像作品 "Messina 1908" を制作した。震災前の市街や老若男女の市民たちの日常生活の写真をコラージュし、音楽を付したコンピュータアニメーション作品で、歴史的な解説について字幕でなされるほかは音声によるナレーションが排され、震災で失われたものについて観る者が思いを馳せることを意図して製作されている[13]。
Gallery
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瓦礫を掘る兵士(ベルサリエリ)。1908年12月、メッシーナ。
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シチリアの生存者たち。1909年ごろ。
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震災犠牲者の遺体。1908年12月、メッシーナ。
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カターニアへ向かう道路をふさぐ瓦礫の撤去。
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生存者のテント。多くの人々が家を失った。1908年、メッシーナ。
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被災地を撮影する2人の報道カメラマン。1908年12月、メッシーナ。
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破壊されたパルミのサン・ロッコ教会。
脚注
注釈
- ^ このほか、「メッシーナ=レッジョ地震」(英: 1908 Messina and Reggio earthquake[3]; 伊: Terremoto di Messina e Reggio del 1908[4])や、「カラブリア=シチリア地震」(伊: Terremoto calabro-siculo del 1908[4])、「メッシーナ海峡地震」(英: Messina Straits earthquake[1])、「カラブリア南部地震」(伊: Terremoto della Calabria meridionale)[5]に相当する名称も用いられる。
- ^ Rizzo は、メッシーナ観測点への地震波到達時刻である午前5時20分27秒(現地時間、UTC+1)を地震発生時刻とみなした[1]。イタリア国立地学火山学研究所のデータもこの時刻が用いられている[5]。ただし、Pino (2009) はこの数値の正確性に疑問を呈しており、本文中での地震発生についての叙述では時刻を示さず、単に「早朝」(Early in the morning)とのみ記している[1]。
- ^ 宇津徳治「世界の被害地震の表」では、マグニチュード7.0としている[2]。また、マグニチュード7.2[4][7]、7.5[6]などとも推計される。Pino (2009) はさまざまな推計値について表にまとめている。
- ^ 「かつてレッジョ・ディ・カラブリアで教鞭をとったこともあるジュゼッペ・メルカリは、現地のあまりの被害に大きさに衝撃を受け、メルカリ震度にXIを追加した」[8]とも語られるが、実際にはメルカリ震度階級はこの地震以前に12階級として設定されている。
- ^ Pino[1]らが引用する、Guidoboni E., G. Ferrari, D. Mariotti, A. Comastri, G. Tarabusi and G. Valensise (2007), CFTI4Med, Catalogue of Strong Earthquakes in Italy (461 B.C.-1997) and Mediterranean Area (760 B.C.-1500). INGV-SGA
- ^ 1800年以降2010年のハイチ地震までに、5万人以上の死者を生じた地震は世界で12件あるが、その中では唯一のヨーロッパの地震である[2]。
出典
「※」印を付したものは翻訳元に挙げられていた出典であり、訳出に際し直接参照してはおりません。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab Pino, N.A.; Piatanesi, A.; Valensise, G.; Boschi, E. (2009). “The 28 December 1908 Messina Straits Earthquake (Mw 7.1): A Great Earthquake throughout a Century of Seismology” (PDF). Seismological Research Letters 80 (2): 243–259. doi:10.1785/gssrl.80.2.243 2014年6月24日閲覧。. 同誌を発行する Seismological Society of America がウェブ上で公開しているウェブコラム Historical Seismologist でもHTML形式で閲覧可能。Nicola Alessandro Pino らはイタリア国立地学火山学研究所(Istituto Nazionale di Geofisica e Vulcanologia)所属。研究史が整理されている。
- ^ a b c d e 「1800年以降に世界で5万人以上の死者を生じた地震の一覧」、“平成22年1月13日のハイチの地震について” (PDF). 気象庁 (2010年2月5日). 2014年6月23日閲覧。宇津徳治の「世界の被害地震の表」による、としている。なお、「世界の被害地震の表」は国際地震工学センターのサイトにおいて検索可能とされている。
- ^ Santini A. & Moraci N., ed (2008). 2008 Seismic Engineering Conference: Commemorating the 1908 Messina and Reggio Calabria Earthquake (AIP Conference Proceedings). American Institute of Physics. ISBN 978-0-7354-0542-4 December 30, 2011閲覧。 ※
