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木戸克彦

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木戸 克彦
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 大阪府堺市西区
生年月日 (1961-02-01) 1961年2月1日(63歳)
身長
体重
178 cm
91 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 捕手
プロ入り 1982年 ドラフト1位
初出場 1983年4月24日
最終出場 1996年10月9日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴
国際大会
代表チーム 日本の旗 日本代表

木戸 克彦(きど かつひこ、1961年2月1日 - )は、大阪府堺市西区出身の元プロ野球選手捕手)・コーチ監督解説者評論家

経歴

プロ入りまで

堺リトルリーグ出身。小学6年時には堺市の小学6年生が集まって毎年行われている連合運動会でソフトボール投げに出場し、当時の最高記録を樹立。長らくその記録は破られなかった。その後破られ、今の最高記録は木戸ではない。『週刊ベースボール』の江夏豊の連載によれば、浜寺中学校出身の阿野鉱二和田徹・木戸の元プロ野球選手3人を「浜寺の3選手」と呼び、野球界では有名な呼び名だと書いている。

PL学園高では鶴岡泰監督の指導を受け、1年次の1976年秋から正捕手となる。1年上の米村明とバッテリーを組むが、甲子園には届かなかった。3年次の1978年には同期の西田真二とバッテリーを組み、甲子園に春夏連続出場。春の選抜は準々決勝で箕島高石井毅に完封を喫するが、夏の選手権準決勝では中京高と対戦し、9回裏に4点差を追いつき、延長12回の熱戦の末に勝利。決勝でもエース森浩二を擁する高知商業高に9回裏逆転サヨナラ勝ちで優勝を飾り、奇跡的な勝利から『逆転のPL』と呼ばれた。高校卒業後の1979年、西田と共に法政大学へ進学し、東京六大学リーグでは在学中3度の優勝を経験。和田護(日産自動車)・田中富生らとバッテリーを組み、リーグ通算76試合出場、274打数84安打、打率.307, 5本塁打、33打点を記録。2年次の1980年秋から5季連続でベストナインに選出され、4年次の1982年には主将も務めた。3年次の1981年から2年連続で日米大学野球選手権大会日本代表に選出されている。

