知恵の館
知恵の館(ちえのやかた)は、830年、アッバース朝の第7代カリフ・マアムーンがバグダードに設立した図書館であり[2]、天文台も併設されていたと言われている。
サーサーン朝の宮廷図書館のシステムを引き継いだもので、諸文明の翻訳の場となった[3]。「知恵の館(バイト・アル=ヒクマ)」は「図書館」を指すサーサーン朝の呼び名の翻訳だと言う。
アラビア語名称
アラビア語表記
بَيْتُ الْحِكْمَةِ
主なラテン文字転写
Bayt al-Ḥikmah、Bayt al-Ḥikma もしくは Bait al-Ḥikmah、Bait al-Ḥikma
Baytの「-ay-」は実際には二重母音アイ(-ai-)となるため海外資料・記事のラテン文字転写では2通りの表記が見られる。
また複合語語末の ـة(ター・マルブータ)は文語アラビア語(正則アラビア語、フスハー)では本来休止形において ـه(h)の音で発音されることから al-Ḥikmah という転写が存在する根拠となっている。
なお現代会話では ـة(ター・マルブータ)は t とも h とも発音されず黙字として読み飛ばすため、al-Ḥikma という転写も広く用いられている。
実際の発音
ラテン文字転写の通り分かち書きをするとバイト・アル=ヒクマとなるが、アラビア語ではこれらをつなげ読みするため baytu-l-ḥikma(h) すなわち baitu-l-ḥikma(h), バイトゥ・ル=ヒクマ(バイトゥルヒクマ)と発音される。また口語アラビア語ではuがo寄りで発音される(baito-l-ḥikma(h))こともあり、バイトルヒクマというカタカナ表記が用いられている例も見られる。
主要活動
ギリシア語の学術文献の、アラビア語への翻訳であった[2]。時にはシリア語を介しての翻訳になった。
国家事業として、医学書・天文学(占星術を含む)・数学に関するヒポクラテス・ガレノスなどの文献から、哲学関係の文献はプラトン・アリストテレスとその注釈書など、膨大な書物が大々的に翻訳された(「大翻訳」)。また、使節団を東ローマ帝国に派遣して文献を集めることもあった。
衰退
10代カリフ・ムタワッキル(在位:847年 - 861年)はマアムーン時代から続くムウタズィラ学派擁護政策を放棄した。これはムウタズィラ派の極端な合理主義・思弁主義的思想に反発する形で擡頭して来た伝統主義者、いわゆる「ハディースの徒(アフル・アル=ハディース ahl al-ḥadīth )」に配慮したものであった。「ハディースの徒」と呼ばれた伝統主義の人々の立場は、おもにイスラーム法の法源は第1にはクルアーンであり、預言者ムハンマドにまつわるハディースはこれに次ぐものとしていた。アッバース朝初期の神学論争ではクルアーンやハディースで語られている「唯一なる神アッラーの絶対性」を巡る議論が交わされていたが、「ハディースの徒」をはじめとする伝統主義の考えでは、「クルアーン創造論」を巡る論争のようにムウタズィラ派にみられるようなギリシア・ローマ哲学流の「合理主義」的な経典解釈ではクルアーンやハディースで語られている「アッラーの絶対性」を損ねるものと受け止められ、一般的なムスリム信徒たちの宗教的な心情とも遊離しつつあった[4]。また、ムウタズィラ派系の人々が使用していたアラビア語の術語は、従来のアラビア語では見られないようなギリシア語的な翻訳語を多用する場合が多く、ハディース学・伝承学の分野で必須の伝統的なアラビア語文法学を修めた伝統主義的な学識者にとって、ムウタズィラ派の人々の論説で使われている言い回しは「アラビア語らしからぬ新奇な表現」と映った[5]。ムタワッキルの時代はサーマッラーに遷都したままであり、カリフからの庇護を失った「知恵の館」も翻訳活動においてアラビア語を優先するそのクルアーンやハディースの解釈には伝統的なアラビア語学の知識が不可欠であったのと以降の反動期によって、活動が急速的に衰えていくこととなった。
1258年のモンゴル帝国によるバグダードの戦いによりバグダードが陥落した時に、知恵の館もその膨大な文書と共に灰燼に帰した。
スタッフ
スタッフの多くは、シリアのネストリウス派や非カルケドン派(合性論派)のキリスト教徒、ハッラーン出身のサービア教徒であった。
ローマ帝国主要部のキリスト教は、4世紀から6世紀にかけて、「イエス・キリストは神の属性のみを持つ」という思想(単性論:正統派とされた側からは合性論もその一種と見なされた)と、その逆に「キリストの位格は神格と人格との2つの位格に分離される」という思想(ネストリウス派)を異端としてしまった。そのため、ネストリウス派などは東方に逃れることとなった。
- ヤハヤー・イブン=マーサワイヒ - 初代館長。キリスト教徒
- フナイン親子 - 翻訳家。キリスト教徒
- クスター・イブン=ルーカー - 翻訳家。キリスト教徒
影響
翻訳のおかげで、イスラム世界のさまざまな人々が、アラビア語で学問を論じ始め、アラビア語は知的言語・共通言語としての力を高めることともなった。
古代ギリシアからヘレニズムの科学や哲学などの伝統が、イスラム世界に本格的に移植・紹介され、独自の発展をたどることとなる。
ユダヤ教徒も、サアディア・ベン・ヨセフやマイモニデスは言うまでもなく、哲学関係の書をアラビア語で読み書きするようになった。それまでユダヤ教徒の間ではアラム語やギリシア語が共通語・日常語であったが、アラビア語に取って代わられるようになった(ユダヤ教やシナゴーグ、聖書解釈・詩作といったものなどに関する場面以外は、アラビア語で話し、書くようになっていった)。
その後
その後、12世紀を最後に、イスラム世界におけるギリシア哲学研究は停滞し始め、ユダヤ教徒も次第に哲学に関してヘブライ語で書くようになり(書き言葉としてのヘブライ語の復興)、ラテン語を学ぶユダヤ教徒も出てくる。
脚注
- ^ アル・ハリーリー 『マカーマート 中世アラブの語り物(1)』 堀内勝訳、平凡社〈東洋文庫 780〉、2008年、99-125頁
- ^ a b 金子 光茂 (2000), “西欧文明の基礎を築いたイスラーム”, 大分大学教育福祉科学部研究紀要 22 (1): p. 123 2009年10月27日閲覧。
- ^ 谷崎 秋彦 (2006), “翻訳の運命と目的地 ベンヤミンの翻訳論”, 東京工芸大学工学部紀要. 人文・社会編 29 (2): 16, ISSN 03876055 2009年10月27日閲覧。
- ^ 井筒俊彦「ムアタズィラ派の合理主義」『イスラーム思想史』中公文庫、初版1991年、54-65頁
- ^ 竹下政孝「論理学は普遍的か --アッバース朝期における論理学者と文法学者の論争--」『イスラーム哲学とキリスト教中世 2 実践哲学』(竹下政孝、山内志朗編)岩波書店、2012年