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上杉勝定

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上杉勝定
時代 江戸時代中期 - 後期
生誕 明和4年(1767年
死没 文政4年11月9日1821年12月3日
改名 達之助(幼名)→勝定
別名 通称:靱負
戒名 大円院殿覚翁道証大居士
墓所 東京都港区白金の興禅寺
官位 従五位下駿河
幕府 江戸幕府
主君 徳川家治家斉
出羽米沢新田藩
氏族 上杉氏
父母 父:上杉重定、母:小川氏娘・お勢の方
養父:上杉勝承
兄弟 女子、幸姫(上杉治憲正室)、勝熙
治広勝定内藤信政
養兄弟:治憲秋月種美次男)
正室:大久保忠興
上杉勝義正室
養嗣子:勝義上杉勝熙四男)
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上杉 勝定(うえすぎ かつさだ)は、江戸時代中期から後期にかけての大名出羽国米沢新田藩3代藩主。

経歴

明和4年(1767年[1]米沢藩8代藩主・上杉重定の三男として誕生。

米沢新田藩2代藩主・上杉勝承の弟・勝職が、安永9年(1780年)には既に旗本金田家を相続していたこともあり、天明3年(1783年)11月29日、勝承の養嗣子となる。その手続きのため同年8月に出府する際、義兄で米沢藩9代藩主・上杉治憲(鷹山)より訓辞1編を与えられる。

天明5年(1785年)の勝承の死去により家督を継いだ。文化12年(1815年)11月9日に隠居し、家督を養嗣子で甥・勝義に譲る。

文政4年(1821年)11月9日、死去。享年55。

脚注

  1. ^ 明和6年(1769年)1月8日生まれとする説もある。