星雲状想起──『この湖にボート禁止』

引きずられて思いだすとはなにだろうか。昔こんなことをしたと相手が言う。私は「こんなこと」という程度確定語彙を利用して「私にとってのこんなこと」に当たるべき、だがそれゆえ相手とは体験内容がべつであれるような──「あなたと私は違う」と確認できるための、相互個体化可能であるための──子供のころの記憶をさがす*1。ある意味でよそ見するように。

たとえば、作家や、ないしは誰か知人が「茂みのなかをかきわけて腕や眼のそばに引っかき傷をつくったときのこと」を私に聞かせる。それによって私は、外延指示的にそれと同じ出来事を思いだすこともある。しかしむしろ、そのひとが以前かきわけたという茂みの味や抵抗感をそのひと自身の体に今そうしておろしているやりかた、あなたがそんな風に語るしかた、自分の意識に今波及させつつあるかつての肌のリアルの深度のありかたにならって、べつのことを思いだしそうに私はいる。茂みという経験と同じタイプの出来事を自分のなかから洗いだそうとする方向も、たしかに「引きずられて思いだす」ということであるには違いない。だが、それとべつの方向もあるのだろうし、それをここでとりあえず挙げてみようとしている。「茂みという経験」と「その茂みをかきわけたというひと」の間に取り結ばれる関係(死ぬまでのっぴきならないものから、いつ忘れても構わないものまで)に吸い寄せられるなら。茂みという記憶の内容にならうのではなく、茂みという記憶に対する話者の具体的な態度にならおうとするとき、引きずられて思いだすことは相手を私とべつにしうる。私にとっても「そのくらいの」温度で語れる出来事はあっただろうか、という方向性で。

思いだされた内容ではなく、思いだしかた、荷重を真似る。それによって私は茂みをかきわけることと同じタイプの経験ではなく、妹と、住人が自殺して以来廃屋となっていた近所の空き家に不法侵入する前の風の固定*2のこと(玄関から居間まで切れ目なしにカレンダーや木片が砂色に散乱していた床)や、冬に秋田で体育の時間にはノルディックスキーで校舎のまわりの林やニワトリ小屋の向こうを大きくめぐるコースをえんえんとまわり続けた汗の暑さを思いだせるようになる。

 母さんは女の人たちと話をしながらおりてきた。さっそく友だちができたようだった。ぼくたちは母さんの荷物を分けて持ち、これまであったこともない人たちに遠くから「さよなら」と声をかけ、母さんをあいだにはさんで山荘に向かった。

 母さんは道々ずっと話していた。ウィンスウェイトの町は、はじめて駅から見たときにはぱっとしなかったが案外よいところで、学校は、見てきたのはぼくのだけだが、スーザンの通う学校の生徒らしい姿もあちこちで目にしたといった。

(多賀京子訳、リチャード・ケネディ画、ジェフリー・トリーズ『この湖にボート禁止』p.70、福音館書店、2006年。強調は引用者による)

 

とある場面で、主人公は水辺を歩きながら「紙で船を折って浮かべたら楽しそうだ」などと考える。この叙述は私をあまり動かさない。いちいち読み手として反応するにはいろいろなことがありすぎる本だからだが、それに続き、「手もとに紙があったら、ほんとうにやってみたかもしれない」と主人公は言いたす。それで私の心が少し動く。ほんとうにやってみたかもしれない、と小説の登場人物に言われることには「それくらいの」大きさがある。船の思念はそのあと、「もしスーザンが子どもみたいだとばかにしたら、あいつをかわりに水に浮かべてやっただろう」という一文でしめくくられる。主人公がこうして連想を終えた地点から、私が今度は「ほんとうに」想像を開始させ、その想像も開始したとたんに糸がぷつっと切れるのだが、とにかくそのように私が主人公の叙述をつたって想像するところの、水の上に紙でできたお舟のように浮かべられたスーザン(想像)はふしぎと騒がず(想像)大人しく水面にいるように見えて(想像)、可笑しい(私)。

