不可視な世界

非対人性愛・人間と非人間の関係性・神経多様性・クィアな世界制作

【告知】増補「フィクトセクシュアル宣言」のネット公開

お知らせ

先日、『人間科学共生社会学』第13巻において、最新版の「[増補]フィクトセクシュアル宣言:台湾における〈アニメーション〉のクィア政治」が公開されました。本論文には松浦優さんの解説、「宣言」の全文と補論「『フィクトセクシュアル支持的空間』には何が必要か」が含まれています。いずれの文章も松浦優さんがネイティブチェックを行いましたが、本文は松浦さんとの共著であり、「空間」に関しては私の単独執筆(松浦さんが一部註釈を追加しています)です。

概要

このマニフェストは、フィクトセクシュアルに関するフィールドワークとクィア理論的研究をもとに、人間中心的なジェンダー観や性的規範性、そして存在論を問い直すべきだと主張するものである。

フィクトセクシュアルがクィアの運動や研究のなかで扱われるようになる過程では、アセクシュアル研究と二次元文化研究の蓄積が重要な役割を果たしてきた。さらに人類学者テリ・シルヴィオの「アニメーション」概念をポストヒューマニズム的パフォーマティヴィティとして読み替えることによって、架空の存在がもたらす「ジェンダー・トラブル」を、人間と非−人間のもつれから生じる攪乱としてクィア理論の系譜に位置づけることができる。またフィクトセクシュアルの人々は、キャラクターが生身の人間とは存在論的に異なるということに関する思索を通して、脱−人間中心的な存在論や倫理の可能性を切り開いている。

しかしながら、フィクトセクシュアルは支配的なジェンダーセクシュアリティ・システムのもとで周縁化されてきた。この問題は「対人性愛中心主義」および「ヒューマノジェンダリズム」と呼ぶべきものである。対人性愛中心主義とヒューマノジェンダリズムは、性差別、異性愛規範、シスジェンダリズム、強制的性愛と結びついているだけでなく、人間中心的な存在論の問題でもある。こうした問題に取り組むことによって、クィアな世界制作への道が開かれるだろう。

バージョンについて

現在、「宣言」には3つのバージョンがあります。第1版は、松浦さんの論文「アニメーション的な誤配としての多重見当識」(2022年、『ジェンダー研究』第25号)に基づき、私が導入文として書いたもので、中英バイリンガルのzine形式で発行され、同人イベントにおいて50部が販売されました(完売)。第2版は、ネット上で公開されたもので、同人イベントでの反響を取り入れ、さらに『攻殻機動隊S.A.G.』などの参照を追加した補足が含まれています。このバージョンもzineとして100部印刷され、同人イベントやフェミニスト書店Fembooksで委託販売されました(完売)。

第2版はこちらのリンクからご覧いただけます。このバージョンはネイティブチェックは行っておりませんが、何人かの読者から言語面での修正提案をいただきましたことに感謝いたします。

『人間科学共生社会学』に掲載されたバージョンは第3版であり、期刊に発表されたため、最終版となる予定です。このバージョンは松浦優さんと私の共著ですので、最も緻密な論述を参照したい場合は第3版をお勧めします。しかし、私にとってはそれぞれのバージョンが独立しており、異なる特性を持っていて、その時期に私が考えていたことが表現されています。

第3版の由来は、2023年末に松浦さんからアーカイブとしてこの宣言を掲載したいというお誘いを受けたことにあります。当初は共著の予定はなく、私はいくつかの修正を行い、松浦さんが校訂と注釈の追加を担当されました。しかし、〆切が近づいた頃、ある友人から英語圏での出版機会を提供され、英語圏で発表するのであれば、松浦優さんとの共著が理にかなっていると考えました。そのため、松浦さんと私は大幅な修正を加え、この第3版となりました。(もし採用されれば、2026年頃に英語版が発表される予定です。)

第3版における補足と改訂

今回の発表はもともと「宣言」と、私がFacebookに投稿した「フィクトセクシュアル・フレンドリーな空間に必要なものは?」「『Fセク』を『異/同性愛』に含めることの何が問題なのか」という三つの文章の合輯でした。しかし、改訂を進める中で分量が多くなりすぎたため、「異/同性愛問題」という文章を削除しました。理由としては、この主題についての理論化がまだ十分ではないと感じたため、今後の論文で扱う予定です。

