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=== 駆け出し時代 ===
=== 駆け出し時代 ===
[[1980年]]、[[中学校]]1年生の時に[[全日本女子プロレス]]の[[オーディション]]を受け合格、入門を目指す練習生となる<ref>[https://www.sankei.com/sports/news/150419/spo1504190001-n1.html スポーツ異聞「ブームは一瞬のうちにくる」決死のダイブから25年「ブル中野」が語る「勝負の相手は目の前の敵じゃない。リングを囲む客です」] [[産経ニュース]] 2015年4月19日</ref>。この頃は「歌って踊れるアイドルレスラー」になることを夢見ていた<ref name="recruit1802">[https://www.hotpepper.jp/mesitsu/entry/kemuta-otsubo/18-00011 女子プロレス界の女帝・ブル中野さんだから知る「底辺の食事」と「頂点の食事」【レスラーめし】] [[リクルート]]hotpepper 2018年3月1日</ref>。[[1983年]]、全日本女子プロレスに入門。二度のプロテスト不合格の後、三度目のプロテストでの正式入門だった。同年[[9月23日]]の[[戸田市スポーツセンター]]大会にて、本名の中野恵子でプロデビュー。中野vs[[柳下まさみ]]&[[小松美加]]組の1対2変則マッチ、3人ともデビュー戦であった。女子レスラーとしては恵まれた身長(170cm)を持っていたが、入門当初の運動能力はぽっちゃり体格でとても鈍かった。それを人一倍の努力と練習で向上させていった。タレ目で愛嬌のある顔立ちから新人時代の愛称は「[[パンダ]]ちゃん」と呼ばれ、新人当時から料理上手でレパートリーも豊富であったという。ヒールになってからのフェイスペイントはタレ目を隠すためでもあった。
[[1980年]]、[[中学校]]1年生の時に[[全日本女子プロレス]]の[[オーディション]]を受け合格、入門を目指す練習生となる<ref>[https://www.sankei.com/sports/news/150419/spo1504190001-n1.html スポーツ異聞「ブームは一瞬のうちにくる」決死のダイブから25年「ブル中野」が語る「勝負の相手は目の前の敵じゃない。リングを囲む客です」] [[産経ニュース]] 2015年4月19日</ref>。この頃は「歌って踊れるアイドルレスラー」になることを夢見ていた<ref name="recruit1802">[https://www.hotpepper.jp/mesitsu/entry/kemuta-otsubo/18-00011 女子プロレス界の女帝・ブル中野さんだから知る「底辺の食事」と「頂点の食事」【レスラーめし】] [[リクルートホールディングス]]hotpepper 2018年3月1日</ref>。[[1983年]]、全日本女子プロレスに入門。二度のプロテスト不合格の後、三度目のプロテストでの正式入門だった。同年[[9月23日]]の[[戸田市スポーツセンター]]大会にて、本名の中野恵子でプロデビュー。中野vs[[柳下まさみ]]&[[小松美加]]組の1対2変則マッチ、3人ともデビュー戦であった。女子レスラーとしては恵まれた身長(170cm)を持っていたが、入門当初の運動能力はぽっちゃり体格でとても鈍かった。それを人一倍の努力と練習で向上させていった。タレ目で愛嬌のある顔立ちから新人時代の愛称は「[[パンダ]]ちゃん」と呼ばれ、新人当時から料理上手でレパートリーも豊富であったという。ヒールになってからのフェイスペイントはタレ目を隠すためでもあった。