*1:しばしば程度確定語彙はまったくべつの談話領域で(こそ)利用される。このマンガを知ってるなら「あのあたり」のマンガはもう大体通ってるだろう、これがあんなに嫌いなのなら「ここらへん」の作品にもあまり同意しなさそうだろう、など一定の量塊で把握されたジャンル隣接性、歴史的な/私的な評価の知のネットワークに基づいて会話をすりあわせたり、相手の趣味を少しでも知ろうとするときの推論状態、早とちりがちの。

*2:この箇所ははじめ「風のひえかた」と記されていたがこの文章を続けるうちに今見られる表現をとった。

最小単位を見せる像

MITACLEというサービスからVのモデルがいろいろ最近でている。

mitacleblock.com

といっても私は購入してないので概要だけ拾ってみた。小分けされた実物のブロックを自分で組み立ててフィギュアにして楽しむ。その際、3D設計書なるものをオンラインで見て助けにすることができる。この3D設計書が、それ自体で鑑賞可能なキャラクターの3Dモデルとして公式サイトで公開されているのが特徴だ。モデルに対してぐるぐるとカメラを回し拡大縮小することができ、制作過程を1から順序立ててたしかめることもできる。だから発想としては、マイクラのキャラメイク+レゴブロックなどの伝統的な工作物性をくっつけたようなものだろう*1

 

オンライン上で鑑賞できる電脳少女シロモデルの3D設計書

 

デジタルなボクセル表現とアナログのブロックトイ構造を直接話として繋げるのは一見するよりやすやすとはいかない点があるように思える。それらとピクセルアートを繋げるのは、さらにもっとべつの難点──語るには一定の前議論的な準備が要るだろうということ──が感じられるだろう。とはいえ、あたかもそんな難点がないかのように乱暴に振る舞うなら、構成されたグラフィックデザインにおける最小単位へと心を向かせる点で、やはりこれらが横断的にまとめて考えてみたい気持ちを誘う表現領域であることもたしかではないだろうか*2。あるいは上記のMITACLEがそうだが、経験的にはけして1×1の最小単位をひとつひとつ積み重ねて完成させる訳ではないのだが(組み立てるためのパーツはあらかじめ固有のブロック容量を備え分けているから)、そうであるからこそイメージが完成した時点でそこから今度は最小単位のほうが析出されて見えてくることなどが(恣意的な縮尺のグリッドをバックスクリーンとして投影することに成功するなら)。いずれにせよイメージの最小単位というとらえかたは私には今も考えがいがある。

*1:G-antの公式文では「2Dイラストを3Dにするブロックトイ」と簡潔にキャッチコピーがついている。https://www.g-ant.co.jp

*2:この、全体を組織する個々の物質の「最小単位」が同時に、実サイズにおいてはいつでも恣意的になりうる、という尺度のあざむきがgnck「電子のメディウムの時代、デジタル画像の美学」(光岡寿郎・大久保遼編『スクリーン・スタディーズ デジタル時代の映像/メディア経験』所収)の示唆していた重要な論点でもあった。

非永続的肖像画のために

マンガのキャラクターはペンで描きあらわされた瞬間からすでに「なんらかの表情」をその顔の上に伴っている(テプフェール=ゴンブリッチ)。これは経験的にたぶん同意可能な事柄だろう。もっともその表情がいったいなんの「状況」に対応しているかはいまだ不明だとしても。つい吹きだした顔、怒りで蒼白になった顔、ぼーっとなにかにみとれている顔などのなんらかの具体的な相貌と、線画から立ち上がるキャラクターの図像的表現の間に、19世紀のロドルフ・テプフェールは非永続的符号という言葉を取りつけたのだった。

 観相学においてまず識別できることは、画家が描線の特徴によって捉えることのできる表情の符号は、永続的な符号と非永続的な記号の二種類があるということだ。

 永続的な符号とは、その名のとおり永続的な魂の習性を表す符号で、私たちが一般に性格という名で理解しているものである。それから思考や活動、能力など、私たちが一般に知性という名で理解しているものも含まれる。

 非永続的符号とは、笑い、怒り、悲しみ、侮蔑、驚きなど、魂のあらゆる一時的で偶然の働きと興奮を表す符号であり、一般に感情という名で理解しているものである。

森田直子訳、ロドルフ・テプフェール『復刻版 観相学試論』第八章pp.12-13、オフィスヘリア、2013年)