現役時代

巧みなリードや強肩が評価され、同年のドラフト1位で阪神タイガースに入団。大学の先輩である田淵幸一西武へ移籍して以来空番になっていた背番号「22」が与えられたが、1年目の1983年はプレッシャーもあって腰痛が悪化して戦線離脱[1]和歌山県東牟婁郡那智勝浦町の勝浦温泉病院で3ヶ月間、連日4時間のリハビリ治療を受ける[2]。入院中は1分間体操を中心に患部を鍛える運動が続いたが、激痛は走り、疲労困憊であった。1ヶ月が経過しても苛立ちは募るばかりで、リハビリをする部屋からは紀勢本線が見え、その内に上り下りを往き来する電車によって時間が分かるようになった[2]。固いベッドがひとつの殺風景な狭い部屋で悶々とした日々が続いたが、途中から交通事故を起こして入院してきた若い一般女性の姿を見て、自分を見つめ直した木戸は気持ちを切りかえ、リハビリに打ち込んだ[2]。同年は笠間雄二が正捕手に固定され、木戸は二軍生活が続き、一軍では8試合出場に終わる。2年目の1984年山川猛が正捕手に固定され、26試合出場であった。入団から2年間は二軍とブルペン生活が続いたが、柴田猛一軍バッテリーコーチから時に鉄拳制裁も与えられるほどの厳しい指導で鍛えられた[3] [4]。3年目の1985年吉田義男監督が就任すると開幕から正捕手に抜擢され、3年目とは思えない理詰めのリードと冴えた勝負勘[5]、二塁への安定感あるスローイングなどのサポートぶりで、ベテランから若手まで投手陣から信頼を集めていく[1]。一方の打撃では、ニューダイナマイト打線の8番という下位の打順も思い切りの良さにつながる[1]。クリーンアップの『バックスクリーン3連発』がリーグ優勝への起爆剤となったシーズンであったが、木戸も6月15日大洋戦(甲子園)では2回裏に金沢次男、5回裏に堀井幹夫、そして7回裏に青木秀夫から、いずれも左翼席へ3打席連続本塁打を記録[1]。終盤こそ失速したが、6月までに9本塁打を放っている[1]規定打席未満ながら自己最多で唯一の2桁となる13本塁打を放ったが[6]、13本はほとんど左翼方向への本塁打で、時には右翼方向にもシュアな打撃を見せた。特に巨人戦に強く、32打点のうち15打点を巨人から記録[1]。リードには木戸独自の哲学があり、ストライクゾーンを通った球ではなく、空振りやファウルがストライクで、ボールは安打にしにくい球であり、追い込んだらボール球を投げさせて空振りを奪うのが一番だと考えた。投手が投げたい球も考えてそれを察知するのがバッテリーの理想的な関係で、投手を勝たせるのが良い捕手というものであった[1]。21年ぶりのリーグ優勝と球団史上初の日本一に貢献し、ダイヤモンドグラブ賞も受賞[5]1986年嶋田宗彦と激しいレギュラー争いを演じるが、同年から阪神の失速と比例するように打撃も失速[1]。それでもこの競争に勝ち抜き、1988年には自己最多の121試合出場で自身唯一の規定打席到達と正捕手の座は譲らなかったが[1]、このシーズンは12個のパスボールを喫した。1989年には原辰徳との本塁クロスプレーで左剥離骨折しただけでなく、眼鏡のレンズが割れて顔面に刺さって、眼に影響はなかったが全治4週間の大ケガを負った[1]1990年まで定位置を守ったが、慢性的な右肩の故障もあり、1990年代山田勝彦関川浩一に捕手の1番手を譲った[1]。3人でローテーションを組むような体制となったが、リードの評価は変わらず高く、1991年に入団した左腕の湯舟敏郎とは特に相性が良かった[1]1992年6月14日広島戦(甲子園)では「まだ俺はノーヒットノーランの球を受けたことがないから、お前、絶対に打たれるな」と二軍落ちの直前であった先発の湯舟にハッパをかけ、ノーヒットノーランを達成させている[1]。若手投手には試合中にベンチ裏で気合いを入れたこともあり、グラウンドに戻ると見違えるような投球をした投手は少なくなかったが[5]、コーチ兼任となった1996年引退。現役時代は中西清起平田勝男・木戸の3人で「NHKトリオ」と呼ばれていた。

現役引退後

引退後も阪神に残り、一軍バッテリーコーチ(1997年 - 1998年2001年 - 2002年)、二軍バッテリーコーチ(1999年)、一軍ブルペンコーチ(2000年)、二軍監督(2003年 - 2005年)を務めた。2001年には野村克也監督から通常は投手コーチの役割である、ピンチの場面や投手交代時にマウンドに駆けつける役も任せられた。2001年オフに野村の推挙で秋季キャンプのみヘッドコーチに就任したが、野村が監督を辞任したことにより、一軍バッテリーコーチに再転換された。二軍監督時代には2度のウエスタン・リーグ優勝(2003年・2005年)に導いたが、島野育夫一軍総合コーチの二軍監督就任に伴い退任。2006年より朝日放送サンテレビ解説者と日刊スポーツ評論家に就任し、同年度下半期、毎週土曜日に自らの冠番組虎バン主義。木戸克彦 だからやっぱりタイガース→虎街道まっしぐら』を担当。2008年に一軍作戦兼バッテリーコーチとして阪神に復帰したが、朝日放送・サンテレビ・日刊スポーツとの契約が3月まで残っていたため、コーチ業の傍ら番組にも出演し、春季キャンプの状況を報告していた。キャンプでは狩野恵輔が紅白戦でミスを犯し、さらにはバッターと会話したことに激怒して怒鳴りつけるなど、選手に対し厳しい指導を行った。ただし、狩野に対しては怒る一方でフォローもしていた。2009年からはヘッドコーチに昇格したが、2011年限りで辞任[7]2012年からは球団フロントの編成本部付(次長待遇)となったが、同年9月5日付で次長待遇のままゼネラルマネージャー補佐となり、中村勝広ゼネラルマネージャーの急逝に伴う編成変更で2015年10月1日付で球団本部付次長となる。2017年10月、球団本部部長(プロスカウト担当)を務めながら、女子野球日本代表ヘッドコーチに就任[8]