本名で活動する新人時代から、秋の[[新人王決定トーナメント (全日本女子プロレス)|1983年度新人王トーナメント]]優勝、メインイベンターでもあり新人時代から可愛がられていた[[長与千種]]の付き人担当となったり、[[1984年]][[9月13日]]の戸田大会にて[[全日本ジュニア王座]]を獲得するなど、同期の中では出世頭であった。その一方、ある同期をいじめて全女内の風紀を乱していたために先輩レスラー達から睨まれて逆に無視されたり、理不尽ないじめにも遭うなど誰にも相手にされていなかったとも発言しており「派閥があったりイジメがあったり、同期の中でも問題があったりみんな仲が悪かった<ref name="recruit1802"></ref>」と中野本人がインタビューなどで語っている。新弟子時代は食糧事情も悪く、派閥ができているため男子のプロレス団体のように弟子たちが[[ちゃんこ鍋]]を囲んで食事をすることなどなかったため、初任給5万から寮費5千円を引いた4万5千円でやり繰りしなければならない中、人気がある先輩たちがもらった差し入れの食べ残しを食べるのが常であった。切り落とした[[キュウリ]]の端が三角コーナーに捨てられていたのを食べようかどうかと葛藤するほど食糧には困っていた。紅生姜を米に乗せただけのものを食べることも多く、おかげで中野は紅生姜がトラウマになってしまったという<ref name="recruit1802"/>。
本名で活動する新人時代から、秋の[[新人王決定トーナメント (全日本女子プロレス)|1983年度新人王トーナメント]]優勝、メインイベンターでもあり新人時代から可愛がられていた[[長与千種]]の付き人担当となったり、[[1984年]][[9月13日]]の戸田大会にて[[全日本ジュニア王座]]を獲得するなど、同期の中では出世頭であった。その一方、ある同期をいじめて全女内の風紀を乱していたために先輩レスラー達から睨まれて逆に無視されたり、理不尽ないじめにも遭うなど誰にも相手にされていなかったとも発言しており「派閥があったりイジメがあったり、同期の中でも問題があったりみんな仲が悪かった<ref name="recruit1802"></ref>」と中野本人がインタビューなどで語っている。新弟子時代は食糧事情も悪く、派閥ができているため男子のプロレス団体のように弟子たちが[[ちゃんこ鍋]]を囲んで食事をすることなどなかったため、初任給5万から寮費5千円を引いた4万5千円でやり繰りしなければならない中、人気がある先輩たちがもらった差し入れの食べ残しを食べるのが常であった。切り落とした[[キュウリ]]の端が三角コーナーに捨てられていたのを食べようかどうかと葛藤するほど食糧には困っていた。紅生姜を米に乗せただけのものを食べることも多く、おかげで中野は紅生姜がトラウマになってしまったという<ref name="recruit1802"/>。

2019年9月13日 (金) 06:14時点における版

ブル中野
Bull Nakano
ブル中野 Bull Nakanoの画像
プロフィール
リングネーム ブル中野
本名 青木恵子
ニックネーム 女帝
ブル様
ブルちゃん
パンダちゃん
身長 170cm
体重 115kg(現役時)
誕生日 (1968-01-08) 1968年1月8日(56歳)
出身地 埼玉県川口市
スポーツ歴 柔道、ゴルフ
デビュー 1983年
引退 1997年
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ブル中野(ブルなかの、1968年1月8日 - )は、日本の元女子プロレスラー。本名は青木 恵子(あおき けいこ、旧姓・中野)。埼玉県川口市出身。あだ名はブルちゃんブル様

アメリカのWWF世界女子ヘビー級王座を獲得した唯一の日本人[1][注釈 1]。他にWWWA世界ヘビー級王座獲得多数。日本の女子プロレスが絶頂を極めた1990年代、その頂点として君臨した。

引退後はタレントに転向、また中野区内において『ガールズ婆バー中野のぶるちゃん』[2]も経営していた(現在閉店)。

来歴

デビュー前

川口市立芝東中学校出身。

プロレスファンの母の影響でプロレスを見るのは好きだったものの、やるのは不本意だったという。当時は全日本女子に入門するほとんどの者が女子のスターレスラーに憧れて入門していたが、中野は母が好きだったレスラーがアントニオ猪木だった影響から猪木に憧れていた。中学時代までは水泳柔道をしており、柔道の埼玉県大会で2位を獲得している[3]

駆け出し時代

1980年中学校1年生の時に全日本女子プロレスオーディションを受け合格、入門を目指す練習生となる[4]。この頃は「歌って踊れるアイドルレスラー」になることを夢見ていた[5]1983年、全日本女子プロレスに入門。二度のプロテスト不合格の後、三度目のプロテストでの正式入門だった。同年9月23日戸田市スポーツセンター大会にて、本名の中野恵子でプロデビュー。中野vs柳下まさみ&小松美加組の1対2変則マッチ、3人ともデビュー戦であった。女子レスラーとしては恵まれた身長(170cm)を持っていたが、入門当初の運動能力はぽっちゃり体格でとても鈍かった。それを人一倍の努力と練習で向上させていった。タレ目で愛嬌のある顔立ちから新人時代の愛称は「パンダちゃん」と呼ばれ、新人当時から料理上手でレパートリーも豊富であったという。ヒールになってからのフェイスペイントはタレ目を隠すためでもあった。

