コンテンツにスキップ

小藤田正一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
こふじた しょういち
小藤田 正一
小藤田 正一
歌舞伎出版部『歌舞伎 第2年』第4号臨時増刊(1926)より
本名 藤田 眞砂生 (ふじた まさお)
生年月日 (1916-12-02) 1916年12月2日
没年月日 不詳年
出生地 日本の旗 日本 東京府東京市本郷区湯島(現在の東京都文京区
身長 160.5cm
職業 俳優、元子役
ジャンル 新派劇映画時代劇現代劇サイレント映画トーキー)、テレビドラマ
活動期間 1920年 - 1964年
配偶者
主な作品
がまぐち
正ちゃんの蒲田訪問
大人の見る繪本 生れてはみたけれど
テンプレートを表示

小藤田 正一(こふじた しょういち、1916年12月2日 - 没年不詳)は、日本の俳優、元子役である[1][2][3][4][5][6]。本名は藤田 眞砂生(ふじた まさお)[1][2][3][4][5][6]。武田正憲一座、河合武雄一座など、様々な新派劇の出演を経て、大正後期には井上正夫と共に松竹蒲田撮影所で活躍した名子役として知られる[1]

来歴・人物

[編集]

1916年(大正5年)12月2日東京都東京市本郷区湯島(現在の東京都文京区湯島)に生まれる[1][2][3][4][5][6]。1955年(昭和30年)3月に発行された『キネマ旬報』には、生年は「大正五年一二月一五日」(1916年12月15日)である旨が記されている[7]

1920年(大正9年)、満4歳の時に子役として新劇俳優武田正憲一座に入り、同年9月に辰巳劇場で上演された舞台『嬰児殺し』で初舞台を踏む[1][2][3][4][5][6]。続いて新派俳優木下吉之助一座に加わり、中央劇場など各座に出演、早くも名子役の評判をとる[1][2][3][4][5][6]。1922年(大正11年)、当時国際活映角筈撮影所に所属していた新派俳優井上正夫に見出され、同年4月、井上と共に松竹蒲田撮影所に入社し、同年4月30日に公開された野村芳亭監督映画『地獄船』で映画デビューを果たす[1][2][3][4][5][6]。この作品は、1921年(大正10年)1月21日に公開されたチャールズ・チャップリン主演映画『キッド』を映画監督伊藤大輔が翻案したものであり、これにより小藤田は「日本のジャッキー・クーガン "天才子役"」とうたわれる[1]。また、同年5月1日に公開された牛原虚彦監督映画『孝女よしこ』では、7歳年上の子役久保田久雄と共演している[1]。同年6月、井上と共に喜多村緑郎一座に合流、明治座で上演された舞台『悪魔の鞭』に出演[1][2][3][4][5][6]。1923年(大正12年)3月には河合武雄一座に加わり、御国座で上演された舞台『陸奥物語』に出演し、その後は九州地方を中心に各地巡業に出るが、この間にも松竹映画蒲田撮影所製作のサイレント映画に数本出演している[1][2][3][4][5][6]。同年に発行された『現代俳優名鑑』によれば、この当時は東京府東京市深川区深川亀住町(現在の江東区深川)に住み、この当時の身長は2尺8寸(約84.8センチメートル)であった[3]

1924年(大正13年)からは、松竹蒲田撮影所の子役に専念するようになり、同年3月14日に公開された小澤得二監督映画『虎と熊』など、主に喜劇映画を中心に多くの作品に出演[1][2][3][4][5][6]。新派調の貧しい家の子供役を多く演じ、同所の子役高尾光子と共に子供のアイドルとなる[1]。また、10代後半になってからは、1929年(昭和4年)4月13日に公開された小津安二郎監督映画『学生ロマンス 若き日』や1932年(昭和7年)6月3日に公開された同じく小津安二郎監督映画『大人の見る繪本 生れてはみたけれど』などで元気な小学生役や餓鬼大将役を演じたほか、松竹下加茂撮影所が製作した時代劇映画にも積極的に助演した[1][2][5][6]。1928年(昭和3年)に発行された『日本映画俳優名鑑 昭和四年版』(映画世界社)など一部の資料によれば、東京府東京市本郷区本郷真砂町15番地(現在の東京都文京区本郷)、後に東京府東京市蒲田区新宿町101番地(後の東京都大田区新宿町、現在の東京都大田区蒲田辺り)、神奈川県鎌倉市材木座747番地に住み、身長は4尺1寸2分(約125.1センチメートル)、後に5尺1寸(約154.8センチメートル)となり、体重は9貫300匁(約34.9キログラム)、後に11貫300匁(約42.4キログラム)となる[2][4][5][6]が、戦後は身長160.5センチメートル、体重54キログラムであったという[7]。また、同書によると、趣味は映画鑑賞スポーツで、お菓子洋食が嗜好であるという旨が記されている[5][6][7]

しかし、1930年代後半になると、1929年(昭和4年)に映画デビューした突貫小僧の才気煥発な演技と人気の影に隠れがちとなり、1933年(昭和8年)4月1日に公開された成瀬巳喜男監督映画『君と別れて』など、以後は脇役・端役に回った[1][2][6]。1943年(昭和18年)、戦局悪化のため松竹大船撮影所を一時退社して松竹演芸部に移籍するが、第二次世界大戦終結後の1946年(昭和21年)に復帰[1][2][7]。戦中と変わらず脇役・端役を務めたのち、1953年(昭和28年)12月29日に公開された川島雄三監督映画『お嬢さん社長』に出演したのを最後に松竹を退社した[1][2][7]

1954年(昭和29年)4月7日、満37歳のとき、映画関係に顔が利くのを利用して、撮影所巡回で使用するのを目的に自動車ブローカーから借り受けていたシボレーを、他者に40万円で売却していたほか、同等の自動車詐欺を3件犯し、およそ150万円を騙し取ったとして、同年5月8日に共犯の無職の男性と共に逮捕される[8]。その後、小藤田は間も無く芸能界に復帰しており、共同芸術協会に加入している[7]。ところが、1964年(昭和39年)3月29日にTBSテレビが放映したテレビドラマ隠密剣士』第6部第13話「忍者風摩小太郎」に出演して以降の出演作品が見当たらず、以後の消息は明らかになっていない[1][2]没年不詳

出演作品

[編集]

松竹蒲田撮影所

[編集]
1923年の写真、満7歳。

特筆以外、全て製作は「松竹蒲田撮影所」、配給は「松竹」、特筆以外は全てサイレント映画である。

松竹大船撮影所

[編集]

特筆以外、全て製作は「松竹大船撮影所」、配給は「松竹」、以降全てトーキーである。

脚注

[編集]
  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 『日本映画俳優全集 男優篇』キネマ旬報社、1979年、223-224頁。 
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 『芸能人物事典 明治大正昭和』日外アソシエーツ、1998年、235頁。 
  3. ^ a b c d e f g h i j 『現代俳優名鑑』揚幕社、1923年、29頁。 
  4. ^ a b c d e f g h i j 『日本映画俳優名鑑 昭和四年版』映画世界社、1928年、92頁。 
  5. ^ a b c d e f g h i j k l 『日本映画俳優名鑑 昭和五年版』映画世界社、1929年、119頁。 
  6. ^ a b c d e f g h i j k l m 『日本映画俳優名鑑 昭和九年版』映画世界社、1934年、111-112頁。 
  7. ^ a b c d e f 『キネマ旬報』キネマ旬報社、1955年、73頁。 
  8. ^ 『朝日新聞』1954年5月9日付。

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]