龍造寺康家
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時代 | 室町時代中期 - 戦国時代 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 永正7年3月21日(1510年4月29日)[1] |
改名 | 忠俊?/家満(初名)[2]、康家 |
別名 | 安家、二郎、隠岐入道 |
諡号 | 慶雲院[2] |
戒名 | 定翁浄正居士[2] |
墓所 | 佐賀県佐賀市本庄町の高伝寺 |
官位 | 右衛門大夫、隠岐守 |
主君 | 九州千葉氏、少弐氏 |
氏族 | 龍造寺氏 |
父母 |
父∶龍造寺家氏 母∶不明 |
兄弟 | 家貞、家正、定明、家次、康家 |
妻 | 小鳥居信元娘 |
子 |
胤家、内田左京亮室、家和、澄覚、 大炊助、家兼、天亨 |
龍造寺 康家(りゅうぞうじ やすいえ)は、室町時代中期から戦国時代にかけての武将。龍造寺氏14代当主。
生涯
[編集]肥前国国人・龍造寺氏13代当主・龍造寺家氏の子として誕生。初名は忠俊[3]、又は家満。
肥前の有力大名である九州千葉氏や少弐氏に従い、大内氏としばしば戦った。文明5年(1473年)、恵日山実琳院を再興し子・澄覚を住持としている[2]。文明17年(1485年)には肥前津町に押買や強盗等の禁制を発している[4]。
明応年間(1492年から1501年)の末に隠居し[2]、家督を次男・家和に譲り[5]、自らは水ヶ江の地に新たな館を築き隠居所とした[2][6]。永正2年(1505年)頃、剃髪し隠岐入道と号した[6]。
永正7年(1510年)、死去。
康家没後、水ヶ江の館を継いだ五男・家兼は館を改修し水ヶ江城とした。これが水ヶ江龍造寺氏の始まりである。
脚注
[編集]- ^ 『大日本史料』第9編之2 529頁
- ^ a b c d e f 『普聞集』
- ^ なお『龍造寺系図』では「文明五年再興實琳院・龍造敎寺、其頃號忠俊」と記載されている。
- ^ 『大日本史料』第8編之17 242頁
- ^ 嫡男・胤家は出奔している。
- ^ a b 『龍造寺系図』
出典
[編集]- 『藤龍家譜』
- 『龍造寺隆信譜』
- 『普聞集』
- 『龍造寺系図』