本名で活動する新人時代から、秋の1983年度新人王トーナメント優勝、メインイベンターでもあり新人時代から可愛がられていた長与千種の付き人担当となったり、1984年9月13日の戸田大会にて全日本ジュニア王座を獲得するなど、同期の中では出世頭であった。その一方、ある同期をいじめて全女内の風紀を乱していたために先輩レスラー達から睨まれて逆に無視されたり、理不尽ないじめにも遭うなど誰にも相手にされていなかったとも発言しており「派閥があったりイジメがあったり、同期の中でも問題があったりみんな仲が悪かった[5]」と中野本人がインタビューなどで語っている。新弟子時代は食糧事情も悪く、派閥ができているため男子のプロレス団体のように弟子たちがちゃんこ鍋を囲んで食事をすることなどなかったため、初任給5万から寮費5千円を引いた4万5千円でやり繰りしなければならない中、人気がある先輩たちがもらった差し入れの食べ残しを食べるのが常であった。切り落としたキュウリの端が三角コーナーに捨てられていたのを食べようかどうかと葛藤するほど食糧には困っていた。紅生姜を米に乗せただけのものを食べることも多く、おかげで中野は紅生姜がトラウマになってしまったという[5]

そこへ、以前から中野に注目し気にかけており、以後師匠となるダンプ松本から『極悪同盟に入って私と一緒にやらない?』と声をかけられ、当初はヒールになるのは絶対に嫌だったので何度も断ったが、説得のためダンプに松永会長の元へ半ば強引に連れて行かれたりするなど、先輩の言うことには絶対服従で逆らえなかったために最終的には折れて極悪同盟に加入することになり、ダンプから本格的に世話をされるようになって可愛がられるようになったという。

後年、ダンプへのインタビューによると『ベビーフェース側からダンプが気に入った後輩一人を極悪側へ引き抜いてもいいよ』と全女の上役に言われており、中野ともう一人気になっていた選手のどちらかに決めようと考えていたという。

極悪同盟

正式に極悪同盟に加入し、1985年2月からリング名をダンプ松本にあやかり中野恵子から『ブル中野』に改名する。中野がレスラーとしてブレイクしたのは、パンクをモチーフにした、わかりやすいヒールの外観にヌンチャクを凶器に使用してギミックチェンジした後、ダンプ松本、クレーン・ユウらと組んだヒール軍団 "極悪同盟" での活動である。特にユウの引退後、ダンプ松本とのタッグチームベビーフェイスクラッシュギャルズとの抗争が人気を博し(このタッグチームは当時アメリカのマディソン・スクエア・ガーデンでも再現されている)、全日本女子のメインイベンターとなりトップレスラーとしての地位を確立。この頃体格を大きくするために給料のほとんどを増量に費やし体重は100kgを超えたが、その過程でトレーニングや食事でも92kgから体重がなかなか増えず、男性ホルモン剤の注射などを行なって100kgに到達させた(後にWWEへ遠征する際には体重を90kg台に落としている)。2018年の取材では92kgから100kgに到達させるのにアナボリックステロイドを使用したと告白している[5]

ヒール役はもともと中野本人が志望したものではなく、上役からの指示によるものであったために極悪同盟入門当初はヒールに徹しきれないでいたという。中野の悩みをダンプが見抜き、今後ヒールレスラーとしてやっていく覚悟を決めさせるために九州巡業の控え室でダンプから『今日からモヒカン刈りになって私のパートナーになれ!』と強い口調で突如言われ『でもまだ半人前だから半分切ればいいや』と言うダンプに即バリカンで左側の髪を半分剃り落とされてしまい、試合後にホテルの部屋で一人号泣したことを後にインタビューや著書などで告白している(ダンプ曰く、この頃ダンプのパートナーであるユウのレフェリー転向が決まり、今後中野とパートナーを組んで極悪同盟を継続していくためにやむなく中野の髪を断髪してしまったという)。この「半モヒカン」をきっかけに中野は当時ひそかに交際していた男性とも別れてしまい[5]、「もう女性として生きるのはやめて、プロレスの世界で生きる」と覚悟を決め、「はじめてプロレスラーになれたのはこの瞬間」と述懐している。[6]この右側の髪を半分残したモヒカン頭は獄門党の初期まで継続された。

