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西野藤助

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西野 藤助(にしの とうすけ、1878年(明治11年)12月27日1934年(昭和9年)9月18日)は、日本実業家福井県人絹織物王国にした立役者。

福井撚糸(現在のセーレン株式会社(英: SEIREN CO.,LTD.))、福井紡績(現在のダイワボウホールディングス株式会社)などを設立し、代表を務める。

1932年(昭和7年)に福井人絹取引所を開設し初代理事長となる。1934年(昭和9年)9月18日死去。享年57歳。福井県出身。福井県多額納税者、没後に正六位の位記を追賜。

西野 藤助(にしの とうすけ)
西野藤助の肖像写真
西野藤助の肖像写真
生誕 1878年明治11年12月27日今立郡岡本村(現在の福井県越前市定友町)

にて、西野市兵衛(源助) 四男として誕生。

死没 1934年昭和9年)9月18日(57歳没)
国籍 日本
職業 実業家
著名な実績 福井撚糸(現在のセーレン株式会社)の設立

福井紡績の設立福井人絹取引所を開設

受賞 没後に正六位の位記を追賜[1]


経歴等

1913年(大正2年)10月 福井県内の蚕糸業者をまとめ、海外との取引も見込んで

福井蚕糸商組合を組織し組長に就任[2]

1916年(大正5年)5月 羽二重織物の精錬を目的とする福井撚糸染工株式会社[3]

創設する。(現在のセーレンの前身)

1919年(大正8年)9月 米国で開催された国際労働会議に松井文太郎(衆議院議員)と

共に出席[4]

1922年(大正11年)3月 モスリン製織をする、福井織物株式会社を組織し代表に就任[5]
1923年(大正12年)6月 輸出の羽二重製造を行う、日の出織物株式会社を設立し代表に

就任。この会社は820台の自動織機を備え東洋一の設備を誇った

1923年(大正12年)9月 福井撚糸染工株式会社の拡大の為、周辺の同業他社を個人で

買収し合併させ福井精錬加工株式会社を新たに設立し代表に

就任する(現在のセーレン株式会社)

1925年(大正14年)6月 福井染色株式会社創設、社長に就任
1926年(大正15年)12月 福井紡績株式会社(後の大和紡績、現ダイワボウ)を設立し

社長に就任

1927年(昭和2年)6月 福井染色加工組合を設立
1930年(昭和5年)2月 福井レーヨン商組合が成立、組合長に就任
1932年(昭和7年)5月 日本で初めての人絹取引所である福井人絹取引所を開所
1933年(昭和8年)5月 インドで開催された日印会商では政府代表として出席
1933年(昭和8年)9月 福井レーヨン商組合長、福井人絹取引所理事長、商工会議所

会頭を歴任する。

1934年(昭和9年)9月 社会事業育成のため120万円(現在の30億円)を当時の県知事

近藤駿介氏に福井の産業振興に役立てるため提供し、その内

30万円(現在の7億円)が人絹会館の建設費に充てられた。

1934年(昭和9年)9月 人絹会館の完成を待たず肝臓癌で急逝。57歳
1934年(昭和9年)10月 藤助氏の意志を継いだ福井人絹取引所幹部による人絹会館

建設委員会を結成し会館建設に着手。清水組(現在の清水建設)

に建設を発注する。

出典

  1. ^ https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000039-I1027808
  2. ^ 沿革(あゆみ)” (英語). 2024年3月29日閲覧。
  3. ^ 図説福井県史 近代20 羽二重から人絹へ(1)”. www.library-archives.pref.fukui.lg.jp. 2024年3月29日閲覧。
  4. ^ 松井文太郎”. www6.plala.or.jp. 2024年3月29日閲覧。
  5. ^ 『福井県史』通史編6 近現代二”. www.library-archives.pref.fukui.lg.jp. 2024年3月29日閲覧。


外部リンク


参考文献