コンテンツにスキップ

「アリ・パシャ・モスク」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m Bot作業依頼:「イスタンブール」記事改名に伴うリンク修正依頼 - log
2行目: 2行目:
'''アリ・パシャ・モスク'''([[ボスニア語]]:{{lang|bs|Alipašina džamija}})は、[[1560年]]から[[1561年]]にかけて、オスマン帝国のブダペスト地区の統治者([[ベグレルベグ]])、{{仮リンク|ルメリア・エヤレト|en|Rumelia Eyalet|label=ルメリア州}}(後に{{仮リンク|ボスニア・エヤレト|en|Bosnia Eyalet|label=ボスニア州}}、1580–1867)の知事(パシャルク)であった[[ハディム・アリ・パシャ]]の遺産(''vakuf'')として[[ボスニア]]の[[サラエヴォ]]に建てられたモスクである。今日の[[ボスニア・ヘルツェゴビナ]]、[[サラエヴォ県]]の[[ツェンタル (ボスニア・ヘルツェゴビナ)|ツェンタル]]にある。
'''アリ・パシャ・モスク'''([[ボスニア語]]:{{lang|bs|Alipašina džamija}})は、[[1560年]]から[[1561年]]にかけて、オスマン帝国のブダペスト地区の統治者([[ベグレルベグ]])、{{仮リンク|ルメリア・エヤレト|en|Rumelia Eyalet|label=ルメリア州}}(後に{{仮リンク|ボスニア・エヤレト|en|Bosnia Eyalet|label=ボスニア州}}、1580–1867)の知事(パシャルク)であった[[ハディム・アリ・パシャ]]の遺産(''vakuf'')として[[ボスニア]]の[[サラエヴォ]]に建てられたモスクである。今日の[[ボスニア・ヘルツェゴビナ]]、[[サラエヴォ県]]の[[ツェンタル (ボスニア・ヘルツェゴビナ)|ツェンタル]]にある。


モスクは[[イスタンブル]]の典型的な建築に倣って建てられている。中央の大きいドーム型の天井は礼拝の場を覆い、小さい3つのドームは回廊の上を覆っている。建物の枠組みには、2つのドーム型の墓地があり、それぞれ、1915年に[[アラド]]で死去した2人のガイレット活動家アヴド・スンブル(Avdo Sumbul)とベフジェト・ムテヴェリッチ(Behdžet Mutevelić)の石棺である。
モスクは[[イスタンブル]]の典型的な建築に倣って建てられている。中央の大きいドーム型の天井は礼拝の場を覆い、小さい3つのドームは回廊の上を覆っている。建物の枠組みには、2つのドーム型の墓地があり、それぞれ、1915年に[[アラド]]で死去した2人のガイレット活動家アヴド・スンブル(Avdo Sumbul)とベフジェト・ムテヴェリッチ(Behdžet Mutevelić)の石棺である。


アリ・パシャ・モスクは[[1990年代]]の[[ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争]]中、セルビア人勢力による[[サラエヴォ包囲]]によって激しく損壊した<ref>''State Commission for Gathering Facts on War Crimes in the Republic of Bosnia and Herzogovina'', Bulletin no. 1, Sarajevo, October 1992</ref>。モスクの復興は段階的に続けられており、国立記念物保存委員会はアリ・パシャ・モスクをボスニア・ヘルツェゴビナの国家的記念物に加えることを決定した<ref>Bosna i Hercegovina Komisija/Povjerenstvo za Ocuvange Nacionalnih Spomenika, January 2005</ref>
アリ・パシャ・モスクは[[1990年代]]の[[ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争]]中、セルビア人勢力による[[サラエヴォ包囲]]によって激しく損壊した<ref>''State Commission for Gathering Facts on War Crimes in the Republic of Bosnia and Herzogovina'', Bulletin no. 1, Sarajevo, October 1992</ref>。モスクの復興は段階的に続けられており、国立記念物保存委員会はアリ・パシャ・モスクをボスニア・ヘルツェゴビナの国家的記念物に加えることを決定した<ref>Bosna i Hercegovina Komisija/Povjerenstvo za Ocuvange Nacionalnih Spomenika, January 2005</ref>

2016年10月18日 (火) 11:59時点における版

アリ・パシャ・モスク

アリ・パシャ・モスクボスニア語:Alipašina džamija)は、1560年から1561年にかけて、オスマン帝国のブダペスト地区の統治者(ベグレルベグ)、ルメリア州英語版(後にボスニア州英語版、1580–1867)の知事(パシャルク)であったハディム・アリ・パシャの遺産(vakuf)としてボスニアサラエヴォに建てられたモスクである。今日のボスニア・ヘルツェゴビナサラエヴォ県ツェンタルにある。

モスクはイスタンブールの典型的な建築に倣って建てられている。中央の大きいドーム型の天井は礼拝の場を覆い、小さい3つのドームは回廊の上を覆っている。建物の枠組みには、2つのドーム型の墓地があり、それぞれ、1915年にアラドで死去した2人のガイレット活動家アヴド・スンブル(Avdo Sumbul)とベフジェト・ムテヴェリッチ(Behdžet Mutevelić)の石棺である。

アリ・パシャ・モスクは1990年代ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争中、セルビア人勢力によるサラエヴォ包囲によって激しく損壊した[1]。モスクの復興は段階的に続けられており、国立記念物保存委員会はアリ・パシャ・モスクをボスニア・ヘルツェゴビナの国家的記念物に加えることを決定した[2]

脚注

  1. ^ State Commission for Gathering Facts on War Crimes in the Republic of Bosnia and Herzogovina, Bulletin no. 1, Sarajevo, October 1992
  2. ^ Bosna i Hercegovina Komisija/Povjerenstvo za Ocuvange Nacionalnih Spomenika, January 2005

座標: 北緯43度51分28.5秒 東経18度24分45.5秒 / 北緯43.857917度 東経18.412639度 / 43.857917; 18.412639