獄門党

1988年にダンプが一時引退した後は自身をリーダーとした "獄門党" を結成。グリズリー岩本アジャ・コングバイソン木村らの実力派を従えて引き続きヒールの頂点として活動。以降は髪を青く染めて、ロックバンドBUCK-TICKからヒントを得た逆立てヘアがトレードマークになった。クラッシュギャルズ引退後の1990年1月4日に、後楽園ホールにて行われたWWWA世界シングル王座決定トーナメントで西脇充子を破って優勝[7]し、第37代王者に輝く。以後約3年間に渡りチャンピオンとして全日本女子プロレスの屋台骨を支え、その強さから "女帝" と呼ばれるようになった。

極悪同盟を引き継ぐ形で獄門党を組織して暫く後、マスコミからダンプについて聞かれた際に「あんな奴と一緒にするな。あいつはただ竹刀を振り回していただけだろ。あたしにはプロレスの心があるんだよ!」と言い放った。その言葉に違わず、凶器に過剰に依存しない、技の凄みや説得力で勝負するヒール像を作り上げた。レスラーとして一線を引いた後も、レスラーとしてのダンプ松本に関し「悪い見本」「あのまま(ダンプが引退せずに)いたら、私は絶対に勝てた」と振り返っている[8]。その他の場でも、師匠であるダンプに世話になった事に感謝の弁を述べる事はあってもレスラーとして技を評価する発言は(例え本人の前でも)一切していないが、「ダンプさんは練習嫌いで練習している所を見たことがない(笑)」「ダンプさんに教わったことで一番役に立ったのは(引退後お店を開くようにもなった)酒を覚えさせてくれたこと」や「ダンプさんの試合は基本的に技などで戦うものではなくて、ヒールレスラーの王道である凶器攻撃でお客さんに魅せるものだったけどそこがまた上手くて凄かった」などと語っている。ダンプ引退時には一緒に引退して芸能活動をしようと誘われていたそうで、中野は全女でトップになることを目標としていたために断ったら、『ダンプさんにその日から引退まで全く口を聞いてもらえなかった(笑)』とも語っている。

善悪を超えたヒロインへ

その実力から、ヒールでありながら女子プロレス界の最高位を占めた。このとき、最終的にはベビーフェイスがヒールを倒すという従来の対立構造が崩れ、さらには獄門党から配下のアジャ・コングバイソン木村の両名からなる「ジャングル・ジャック」の独立を許し、ヒール対ヒールというかつてなかった対立構図が団体の中心となった。また、女子プロレスではそれまでなかった金網デスマッチチェーン・デスマッチの敢行、大柄・巨体のレスラーとしてありえないはずのムーンサルト・プレストペ・スイシーダといった宙を舞う華麗な空中殺法など、あらゆる意味で女子プロレスの歴史を塗り替える顕著な働きを見せた。特に、このころから始まった団体対抗戦(他団体トップ選手との試合)は盛り上がり、ここでは(善玉悪役すべてを飛び越えて)会社を代表して臨んだ。

1990年11月14日横浜文化体育館で行われたアジャとの金網デスマッチにて、金網ケージの頂上から飛び降りて放ったギロチン・ドロップで、女子プロレスの枠を超えて一気にブレイクする。

1992年11月26日川崎市体育館においてアジャに敗れてWWWA世界シングル王座を失った後、1993年からアメリカのWWF(現WWE)へ長期遠征し、ルナ・バションマネージャーに女子戦線のトップヒールとしてアランドラ・ブレイズと抗争した[9]WWE世界女子王座を獲得した唯一の日本人レスラーでもある[1]。WWEのRAW10周年のイベントの際にはショーン・マイケルズがスピーチで彼女について少し触れている。ジム・ロスUnforgiven 2007の実況の中で、ベス・フェニックスについて「アメリカのブル中野」と評した。

1994年に日本に復帰し、神取忍とチェーンデスマッチを行い勝利を収めた(女子のチェーンデスマッチはデビル雅美VSモンスター・リッパーが初である)。神取は中野がかつて試合で放った「高さ4mの金網の上からのダイビング・ギロチンドロップ」を見て以来「こんなすごいことをやれる女子プロレスラーが日本にいたのか」と驚嘆し、ブル中野とのチェーンデスマッチを切望するようになったという。後日実現した対戦では神取が「お互い好き放題暴れられるよう、鎖を長めにしてほしい」と要望した。中野はこの申し出を快諾、神取の希望をほぼ全て了承して試合に臨んだ。中野は、その長いチェーンを脚部に巻き付けたダイビング・ギロチンドロップを放ち快勝。この技で神取は顔面を負傷したが、「ブルさんだからこそ、あれ(ギロチンドロップ)を躊躇無く私の顔面に落とした。本当に素晴らしい試合でお客も喜んでいたし、私にとってもベストバウトと考えている」と述懐している。