 元来観相学とは、顔の恒常的な特徴のみを扱うもので、一時的な表情や身ぶりのコードすなわち「情念の症候学(仏語 pathognomonie)」*1とは区別される。(……)しかしテプフェールは、「情念の症候学」にしか信をおかず、しかもそれを描画上の効果として考えるにとどめていた。『試論』第八章以降で展開される、永続的符号(signes permanents)と非永続的符号(signes non permanents)の分類は、狭義の「観相学」と「情念の症候学」の区分に相当するが、テプフェールは笑いや悲しみ、恐怖などの一時的な感情に関与する「非永続的符号」が絵を見る人に確実な手がかりを与えるのに対し、知性と性格のありようを示す「永続的符号」のほうは確実さに欠けるとしている。

森田直子「訳者解題」p.27、同上)

永続的符号と非永続的符号の関係については少し考えただけであれこれ厄介な難点を見ずにはいられない。ではあるにせよ、非永続的符号が具体的ななんらかの情動に関与するイメージであり、ということはつまりキャラクターにとってそのつど具体的なシチュエーションを前提とするようなタイプの表現だということでもあると見なすならば、私がたにとってそれがビデオゲームのキャラ絵──メニュー画面や個別のキャラプロフィールページなどで眺められる顔グラ、要するになにか特定の状況に対応してそういう顔を提示している訳ではない筈の顔*2──の問題になることは明らかである(アカデミック風)。観相学から独自にキャラクターの情念論を引きだすことができたテプフェールを、ビデオゲームの顔グラ論のために今一度呼び返しておこう。

*1:吉永真一訳、ティエリ・グルンステン『線が顔になるとき』では「感情学」とも訳語が当てられているもの。

*2:なおかつゲームの絵はしばしば使いまわしを積極的に許容しさえする。それゆえひとつの同じ顔グラは、会話イベントで「具体的なシチュエーション」に対応することもできれば、肖像画タイプのステイタスをとってキャラプロフィール画面に誰とも対応しないまま鎮座することもできる。

北風はこうだ、こうだ、こうだ

その時、ウン、「その時」ってベンリ、ベンリ、どんな奇蹟が起こってもふしぎじゃぁないもんね
北川透「天狗ちゃんと目覚まし時計」

 

そうかも知れない。だが「その時」という直叙が今日という日はとりわけあっちに行っている。ここが「その時」の筈なのだが・・? つってもさあ、だからどうしたとアリソン・アトリー『西風のくれた鍵』石井桃子・中川李枝子訳、岩波書店、1996年)に「雪むすめ」という一編を取りだす。「ファンタジー」は可能なかぎり寒い土地のことを読み手に思い浮かべるよう訴える。ファンタジーはいつもそう。とても北の・雪の・氷の国があったと言い、読み手はその悪びれない声音に対応して青かったり黒かったりしたがる。眼にあかりを落とし、あかりに眼を上げる。氷は今も属性なのか。

 北風は、王たちの住む、はかりきれないほど大きな白い宮殿の角かどをめぐって、ひゅうひゅううなりながら走りまわり、金切り声をあげて煙突から中へとびこみました。すると、そこでは、火とそっくりな赤い光が、ぱっとおどりましたが、その光は、すこしも熱をもっていませんでした。

(「雪むすめ」pp.37-38、前掲書)

そんなとても北の・雪の・氷の国に宮殿があると話は始まる。王と女王がふたりで住んでいて、その細々とした心中が「冷たい領土」という作品舞台の紋切り型のコノテーションにとりあえず帳尻を合わせる。そこで上記の引用において、北風が文中に姿を現す。この段階では北風は動物として語られているから、色鉛筆で荒く吹いたような線の生物として私は適当に流しているだろう。

 北風は、宮殿の天井の、白い花を彫りつけてある雪のふちかざりを吹いてまわり、ほほをいっぱいにふくらませて、巨大な氷の壁画や、あちこちにかかった絵に息を吹きかけました。それらの絵には、水晶のようなシダや森が描かれ、また南の国ぐにの、あらゆる美しいものが、氷の女王をよろこばせるために刻まれていました。けれども、王と女王は、北風のいることには知らん顔でしたし、北風が毎日かきかえる絵についても、すこしも気にとめていないようでした。