- ^ a b c d e f g “Messina - Reggio Calabria 1908”. Istituto Nazionale di Geofisica e Vulcanologia(イタリア国立地学火山学研究所). 2014年6月25日閲覧。
- ^ a b c “1908 12 28 04:20:27 Calabria meridionale”. INGV Database Macrosismico Italiano 2004 (DBMI04). INGV. 2014年6月25日閲覧。。イタリア国立地学火山学研究所(INGV)の地震データベース。出典として、Boschi E., Guidoboni E., Ferrari G., Valensise G. and Gasperini P. (eds.), 1997. Catalogo dei forti terremoti in Italia dal 461 a.C. al 1980, vol. 2. ING-SGA, Bologna, 644 pp. が示されている。
- ^ a b c d “People & Events Messina Earthquake”. American Experience. PBS(米国公共放送サービス). 2014年6月25日閲覧。
- ^ a b “The world's worst natural disasters Calamities of the 20th and 21st centuries”. CBC News(カナダ放送協会) (Aug 30, 2010). 2014年6月25日閲覧。20世紀以降に大きな被害をもたらした自然災害の一覧表。一覧表全体の出典として U.S. Geological Survey, World Health Organization, Associated Press, disasterrelief.org, NOAA, Guinness World Records, Oxfam.を挙げている。
- ^ a b c d e “After Europe’s worst natural disaster Reggio Calabria commemorates its 1908 earthquake victims”. Calabria Living. 2014年6月25日閲覧。
- ^ Tarr, Ralph Stockman; Martin, Lawrence (1914). College Physiography. New York, New York: The Macmillan Company. pp. 413 ※
- ^ a b c Mowbray, Jay Henry (1909). Italy's Great Horror or Earthquake and Tidal Wave ※
- ^ “Messina Earthquake Awards”. North East Medals. 2014年6月25日閲覧。
- ^ On the cause of the 1908 Messina tsunami, southern Italy ※
- ^ “Documentario fotografico sulla città di Messina - fine "ottocento", terremoto 1908, prima fase della ricostruzione. (Messina 2008)”. Comune di Messina. 2014年6月25日閲覧。
外部リンク
- DBMI04 (INGV) - イタリア国立地学火山学研究所の震度観測データベース
- Messina - Reggio Calabria 1908 - Istituto Nazionale di Geofisica e Vulcanologia(イタリア国立地学火山学研究所)のギャラリー
- Belknap, Reginald Rowan (1910). American House Building in Messina and Reggio: An Account of the American Naval and Red Cross Combined Expedition, to Provide Shelter for the Survivors of the Great Earthquake of December 28, 1908. New York, New York: G. P. Putnam's Sons July 11, 2011閲覧。
- Hichens, Robert (April 1909). “After The Earthquake”. The Century Illustrated Monthly Magazine (Macmillan & Co.) 77 (6): 928–939 July 11, 2011閲覧。.
- Hobbs, W. H. (1909). “The Messina Earthquake”. Bulletin of the American Geographical Society of New York (The American Geographical Society Of New York) 41 (7): 409–422 July 11, 2011閲覧。.
- Perret, Frank A. (April 1909). “The Messina Earthquake”. The Century Illustrated Monthly Magazine (Macmillan & Co.) 77 (6): 921–927 July 11, 2011閲覧。.
- Perret, Frank A. (1909). “Preliminary Report On The Messina Earthquake Of December 28, 1908”. The American Journal of Science (New Haven, CT: Tuttle, Morehouse & Taylor Co.) XXVII (Fourth Series): 321–334 July 11, 2011閲覧。.
- “The Italian Earthquake”. Scientific American Supplement No. 1726: 71–74. (January 30, 1909) July 11, 2011閲覧。.