コンテンツにスキップ

「馬徳新」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
m 124.132.151.230 (会話) による版を 112.248.6.18 による版へ巻き戻し
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m Bot作業依頼:「イスタンブール」記事改名に伴うリンク修正依頼 - log
7行目: 7行目:


===メッカ巡礼===
===メッカ巡礼===
[[1841年]]、[[ハッジ]]([[メッカ]]巡礼)を実行する。当時は[[アヘン戦争]]の影響で海路が使えず、イスラム商人とともに陸路で出発した。[[シーサンパンナ・タイ族自治州|シプソンパンナ]](シーサンパンナ)を経て、[[ミャンマー]]に入って[[マンダレー]]から[[ヤンゴン]]まで[[エーヤワディー川]]を下って、そこから蒸気船で[[アラビア半島]]に向かった。メッカに巡礼した後は8年間[[中東]]にとどまった。はじめは[[カイロ]]の[[アズハル大学]]で学び、それから[[スエズ]]、[[アレクサンドリア]]、[[エルサレム]]、[[イスタンブル]]、[[キプロス島]]、[[ロドス島]]など[[オスマン帝国]]領を旅した。
[[1841年]]、[[ハッジ]]([[メッカ]]巡礼)を実行する。当時は[[アヘン戦争]]の影響で海路が使えず、イスラム商人とともに陸路で出発した。[[シーサンパンナ・タイ族自治州|シプソンパンナ]](シーサンパンナ)を経て、[[ミャンマー]]に入って[[マンダレー]]から[[ヤンゴン]]まで[[エーヤワディー川]]を下って、そこから蒸気船で[[アラビア半島]]に向かった。メッカに巡礼した後は8年間[[中東]]にとどまった。はじめは[[カイロ]]の[[アズハル大学]]で学び、それから[[スエズ]]、[[アレクサンドリア]]、[[エルサレム]]、[[イスタンブル]]、[[キプロス島]]、[[ロドス島]]など[[オスマン帝国]]領を旅した。


===帰郷後===
===帰郷後===

2016年10月18日 (火) 11:35時点における版

馬 徳新(ば とくしん、Ma Dexin、1794年 - 1874年)、字は復初、は雲南省における回族ウラマー(イスラム法学者)。アラビア語ペルシア語イスラム教に関する豊かな学識で知られた。

生涯

出身

サイイドの出自であるとされ、代に雲南を治めた色目人の行政官、サイイド・アジャッルの子孫を称した。

メッカ巡礼

1841年ハッジメッカ巡礼)を実行する。当時はアヘン戦争の影響で海路が使えず、イスラム商人とともに陸路で出発した。シプソンパンナ(シーサンパンナ)を経て、ミャンマーに入ってマンダレーからヤンゴンまでエーヤワディー川を下って、そこから蒸気船でアラビア半島に向かった。メッカに巡礼した後は8年間中東にとどまった。はじめはカイロアズハル大学で学び、それからスエズアレクサンドリアエルサレムイスタンブールキプロス島ロドス島などオスマン帝国領を旅した。

帰郷後

メッカ巡礼から戻った後、馬徳新は著名なムスリムとして、1856年から杜文秀の指導で回族と他の少数民族が蜂起したパンゼーの乱に巻き込まれることとなった。馬徳新は杜文秀の革命的なやり方に反対したものの、支持者に蜂起を援助するように激励した。その後、朝と蜂起軍との間で調停者の役割を果たそうとした。しかしその平和への努力にもかかわらず、清は彼を反逆者と疑い、蜂起の鎮圧の2年後に殺害された。

著作

馬徳新はアラビア語やペルシア語の著作を残すとともに、クルアーン(コーラン)の漢訳を最初に行った人物である。著作の中では、イスラム教の文化と儒教の共存のために比較研究を行っているが、仏教道教の要素を取り入れた中国のイスラム教のあり方には批判的であった。正統派のムスリムとみなされているが、スーフィズムへの肯定的な態度も見受けられる。30冊以上の著書を残したが、それらは5つのカテゴリに分類される。

  • イスラム法学・哲学に関するもの - 『四典要会』『大化総帰』『道行究竟』『理学折衷』『性命宗旨』『礼法啓愛』『据理質証』
  • イスラム暦学・歴史学に関するもの - 『寰宇述要』『天方歴源』
  • 他の回族の学者の著書の紹介と分析 - 『真詮要録』『指南要言』『天方性理注釈』
  • クルアーンの翻訳 - 『宝命真経直解』
  • アラビア語の文法書
  • その他 - 『朝覲途記』(メッカ巡礼記)