1996年に再びアメリカへ遠征。WCWにてメデューサらと抗争を繰り広げた。この頃から「お前らが結婚して、子供作っても、ブル中野のプロレスを見せてやる」と長々とマイクパフォーマンスをする等、1ヒールレスラーから、女子プロレス界のご意見番としてヒールベビーフェイスを越えた存在となっていく。

ヒールレスラーとして大きな成功をおさめたが、中野は本来温厚でかなりおっとりとした性格の持ち主でもあり、ダンプやユウ、コンドルなどの極悪同盟メンバーと同様に後輩の世話や面倒見がとても良く、今も多くの後輩からたいへん慕われており[10]堀田祐美子アジャ・コングKAORU影かほる三田英津子山田敏代井上京子井上貴子などの多くの後輩をプライベートでも可愛がる一面もあった。またプロレスラーになる前の北斗晶はブル中野のファンで、私設のファンクラブを作ったことがある。プロでは先輩後輩、のちにライバル関係となった二人でもあるが、プライベートでは親友関係にあったという。後輩で北斗と同期の神崎文枝とも親友で非常に仲が良かったという。

1997年、以前負っていた左膝靭帯2本を断裂する大怪我が起因となりプロレスラーを引退。引退後の2001年には、アメリカのプロレス誌「Wrestling Observer Newsletter」が選出するWrestling Observer Newsletter殿堂入りを果たしている。

引退後~ゴルフ転向するも断念

その後はプロレスを辞めゴルフに専念する過程でダイエットを実施し、50kgまで減量した。このダイエットの体験を基に後にダイエット本(後述)を執筆した。テレビ番組『リングの魂』内の企画においても、ダイエットスクールを開講したことがある。

2000年からはフロリダ州オーランドへ単身渡米してゴルフ修行を開始する。第二の人生としてプロゴルファーを目指すが、観光ビザで入国したもののアメリカ同時多発テロ事件以降は日米間の行き来が困難になり、急遽英語学校の学生ビザを取得する破目になったという。その後、『海外遠征試合WWE世界女子王座を獲得した唯一の日本人レスラー』の実績が功を奏し、異例にもグリーンカードを取得できたがその後プロテストは通らなかったために断念して2008年に帰国した。渡米時には現役時代から貯金していた数億円を使い切ってしまったとインタビューや『しくじり先生 俺みたいになるな!!』で語っている。

結婚~店舗経営

2010年4月20日放送の『魔女たちの22時』で10年ぶりにテレビ出演。ここで紹介したダイエット術は特殊なもので、「青色」を部屋中に張り巡らし、心理的効果で食欲を減退させるというものであった[11][12]。また、帰国後に体重をキープするために通い出したムエタイ道場で15歳年下のキックボクサーでムエタイ選手でもある青木大輔と出会って2010年2月14日に入籍したことを同番組内で発表した。交際中には自分があの「ブル中野」であるとはなかなか言えず、プロポーズを受けるまで隠しており、青木も中野が過去の経歴を全く話さなかったために中野の本名をインターネットで検索して中野が自ら話す前に知ったそうで『彼女がまさかあのブル中野だったとは全く思わなかった』と語っている。

2010年7月23日、小料理店「中野のぶるちゃん」を開店した。その後、小料理店は閉店し、2011年2月25日にガールズ婆バー「中野のぶるちゃん」を開店した。同店では全日本女子プロレスの後輩で中野からプライベートでも可愛がられている山田敏代三田英津子吉田万里子脇澤美穂玉田凛映、現役レスラーの旧姓・広田さくらなどがスタッフとして店を手伝っている。

引退興行

それまでは正式な引退試合や引退式は行っていなかったが、体重を再び現役当時の100kg台までに戻して中野の誕生日でもある2012年1月8日に東京ドームシティホールで『15年間プロレスから離れて、その後ゴルフで挫折してしまってからはブル中野という名前を使うのも人前に出るのも嫌だった。 結婚を機にこれからは前向きになって生きていこうと思い、それまで引退試合をしていないのが心残りだった』との理由で引退セレモニーを行った。その後、再びダイエットして60kg台にすると宣言した。但し怪我の為、自身の試合は行わず、セレモニーのみとなった。

