コンテンツにスキップ

クセルクセス1世

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。Jun324 (会話 | 投稿記録) による 2017年5月20日 (土) 06:19個人設定で未設定ならUTC)時点の版であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

クセルクセス1世
خشایارشا (khašāyāršā)
ペルシア大王
在位 紀元前485年 - 紀元前465年
戴冠式 紀元前485年10月
別号 エジプト王(ファラオ

出生 紀元前519年
死去 紀元前465年
配偶者 アメストリス英語版
子女 アルタクセルクセス1世
王朝 アケメネス朝
父親 ダレイオス1世
母親 アトッサ
宗教 ゾロアスター教
テンプレートを表示

クセルクセス1世古代ペルシア語: 𐎧𐏁𐎹𐎠𐎼𐏁𐎠 - Hašayārašā - ハシャヤーラシャー, 英語: Xerxes I)は、アケメネス朝ペルシアの王(在位:紀元前486年 - 紀元前465年)。

名称

ハシャヤーラシャーに近い発音

古代ペルシア語: 𐎧𐏁𐎹𐎠𐎼𐏁𐎠 - Hašayārašā - ハシャヤーラシャー、ペルシア語:خشایارشا (khašāyāršā)。

クセルクセスに近い発音

古代ギリシア語: Ξέρξης - Xerxēs - クセルクセス。

アハシュエロスに近い発音

ラテン語:Ahasuerus、ヘブライ語:אֲחַשְׁוֵרוֹשׁ - Ăḫašwērôš - アハシュエロス。

略歴

ナクシェ・ロスタムにあるクセルクセスの墓。

ダレイオス1世アトッサの息子。

クセルクセス1世の在位期間に関しては、紀元前496年-紀元前475年ごろではないかとの説もある。これはペルセポリスから出土した銘文に父ダレイオス1世との共同統治期間が示唆されているためである。

バビロニアエジプト地方に起きた反乱を武力鎮圧。

ペルシア戦争期

紀元前480年、海・陸の大軍を整えギリシア遠征を企てる。遠征の際、ヘレスポントス海峡に船橋を架け、アトス岬に運河をきり開いて遠征軍を進め、アルテミシオンの海戦(Artemision)でギリシア海軍と戦う。この戦いはヘロドトスの『歴史』によればギリシア海軍がやや優勢であったが、後述のテルモピュライの戦いでギリシア連合軍の陸軍が敗北したためギリシア海軍が自主的にサラミスへ撤退した。

同年8月、テルモピュライの戦いでスパルタレオニダス1世を敗死させる。9月アッティカ地方を遠征したが、サラミスの海戦(Salamis)で敗れ、帰国。

紀元前479年8月、マルドニオスの率いる陸軍はプラタイアの戦い(Plataiai)で敗北、敗残海軍はミュカレの戦い(Mykale)で撃滅され、ギリシア軍の反撃に苦しむ。

ギリシア遠征で大打撃を受けたクセルクセスは帰国し、事実上クセルクセスのギリシア遠征は失敗に終わった。その後、ペルシアは大規模なギリシア遠征を行うことも無かったが、ペルシア戦争自体は息子のアルタクセルクセス1世カリアスの和約を結ぶまで継続している。

暗殺

帰国後、有名な万国の門英語版(クセルクセス門とも)などの大規模な建築事業を数多く行ったが、これにより国の財政がさらに圧迫され、次第に国力が衰えた。

最期は側近アルタバノス英語版に暗殺された。

逸話

王はまた「性剛情」とされ、アフラマズダ神の崇拝を強行しようとしたといわれる。 またアフリカを周航させたともいわれる。

エステル記

旧約聖書』の「エステル記」に登場するペルシアの王アハシュエロスen)は、クセルクセス1世をさしていると伝統的に考えられている。「エステル記」では、アハシュエロスは后妃ワシュティ英語版アメストリス英語版。ワシテとも)が反抗的であるためこれを廃し、その代わりとしてユダヤ人の乙女エステルを后妃とする。大臣がユダヤ人を絶滅しようとする企みを抱いていることを知ったエステルは叔父モルデカイと謀り、かえって大臣を死刑に追い込む。モルデカイは王の宰相となる。主要登場人物であるエステルとモルデカイに史実性はないが、同型の伝説はペルシアにも存在する。

関連する本など

音楽

映画

関連項目


先代
ダレイオス1世
アケメネス朝の王
紀元前486年 - 紀元前465年
次代
アルタクセルクセス1世
先代
ダレイオス1世
古代エジプト王
197代:紀元前521 - 紀元前486
次代
アルタクセルクセス1世