(p.38)

その即座、動物として見ていたものに「ほほをいっぱいにふくらませて」という措辞が使われる。この表現は続く「息を吹きかけました」という曖昧に妖精的な動作よりはるかにラインを超えている。だからさっきまでイメージの上に仮づくりしていた「線の動物のようなもの」にかえて、ぴちっと張った、まるまるとした頬を持った生き物を生成しなくてはいけない。しかも頬の描写にふれられると、単純な目鼻なども要請をこうてくる。こうして私の北風像はやなせたかし的な造形へと更新される。さてこのあといくらもしないうちに今度はこう言われる。

 北風は強く、りりしく、夜のような深い青い目をした若者でした。

(p.38)

修正ではもうきかない。北風=線の動物と、その修正像すなわち北風=やなせたかし的キャラクターはここで私の眼の前で破棄され、この行がずけずけと読者に対して定義してくる北風=ロマンスの主人公という像を新たに立ち上げる必要に迫られる。北風は実は話の最初からこのような「若者」の姿としてあったのであり、文章がそれをいきなりは明かさないで徐々に人間寄りの描写を増やすという「楽しませる叙述」をとったのだと言われれば反対するいわれもない。それだけにしかし、この短期間で(ページの上ではたった2ページだ)その像を幾度も修正させられることには落ちがつかない。像が、次の文章ひとつであっさり一変することは予期できなかった*1。冒頭の引用にかこつければ、「その時」をどこで迎えるかを文章は(そしておそらく「+私」も)約束しない。

*1:同様のことは「鋳かけ屋の宝もの」の最後、「ペナテスたちもまた、(……)」という心臓が少し飛びだすような主語で語ることが可能だということにもある。「幻のスパイス売り」でベツシーがナツメグをもらって帰ってきたあとの「そこで、ナツメグは、(……)」という一文の現れ方もそうだ。これらはつまり、作品の上に数々登場する、なにものがたとえば「物思い」することができるかの予期できなさだと言うにひとしい。

おおフケー!

魔法の指輪 ある騎士物語(上・下) | 幻戯書房

おおシュトルム!

従弟クリスティアンの家で 他五編 | 幻戯書房

とびっくりしてたらこれらはルリユール叢書というシリーズの一環で出版されていて(知らなかった、いやウルフのフラッシュがでてたのだけは知ってた)そのラインナップをたしかめてもっとびっくり

まるで80年代のような瀟洒な企画でわ(すみません嘲笑的な意図はぜんぜんないです

かつては潤沢な予算をバックに可能だっただろうことを今の情勢と条件でこうして掘り下げる場所やひとがあるかと思うと

とか

で今月はロドルフ・テプフェールも叢書に一冊をくわえるとのこと。

マンガではなく小説が・・!

 

びっくりですね

 

book.asahi.com

Live2Dオンリー アアーそういうのもあるのか

それはちょっと見たくなっちゃ

alive 2024 – 2024年12月13日(金) @秋葉原UDX | Live2D Cubism

 

もうすぐでる文藝はゲームの小特集(買おうとしたらまだ先だった

文藝 2024年冬季号 |河出書房新社

 

 

清水徹訳、ミシェル・ビュトール『絵画のなかの言葉』から

 ウフィッツィ美術館にある『聖なる寓意』と呼ばれているベルリーニの絵の主要人物たちは、その大部分がそれぞれの象徴物によって容易にだれとわかる聖人たちであるが、わたしたちは、このふしぎな風景のまっただなかで、会話をかわす貴婦人や愛の神(アモール)だと見なされる小天使たちに立ち混って、何本もの矢を打ちこまれてこんなに静かにしている青年、傷ついたままこんなにおとなしくしているこの青年は、いったいなにをしているのだろうと夢想にふけってしまうため、この男性裸像に刺さった矢から当然それが聖セバスティアンだと読みとらねばならぬことをつい忘れてしまう。

(p.66、強調は引用者による)

描かれた顔とそのひとの名前、総じて本人の同定可能性について、肖像画をめぐる自由なビュトールの散文を読みながら、ビデオゲームの顔グラには、いや顔グラにこそ、まだできることはあると思いをあらためる。いくつかアイデアが浮かぶ