引退興行後、アジャ&バイソン組との髪切りマッチ(パートナーは井上京子)から21年となる1月11日、都内ホテルにて興行参加選手・関係者を招いて断髪式を実施して先輩後輩選手や関係者が順番にハサミやバリカンで断髪して最後には丸刈り坊主頭になった。

現在

現在はバーを経営する傍ら、タレントとして芸能活動を行っている。

プロレス業界との関係も継続され、FIGHTING TV サムライの女子プロレス中継で解説者を務めている他、2012年3月20日夜・スターダム後楽園大会ワールド・オブ・スターダム選手権試合高橋奈苗(王者)vs里村明衣子(挑戦者)戦で立会人を務めた。また2013年10月1日今井良晴追悼興行では大会実行委員長に就任、ダンプが出場したメインの試合では場外乱闘で竹刀を持ってダンプに加勢している。2014年3月22日に大田区総合体育館で開かれた長与千種プロデュース興行「That's 女子プロレス」にも極悪同盟のセコンドで参加。

2015年2月には過去のダイエット成功とリバウンドの繰り返しで、現役時代から膝に負担がかかり重度の変形性膝関節症に悩まされていて、膝の負担を軽くするために悩みぬいた結果、胃を切除して小さくして食欲をなくす減量手術を受けている。

2018年7月、半年後の2019年3月2日をもって「中野のぶるちゃん」を閉店することを公表した[13]

プロレスラーとしての得意技

そのプロレスセンスも相まって現役時代は多彩な技を繰り出すことで知られた。

ブルの代名詞的な技であり、金網デスマッチにおける高さ4メートルの金網ケージの頂上から放ったダイビング・ギロチン・ドロップは伝説となっている。また、この技のバリエーションとして、空中で回転しながら決める、回転式ギロチン・ドロップもある。
ギロチン・ドロップをはじめ大技を繰り出した後でなおフィニッシュに至らないときに繰り出す、ここ一番の必殺技。
若手時代に主に使用。柔軟な身体であったためホールド時にはしなやかなブリッジを描く隠れた名手であった。
相手の脚を鯱(名前はこれに由来)のように大きく反らせる逆片エビ固め。使用回数は少ないものの、これを使った試合ではギブアップを取っている。
  • ブルズ・アンヘリート
脚はサソリ固めの要領で、振り向きつつ両腕を取って相手の体を吊り上げる技。主に次の技への繋ぎ技。
  • ブルズ・ポセイドン
垂直落下式のリバーススープレックス。堀口元気がビーチブレイクとして同型の技を使用している。
後期の試合では滅多に見せなくなったが、以前はよく使用していた。リング登場時のパフォーマンスとしても試合中の凶器としても正確無比の使い手であった。ダブルヌンチャクも使える。
  • リフトアップ
デビル雅美と共に女子プロレスラーでは数少ない使い手の1人である。
主にギロチン・ドロップの前の繋ぎ技として使用。

獲得タイトル

全日本女子プロレス
WWF / WWE
CMLL

入場テーマ曲

  • GENOCIDE (「BEAUTIFUL FIGHTERS」に収録)
  • 女帝〜Boss of the World〜 (「完全版全日本女子プロレス選手別テーマ曲集」に収録)

ブル中野引退興行

ブル中野引退興行「女帝」
イベント詳細
シリーズ  
主催 ブル中野引退興行実行委員会
開催年月日 2012年1月8日
開催地 日本の旗 日本東京都文京区
会場 東京ドームシティホール
開始時刻 午後4時
試合数 全8試合
放送局 FIGHTING TV サムライ
入場者数 3,000人(超満員札止め)

1997年に引退試合やセレモニーは行わずに引退発表し、プロレス界から離れた生活を送っていたが、2010年の結婚を機に嫌悪していたレスラー時代を振り返り、自身の44歳の誕生日に心残りであった引退試合の開催を発表した。

概要

  • 参戦選手は、本人自ら各団体の興行を視察し、出場願を同封した封筒を選手へ手渡し交渉をした。結果として女子プロ団体はほぼ全て参加によるオールスター戦の様相となった。
  • 唯一の男子マッチは、海外時代に共に助けあった新崎人生、西村修、スペル・デルフィンと、今回の興業をサポートするZERO1勢によるタッグマッチが組まれた。
  • 本人は現役時代の100kgに増量して来場すると宣言。記者会見では夫の青木大輔から興行から半年後までに40kg減量することを求められ、ブルは誓約書へサインをして約束をした[14]
  • 興行では、現役選手による試合が8試合行われ、その後ブル本人と現役時代にライバルだったレスラーたちによる「引退試合」3試合と引退セレモニーが行われた。試合は現役時代の闘いを当時の映像とリング上の再現シーンを交えて行う試みがなされた[15]
  • 興行の中盤のハーフタイムにユリオカ超特Q、終盤のハーフタイムにアントニオ小猪木が登場した。

