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陸軍糧秣本廠流山出張所

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陸軍糧秣本廠流山出張所(りくぐんりょうまつほんしょうながれやましゅっちょうじょ)は、千葉県東葛飾郡流山町大字流山字東谷(現:流山市流山九丁目)にあった日本陸軍糧秣を保管、供給する施設である。略称は「流山糧秣廠」。 本出張所の開設当初の名称は「陸軍糧秣本廠流山秣倉庫」で、太平洋戦争敗戦時の名称は「陸軍糧秣本廠流山出張所」。その間にも名称変更があったと推察されるが詳細は不明である[1]

1977年当時の陸軍糧秣本廠流山出張所跡地(1977年11月23日)

糧秣廠とは、兵士の食糧と軍馬の飼料を管理した日本陸軍の部署のことである[2]。糧秣本廠は東京府東京市深川区(現・東京都江東区深川越中島にあったが、向島区本所(現・東京都墨田区本所)にあった軍馬用の飼料倉庫が手狭になったことと、飼料(干し草など)の自然発火の可能性などがあったため、本廠の出張所(倉庫)として流山出張所が設置された。 軍馬用の干し草と藁(わら)の主産地は、関東地方では流山町を中心とする千葉県や、近隣の茨城県であったため、流山町は江戸川の水運と鉄道(現在の常磐線流鉄流山線)という物資輸送に有利な立地条件を持っていた。 このような事情から、本出張所の建設が1923年(大正12年)に開始され、1925年(大正14年)6月に完成した。 本出張所の所在地は、現在の流鉄流山線平和台駅の南西側で[1]、 敷地面積は35,260坪(約116,562m2)、 建坪は3,560坪(約11,769m2)であった。 また、主な建造物は、1棟280坪(約926m2)の12棟の倉庫であった。 本出張所で管理した主な糧秣は、干し草、藁(わら)、牧草大麦燕麦コーリャン乾パン、肉の缶詰などで、近衛第一師団の各部隊に糧秣を供給し、宮内省警視庁には牧草を供給した。 本出張所では干し草や牧草を圧搾機[3]を使用して40kgに梱包する作業も行われた。 本出張所は1945年(昭和20年)、日本が太平洋戦争に敗戦し、解散した[4]

歴史

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沿革

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年表

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(本節の参考文献は、特記以外『流山糧秣廠』(p28, p32 - p35)を参考文献とする)

  • 本出張所開所以前から解散まで。その後の跡地利用。
  • 1923年(大正12年)- 本出張所の建設工事開始。
  • 1923年(大正12年)9月1日 - 関東大震災江戸川堤防工事に被害が生じたため、本出張所の設計を変更。
  • 1925年(大正14年)6月20日 - 建設工事完了。
  • 1925年(大正14年)7月1日 - 開庁式[5]。初代所長は陸軍一等主計[6]清水貞
  • 1928年(昭和3年)頃 - 時勢により業務多忙となる。
  • 1936年(昭和11年)頃 - 時勢により業務多忙となる。
  • 1945年(昭和20年)2月24日 - 米軍の空襲により第2番倉庫東側と南側が大破し、付近は半径200mが小破。
  • 1945年(昭和20年)5月頃 - 防空対策として倉庫数を半減する。
  • 1945年(昭和20年)8月15日午前9時頃 - 糧秣本廠から「正午に重大放送あり、全員拝聴のこと」との電話連絡あり。正午に玉音放送を全員が聴く。午後2時に所長訓示あり。8月20日まで通常通りの業務を行う。
  • 1945年(昭和20年)8月20日 - 糧秣本廠で所長会議を開き、終戦による残務整理のための要綱を文書で通知。
    • 残務整理要員は本出張所長が選定し、余剰人員は、解雇、召集解除することになった。
    • 8月31日で出納簿を締め切り、人員数を糧秣本廠に提出し、GHQの承認を受けることになった。
    • 物資など人員以外の件については特別のものを除外し、本出張所長に一任することになった。
  • 1945年(昭和20年)8月31日 - 出納簿締め切り。物資の品目と人員数を提出。
  • 1945年(昭和20年)11月1日 - 運輸省に就職希望職員名簿を提出。
  • 1946年(昭和21年)1月24日 - 隠匿物資が発覚し、朝日新聞に掲載される[9]。しかし、これは事実誤認である[10]
  • 1946年(昭和21年)2月1日 - 本出張所の管轄が運輸省に移り、運輸省東京鉄道局経理部隅田川用品庫流山支庫になり、職員約70名で業務開始し、開庁式を行う。
  • 1949年(昭和24年)- 国鉄の合理化により流山用品庫が廃止となり、大蔵省へ管轄が移ると同時に、キッコーマンなどの民間に払い下げとなる。
  • 1983年(昭和58年)4月7日 - 本出張所跡地の一部に千葉県立流山南高等学校が開校。
  • 1993年(平成5年)11月11日 - 本出張所跡地の残部にイトーヨーカ堂流山店が開店[11]