エピソード

  • 巨人時代の清原和博が唯一といっていいほど逆らえなかった人物。阪神戦で清原が危険球などで投手に向かっていっても、木戸が出てくれば収まることが何度かあった[1]。木戸は清原のPL学園高校入学の前年にプロ入りしており、野球部全盛期でOB崇拝も強かった同校においては雲上人であった。またPL時代、西田があまりにも不感心な言動をとったのに耐えかね、西田に鉄拳を見舞ったとの逸話が伝えられている。しかし西田とは一期下の小早川毅彦を交え、法大卒業まで私生活でも親交は深かったという。
  • 1985年8月12日、阪神球団社長中埜肇が犠牲になった日本航空123便墜落事故の当日、この事故機(JA8119)が123便として羽田で折り返す前の、福岡羽田行き366便に遠征のため搭乗していたという逸話を持つ。チームは前日の11日平和台中日戦、13日から後楽園で巨人戦が組まれていたため、事故発生当日は福岡から東京への移動日だった。また木戸の妻は123便に搭乗予定だったが直前にキャンセルしており難を逃れた。
  • 妻との間には一女があり、娘の出生を公表時、命名はどうするのかと質問したマスコミに、姓が「木戸」なので「ルナ(=気取るな)にしようかと考えている」と駄洒落を交えたジョークを飛ばした。

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1983 阪神 8 9 6 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 3 0 0 3 0 .000 .333 .000 .333
1984 26 28 23 2 5 2 0 0 7 2 0 0 3 0 1 0 1 5 2 .217 .280 .304 .584
1985 103 358 295 34 71 5 1 13 117 32 0 0 18 2 41 9 2 41 8 .241 .335 .397 .732
1986 95 237 203 16 46 12 0 5 73 23 0 0 10 2 22 2 0 32 10 .227 .300 .360 .659
1987 101 275 235 26 56 9 0 6 83 18 1 1 11 1 26 8 2 27 10 .238 .318 .353 .671
1988 121 408 351 34 89 14 1 6 123 38 0 1 19 2 35 6 1 62 8 .254 .321 .350 .672
1989 93 317 280 22 69 14 1 6 103 32 3 1 13 2 21 1 1 49 7 .246 .299 .368 .667
1990 102 264 230 19 54 7 0 5 76 30 0 1 7 2 21 3 4 49 7 .235 .307 .330 .638
1991 80 185 163 14 37 7 1 5 61 24 0 2 4 0 18 3 0 36 6 .227 .304 .374 .678
1992 63 99 89 8 9 1 0 2 16 10 1 0 3 0 7 0 0 21 3 .101 .167 .180 .346
1993 49 125 112 8 25 8 0 1 36 6 1 0 3 0 10 0 0 25 5 .223 .287 .321 .608
1994 34 73 67 5 19 5 0 1 27 1 0 0 1 0 5 0 0 8 0 .284 .333 .403 .736
1995 50 108 91 4 16 2 0 0 18 6 1 0 2 1 14 1 0 22 4 .176 .283 .198 .481
1996 40 52 47 7 9 3 1 1 17 4 1 1 1 0 4 1 0 13 2 .191 .255 .362 .617
通算:14年 965 2538 2192 199 505 89 5 51 757 226 8 7 95 12 228 34 11 393 72 .230 .305 .345 .650

年度別守備成績



捕手










1983 阪神 8 13 9 4 .308
1984 25 15 10 5 .333
1985 102 114 74 40 .351
1986 93 71 50 21 .296
1987 101 68 47 21 .309
1988 121 109 78 31 .284
1989 93 95 65 30 .316
1990 97 93 65 28 .301
1991 76 63 45 18 .286
1992 61 31 24 7 .226
1993 49 34 27 7 .206
1994 30 25 18 7 .280
1995 47 33 22 11 .333
1996 40 28 19 9 .321
通算 943 792 553 239 .302

表彰

記録

初記録
その他の記録

背番号

  • 22(1983年 - 1996年)
  • 70(1997年 - 2005年、2010年 - 2011年)
  • 91(2008年 - 2009年)

関連情報

出演番組

朝日放送テレビ
朝日放送ラジオ
サンテレビ

書籍

脚注

関連項目

外部リンク