参加団体

アイスリボン(リボン) センダイガールズプロレスリング (仙女) プロレスリングWAVE (WAVE)
JWP女子プロレス (JWP) ワールド女子プロレス・ディアナ (ディアナ) スターダム
OZアカデミー (OZ) REINA女子プロレス (レイナ) LLPW-X (LLPW)
エスオベーション (Sオベ) トリプルテイルズ.S (TT.S) SMASH
OSAKA女子プロレス (OSAKA) ユニオンプロレス (ユニオン) 極悪同盟
みちのくプロレス (みちのく) 沖縄プロレス (沖縄) ZERO1

試合

第一試合 ■ スペシャルシングルマッチ 30/1
(OZ) アジャ・コング 15分14秒
APクロス
浜田文子
レフェリー:和田京平
第二試合 ■ バトルロイヤル 無/1
広田さくら 25分26秒
ウラカンラナ
GAMI (WAVE)
堀田祐美子 (レイナ)DASH・チサコ (仙女)仙台幸子 (仙女)星ハム子 (リボン)宮城もち (リボン)
真琴 (SMASH)大畠美咲紫雷美央 (TT.S)伊藤薫 (ディアナ)植松寿絵 (WAVE)
桜花由美 (WAVE)春日萌花 (WAVE)松本浩代 (Sオベ)倉垣翼 (JWP)コマンド・ボリショイ (JWP)
下田美馬井上貴子 (LLPW)米山香織 (JWP)尾崎魔弓 (OZ)渋谷シュウ (WAVE)
第三試合 ■ 男子6人タッグマッチ 30/1
(ZERO1) 大谷晋二郎
(ZERO1) 日高郁人
(ZERO1) 橋本大地
11分51秒
スパイラルボム
白使 (みちのく)
西村修
スペル・デルフィン (沖縄)
第四試合 ■ ギロチンドロップマッチ 30/1
(JWP) 春山香代子
(仙女) 水波綾
13分34秒
ダイビング・ギロチン・ドロップ
AKINO
成宮真希 (リボン)
第五試合 ■ 50代&40代&30代&20代&10代 10人タッグマッチ 60/1
(ディアナ)ジャガー横田
豊田真奈美
(Sオベ) 中川ともか
(スターダム) 夏樹☆たいよう
(ユニオン) チェリー
16分15秒
パワーボム
ダンプ松本 (極悪同盟)
井上京子 (ディアナ)
Leon (JWP)
下野佐和子 (OSAKA)
つくし (リボン)
第六試合 ■ スペシャルシングルマッチ 30/1
(TT.S) 華名 11分23秒
チキンウィング式胴締め裸締め
⇒レフェリーストップ
花月 (仙女)
第七試合 ■ 6人タッグマッチ 60/1
(スターダム) 高橋奈苗
(仙女) 里村明衣子
さくらえみ
21分41秒
2階からのニャンニャンプレス
栗原あゆみ
世IV虎 (スターダム)
藤本つかさ (リボン)
メインイベント ■ スペシャルシングルマッチ 30/1
(スターダム) 愛川ゆず季 15分11秒
ゆずポンキック・レッド
志田光 (リボン)
引退セレモニー ■ 伝説のVTRハイライト
ブル中野
ダンプ松本
with 阿部四郎
極悪同盟vsクラッシュギャルズ ニセ・クラッシュギャルズ
レフェリー:クレーン・ユウ、リングアナ:氏家清春
ブル中野 伝説のチェーンデスマッチ 神取忍 (LLPW)
レフェリー:トミー蘭、リングアナ:今井良晴大日本プロレス
ブル中野 伝説の金網デスマッチ アジャ・コング

著書

  • 金網の青春 (自伝) フジテレビ出版(1991年12月)ISBN 4-594-00860-7
  • ブル中野のダイエット日記―19号サイズの私が9号サイズに(中野恵子名義での出版)(1998年6月)ISBN 4-89308-350-3
  • ブル中野の「ちがう自分」になる本―今日からあなたも変われる (中野恵子名義での出版)青春出版社(2003年3月) ISBN 4-413-03395-7