流山線からの引込線と出張所内の軌道

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陸軍糧秣本廠流山出張所への引込線は現在の流鉄流山線平和台駅付近から分岐していた。引込線跡には架線柱[12]が残っていた。陸軍糧秣本廠流山出張所については流山市立博物館に展示されており、陸軍糧秣本廠流山出張所内での引込線の配置や出張所内の軌道[13]の線路配置が示されている。

出張所跡地

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1949年(昭和24年)に民間に払い下げられ、キッコーマン三楽オーシャン盛進製薬[15]の工場などになった。現在はイトーヨーカドー流山店や千葉県立流山南高等学校、マンションになっており、引込線跡の痕跡はなくなっている。引込線の脇にあった木造平屋建ての流山市営住宅は取り壊され、移転した。

脚注

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  1. ^ 流山糧秣廠』(p14)より。
  2. ^ 陸軍糧秣廠』 - コトバンク
  3. ^ 機械的に圧力をかけたり、あるいは、液体を利用して圧力をかけたりして圧縮する機械のこと --『広辞苑 第五版
  4. ^ 「町民鉄道」の60年 - 総武流山電鉄の話』(p35 - 37)より。
  5. ^ 新設された官庁が業務を開始する式典のこと --『広辞苑 第五版』より。
  6. ^ 旧日本陸海軍で経理業務などを担当した武官のこと --『広辞苑 第五版』より。
  7. ^ 関連文献 -『侍従武官長 奈良武次日記・回顧録
  8. ^ 大辞泉』(p2444)より。
  9. ^ 天声人語 1. 朝日新聞. (1981-01-20). p. 55 
  10. ^ 流山糧秣廠』(p28)より。
  11. ^ 流山糧秣廠』33ページでは「大型スーパー開店」と記述されているが、同書34ページには「流山糧秣廠が現在のイトーヨーカ堂の地に設立されたのは、(省略)」と記述されているので、この大型スーパーとはイトーヨーカ堂流山店のこと。
  12. ^ 架線を支えている電柱のこと --『詳解 鉄道用語辞典』(p93)より。
  13. ^ 出張所内に敷設されていた軌道は、引込線(軌間1067mm)に入線した貨車と、ホームで荷物の積み替えが行われていた。『流山糧秣廠』(p21)ではこの軌道のことを「トロッコ」と記述しており、ナローゲージ(軌間1067mm未満)の軌道の可能性あり。
  14. ^ 「町民鉄道」の60年 - 総武流山電鉄の話』(p36)には平和台駅側から引込線跡を撮影した写真が掲載されている。
  15. ^ キッコーマンの関連会社 --「キッコーマンのあゆみ 1917-1963」の“1961年”と「キッコーマンのあゆみ 1990-1999」の“1993年”より。

参考文献

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ウェブサイト

出版物

  • 『流山糧秣廠』流山市立博物館〈流山市立博物館調査研究報告書 13〉、1996年3月31日 発行。 流山市立図書館 蔵。
  • 北野道彦『「町民鉄道」の60年 - 総武流山電鉄の話』崙書房、1978年2月25日 第1刷発行、1981年6月10日 第2刷発行。 流山市立図書館 蔵。

辞典

  • 高橋政司 編 編『詳解 鉄道用語辞典』(初版)山海堂、2006年5月30日 第1刷発行。ISBN 978-4381085955 
  • 広辞苑』(第5版)岩波書店〈シャープ電子辞書 PW-9600 収録〉、1998 - 2001年。 
  • 小学館『大辞泉』編集部 編 編『大辞泉』(第1版)小学館、1995年12月1日 第1刷発行。ISBN 978-4095012117 

関連文献

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関連項目

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