飯田俊助
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飯田 俊助 | |
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生誕 |
1846年9月30日 山口県 |
死没 | 1914年3月23日(67歳没) |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1873 - 1906 |
最終階級 | 陸軍中将 |
指揮 | 第1師団長 |
戦闘 |
日露戦争 *遼陽会戦 *沙河会戦 *奉天会戦 |
飯田 俊助(いいだ としすけ、1846年9月30日(弘化3年8月10日[1]) - 1914年(大正3年)3月23日)は、日本の陸軍軍人、華族。最終階級は陸軍中将。男爵。
経歴
[編集]山口県出身。長州藩家老福原家家臣・飯田直規の四男として生まれる[1]。奇兵隊に入隊し戊辰戦争に従軍した[1]。
1873年(明治6年)2月、歩兵少尉に任官。1894年(明治27年)11月、歩兵第20連隊長となり、翌月、歩兵大佐に昇進。1896年(明治29年)10月、歩兵第15連隊長へ異動。
1898年(明治31年)10月、陸軍少将に進級し歩兵第11旅団長に就任。日露戦争に出征し、遼陽会戦、沙河会戦に参加。1905年(明治38年)2月、陸軍中将に進み、戦病死した松村務本中将の後任として第1師団長に親補され、奉天会戦を戦った。1906年(明治39年)2月3日、後備役に編入[2]。1909年(明治42年)4月1日に退役した[3]
1907年(明治40年)9月21日、日露戦争の功績により男爵の爵位を叙爵し華族となった。
栄典
[編集]- 1883年(明治16年)7月16日 - 従六位[4]
- 1891年(明治24年)12月28日 - 正六位[5]
- 1895年(明治28年)1月21日 - 従五位[6]
- 1898年(明治31年)10月31日 - 正五位[7]
- 1907年(明治40年)6月21日 - 従三位[8]
- 勲章等
- 1889年(明治22年)11月29日 - 大日本帝国憲法発布記念章[9]
- 1893年(明治26年)11月29日 - 勲三等瑞宝章[10]
- 1895年(明治28年)11月18日 - 明治二十七八年従軍記章[11]
- 1902年(明治35年)5月31日 - 勲二等瑞宝章[12]
- 1906年(明治39年)4月1日 - 功二級金鵄勲章・勲一等旭日大綬章・明治三十七八年従軍記章[13]
- 1907年(明治40年)9月21日 - 男爵[14]
親族
[編集]- 父・飯田勘右衞門[15]
- 妻・マサ - 萩藩士・井上品之助の二女[16]
- 長男・男爵飯田精太郎(運輸通信次官・貴族院男爵議員・参議院議員)
- 二男・飯田祥二郎(陸軍中将)
- 娘・貞 - 陸軍軍医総監(中将相当)・梶井貞吉の妻[16]
- 娘・八重 - 帝国製紙技師工学士・郡司恭雄の妻。夫の恭雄は山口県郡司家の出で、県の多額納税者・中光幸一の弟。[17][16]
脚注
[編集]- ^ a b c 『平成新修旧華族家系大成』上巻、83-84頁。
- ^ 『官報』第6777号、明治39年2月5日。
- ^ 『官報』第7766号、明治42年5月18日。
- ^ 『官報』第35号「叙任」1883年8月10日。
- ^ 『官報』第2551号「叙任及辞令」1892年1月4日。
- ^ 『官報』第3467号「叙任及辞令」1895年1月22日。
- ^ 『官報』第4603号「敍任及辞令」1898年11月1日。
- ^ 『官報』第7193号「叙任及辞令」1907年6月22日。
- ^ 『官報』第1938号「叙任及辞令」1889年12月12日。
- ^ 『官報』第3131号「叙任及辞令」1893年12月5日。
- ^ 『官報』第4010号・付録「辞令」1896年11月9日。
- ^ 『官報』第5671号「叙任及辞令」1902年6月2日。
- ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1906年12月30日。
- ^ 『官報』第7272号「授爵敍任及辞令」1907年9月23日。
- ^ 飯田俊助『人事興信録』初版 [明治36(1903)年4月]
- ^ a b c 飯田精太郞『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]
- ^ 『現代防長人物誌』下、井関九郎、1917、p581
参考文献
[編集]- 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』上巻、霞会館、1996年。
日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 |
男爵 飯田(俊助)家初代 1907年 - 1914年 |
次代 飯田精太郎 |