出演

ドラマ

映画

  • 「TOKYO POP」(1987年) - 映画撮影時に使用されたガウンは実際にWWWA世界選手権試合の入場時ガウンとしても利用された。

その他

その他

  • 最初のダイエット中やプロゴルファーを目指して渡米していた当時は、携帯電話のそれまでのアドレス帳を全消去するなど友人・知人の人間関係や誘惑を絶ち、退路を断ってのチャレンジをしていたが、師匠のダンプ松本だけは定期的に連絡を取り合って数年に一度は再会していたといい、現在も可愛がられている。ダンプは中野を極悪同盟時代から愛称の『ブルちゃん』と呼んでいて頭が上がらない存在だという。
  • 前述の2012年の引退興行後に再びダイエットを始め、運動の他、骨盤矯正や水素水の使用などを試みた結果、半年間で32.5kg減量に成功したが、2015年2月にはダイエットとリバウンドの繰り返しで現役時代から重度の変形性膝関節症に悩まされ、膝の負担を軽くするために胃を切除する減量手術を受けた。

脚注

  1. ^ a b WWE Women's World Title History”. Wrestling-Titles.com. 2010年10月17日閲覧。
  2. ^ 『ガールズ婆バー中野のぶるちゃん』”. 2015年2月9日閲覧。
  3. ^ 全日本女子プロレスシリーズDVD 女神たちの伝説VII ブル中野
  4. ^ スポーツ異聞「ブームは一瞬のうちにくる」決死のダイブから25年「ブル中野」が語る「勝負の相手は目の前の敵じゃない。リングを囲む客です」 産経ニュース 2015年4月19日
  5. ^ a b c d e 女子プロレス界の女帝・ブル中野さんだから知る「底辺の食事」と「頂点の食事」【レスラーめし】 リクルートホールディングスhotpepper 2018年3月1日
  6. ^ 【元女子プロレスラー・ブル中野さんインタビュー】理想と現実のギャップをどう乗り越える?「夢を追いかけることの大切さ」みんなのインタビュー
  7. ^ 『プロレス選手権変遷史』
  8. ^ 柳澤健『1993年の女子プロレス』(2011年 双葉社 ISBN 9784575303261 P26、P28)
  9. ^ WWE Yearly Results 1994”. The History of WWE. 2010年10月17日閲覧。
  10. ^ 井上貴子オフィシャルブログ『Marble...』2009年10月15日及び大向美智子オフィシャルブログ『EgoistのEgo日記』2010年4月21日を参照。
  11. ^ 賢者の知恵・ブル中野・とにかく我慢!「青色ダイエット」夢のために自分を追い詰めて…泣きながらドカ食い! 現代ビジネス 2012年9月10日
  12. ^ 賢者の知恵・特集・有名人7人が教える「これから間に合うダイエット」大研究 現代ビジネス 2012年9月10日
  13. ^ 中野のぶるちゃん閉店 ブル中野オフィシャルブログ「元祖ぶるママ」2018年7月29日
  14. ^ “ブル中野が夫に40キロ減量を約束”. 日刊スポーツ. (2011年12月8日). http://www.nikkansports.com/battle/news/f-bt-tp0-20111208-874348.html 2012年1月14日閲覧。 
  15. ^ “ブル中野引退興行「女帝」”. スポーツナビ. (2011年12月8日). http://archive.sportsnavi.yahoo.co.jp/fight/other/live/2012/2012010807/index.html 2012年1月14日閲覧。 
  16. ^ “史上初!! 新国立劇場に本物のリング タイガー、ブル中野らと"異種格闘技戦"も”. スポーツ報知 (報知新聞社). (2014年10月20日) 
  17. ^ “「明るすぎる劇団・東州」に初代タイガー、サスケ、西村ら伝説のレスラーも参戦”. 東京スポーツ (東京スポーツ新聞社). (2014年10月17日). http://www.tokyo-sports.co.jp/entame/entertainment/323523/ 
  18. ^ “元最強悪役レスラー・ブル中野、デスマッチよりも壮絶な“しくじり”暗黒時代を告白”. マイナビニュース. テレビドガッチ. (2016年11月21日). http://news.mynavi.jp/news/2016/11/21/026/ 2016年11月21日閲覧。 

注釈

外部リンク