井伊直宗
表示
時代 | 戦国時代中期 |
---|---|
生誕 | 不明 |
死没 | 天文11年1月29日(1542年2月13日)?[1] |
戒名 | 化蔵院殿心翁昌安大居士[2] |
墓所 |
龍潭寺(浜松市浜名区引佐町井伊谷)[3] 如意院(浜松市浜名区引佐町東久留女木)[4][5] |
官位 | 宮内少輔(受領名)[1] |
主君 | 今川義元 |
氏族 | 井伊氏 |
父母 | 父:井伊直平、母:井平安直娘[6] |
兄弟 |
直宗、直満、直義、直元、井平直種[6] 女(今川義元側室→義元養妹→関口親永室?)[1][7] 養兄弟?:南渓瑞聞 [注釈 1] |
妻 | 浄心院(井平直郷娘)[6] |
子 | 直盛 |
井伊 直宗(いい なおむね)は、戦国時代の武将。今川氏の家臣。遠江国引佐郡井伊谷城主・井伊直平の嫡男[1][2]。
人物
[編集]井伊氏は遠江の国人であるが、父直平の代から今川氏の家臣となっていた。父から家督を譲られて当主となったが、天文11年(1542年)正月29日、今川義元に従い三河国田原城攻めに参加したが戦死[10]。子の直盛が跡を継いだ。
直宗の妻・浄心院は如意院を建立し、菩提を弔った[4]。
没年とされる天文11年(1542年)は『寛政重修諸家譜』に基づくものである[1]が、同年には今川氏による田原城攻めは行われておらず、三河攻めは天文15年(1546年)の後半以降からであるため、疑問が存在する。『朝野旧聞裒藁』収録の「井家新譜」では天文20年(1551年)1月、『井伊氏系図』では天文23年(1554年)[2]とされている。また、戦国史研究者の大石泰史は天文11年(1542年)は崩し字を写し間違えたことによる誤りで、実際は天文16年(1547年)に田原城で戦死した可能性が高いのではないかとしている[11]。
また、『井伊家伝記』『寛永諸家系図伝』『寛政重修諸家譜』などの史料では直宗の事績についてほとんど記されず、子の直盛が天文8年(1539年)段階から文章を発給するなど当主的な活動をしていることや、直平・直盛の年齢差が場合によっては17歳になることから、直宗の存在を疑う向きもある[12]。
また鈴木将典によると、同時代史料を見ると井伊直宗と井伊直親は実在した形跡がなく、後世に作成された系図で初めて存在が見られるとし、その存在を疑問視している[13]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d e 『寛政重修諸家譜 第4集』、1111頁、564コマ目。
- ^ a b c 『井伊氏系図』、2コマ目(直宗 共保十四代)。
- ^ “龍潭寺境内墓所図(井伊家歴代・龍潭寺歴代住職 南渓・傑山・昊天・家臣)”. 龍潭寺. 2017年9月23日閲覧。
- ^ a b 夏目 2016, p.147.
- ^ “ゆかりの地|井伊直虎サイト”. 「おんな城主 直虎」推進協議会. 浜松市産業部観光・シティプロモーション課. 2017年9月23日閲覧。
- ^ a b c “井平城(浜松市北区引佐町伊平) 武田の予想超える行軍裏付け”. 産経新聞 (産経新聞社). (2017年5月7日) 2017年9月23日閲覧。
- ^ 『井伊年譜』1巻、19-20コマ目。
- ^ 『井伊氏系図』、2コマ目(直平 共保十三代)。
- ^ 小和田 2016, p.94.
- ^ 大石 2016, p.120.
- ^ 大石 2016, pp.120-122.
- ^ 大石 2016, pp.123-124.
- ^ 鈴木 2017, p.130.
参考文献
[編集]- 祖山法忍『井伊氏系図』。浜松市立中央図書館 浜松市文化遺産デジタルアーカイブ
- 功力君章『井伊年譜』 1巻。国立国会図書館デジタルコレクション
- 三上参次 編『寛政重修諸家譜 第4集』国民図書、1923年。国立国会図書館デジタルコレクション
- 小和田哲男『井伊直虎 戦国井伊一族と東国動乱史』洋泉社、2016年。ISBN 978-4800310385。
- 夏目琢史『井伊直虎 女領主・山の神・悪党』講談社〈講談社現代新書〉、2016年。ISBN 978-4062883948。
- 大石泰史『井伊氏サバイバル五〇〇年』星海社新書、2016年。ISBN 978-4061386020。
- 鈴木将典『国衆の戦国史 -遠江の百年戦争と「地域領主」の興亡-』洋泉社、2016年。ISBN 978-4061386020。