インジュー朝
インジュー朝(いんじゅーちょう ペルシア語: آل اینجو Āl-i Īnjū, 生没年:1303年 - 1357年)は、ファールス地方を中心に現在のイランを支配した王朝である。首都はシーラーズ。
歴史
成立
インジュー朝の創始者はシャラフッディーン・マフムード・シャーといい、イルハン朝の全盛期を築いた英主のオルジェイトゥに仕えてファールスの地方長官に任命された。インジュー(イーンジュー اينجو īnjū)とは本来モンゴル語で「私有財」を意味する emčü に由来する単語で、イルハン朝では転じて「王(すなわちイルハン朝君主)ないし王家の私領」「王領地」を意味する用語でもあった。他にもイルハン朝で有力重臣に与えられる称号でトルコ語では「真珠」を意味している。
マフムード・シャーは地方長官の地位を利用して勢力を蓄えた。オルジェイトゥの没後は息子のアブー・サイードに仕えたが、対立して長官の地位を解任された。そのためイルハン朝と対立しファールスを奪回しようとするも失敗。1335年にアブー・サイードが没すると後継者として立ったアルパ・ケウンと対立するも1336年に殺害された。
没落と滅亡
マフムード・シャーの息子のマスウード・シャーは、イルハン朝が混乱期に入ると実力者としてタブリーズなどを支配していたジャライル朝のタージュッディーン・ハサン・ブズルグを頼って逃亡。ハサンは援軍としてチョバン家出身のピール・フサイン(チョバンの四男シャイフ・マフムードの息子)を与えて帰国させマフムード・シャーは彼と共同してファールスを統治するが、1343年に対立して殺害された。ピール・フサインはマスウードの弟であるアブー・イスハークを擁立して実権を握るが、アブー・イスハークはチョバン朝のシャイフ・ハサンと連合してピール・フサインを追放・殺害して実権を取り戻した。
だが1353年にピール・フサインの後援によってヤズドとケルマーン両地方を領していたムザッファル朝のムバーリズッディーン・ムハンマドの攻撃を受けてシーラーズが陥落する。アブー・イスハークはイスファハーンに逃れるも、ここも4年後にムバーリズッディーン・ムハンマドによって陥落させられて捕らえられて殺され、インジュー朝は崩壊した。
歴代君主
- シャラフッディーン・マフムード・シャー(在位:1303年 - 1336年)
- マスウード・シャー(在位:1336年 - 1343年) - 先代の息子
- アブー・イスハーク(在位:1343年 - 1357年) - 先代の弟
参考文献
- ドーソン(訳注:佐口透)『モンゴル帝国史 6』(1979年、平凡社、ISBN 4582801102)
関連項目