「空間」という補論では、もともとは第一段「導入」と第四段「フィクトセクシュアル支持的空間には何が必要か」だけでした。そこに、第二段「『抹消』と『驚き』による空間戦略・戦術」と第三段「フィクトセクシュアルの概略的記述」を追加しました。第二段は既存の学術的な文脈に合わせるために入れたものですが、紙幅の制限もあって少し中途半端に見えるかもしれません。ただ、これは問題意識を簡単に提起したに過ぎません。そして、第三段はこの文章の中で最も重要な部分だと思います。第四段で提示されているさまざまな構想を考える助けになるからです。また、第四段には、その後に私が目にした事例もいくつか追加しました。

「宣言」について、松浦さんとの共同修訂のため、状況がもう少し複雑です。以下に、主な改訂と補足を箇条書きで説明します。

アニメーション・パラダイムについて

まず、テリ・シルヴィオの「アニメーション・パラダイム」についての解説を追加しました。しかし、シルヴィオの「アニメーション対パフォーマンス」の図は削除しました。この図はシルヴィオが理論的に作成した対照を理解するのに役立ちますが、これらの理論に不慣れな人には理解しづらいです。第三版では、シルヴィオがこの理論を提唱した背景を強調し、後続の議論とより良く関連付けています。

この議論に続いて、非−人間のエイジェンシーによる「アニメーション的な誤配」の解説と関連する具体的事例を補足しました。この段落(2. 1.)の改訂は主に松浦さんが担当しましたが、いくつかの中二的な用語は私の改訂から残されたものです。たとえば、「非世界的な万物を世界化」という表現など。この段落では「アニメーション的な誤配」の意味を簡潔に説明しようと努力していますが、この概念を詳細に理解したい場合は、松浦さんのさまざまな著作を直接参照することをお勧めします。

私がにアニメーション・パラダイム関して補足したのは、「アニメーティヴな再帰性による不気味な存在論」という段落(2. 2.)を新たに追加したことです。この段落では、シルヴィオの「アニメーティヴな再帰性」に関する議論に焦点を当て、いくつかの台湾での事例にまで続けています。補足された事例には、「フィクトセクシュアルのパラドックス」に関する調査や、別のフィールドで出会った「ファーリーセクシュアリティ」、さらに元々後の段落で言及した台湾の「偽娘」コミュニティがこの段落に移されたことが含まれています。

「不気味な存在論(uncanny ontology)」はシルヴィオが言及した用語ですが、その著書の中では全く説明されていません。そのため、Manning & Gerson(2013)の言説を使ってその意味を与えようと試みました。私はこれを、アニメーティヴな再帰性を通じて「生気」の存在論を調整することによって生まれるオルタナティブ存在論として理解しています。私と松浦さんの関連する議論には、「uncanny ontology」の「uncanny」が形容詞か名詞かということが含まれています。言い換えれば、名詞であれば「不気味なモノの存在論」と翻訳すべきであり、形容詞であれば「不気味な存在論」と翻訳すべきです。私が述べたいことは後者なので、ここでは「不気味な存在論」と訳しました。

ちなみに、Manning & Gerson(2013)の議論を踏まえ、この段落では「不気味な存在論」とフィリップ・デスコーラの存在論的転向との関連についても新たに議論を追加しました。

対人性愛中心主義とヒューマノジェンダリズム

私が最初に松浦さんにお願いしたのは、「ヒューマノジェンダリズム」という概念を追加し、「『〈字義どおり化〉という幻想』としてのジェンダーセクシュアリティ・スクエア」の図を入れることでした(3. 3.)。これは私が第一版、第二版を書く際にはまだ出ていなかった概念であり、これらの新しい展開が読者の理解に役立つと考えています。

これに応じて、「異性愛マトリックス」の概念と図は削除されました。私にとって「異性愛マトリックス」はFセクやAセクの「抹消」状況を直感的に理解するのに役立ちましたが、松浦さんはこの概念が「〈字義どおり化〉という幻想」と重複していることを指摘したため、この段落を削除しました。

関連する改訂として、旧版に登場した「ディルドの比喩」と「素肉の比喩」を一つの段落にまとめ、ポール・B・プレシアドの概念「否定-性科学」をタイトルとして使用しました(3. 2.)。私も、プレシアドの概念を直接使用することで、この段落が何を言おうとしているのかをより連想しやすくなると思います。

事例について

事例については多くの調整が行われました。まず削除されたのは『攻殻機動隊Innocence』のネタで、確かにかっこいいのですが、多少意味が不明でした。また、Fセクの歴史性をある程度強調するために、1980年代の「二次元コンプレックス」に関する事例を補足しました。松浦さんは注釈でこれをAセク研究の「共鳴(resonance)」理論に結びつけています。

また、上野千鶴子の言説についてですが、旧版では上野の相対的非公式な発言を引用していました。より公平な評価を目指すために、第三版では上野の代表作『女ぎらい』を事例として選びました。この著作は日本、台湾、中国、英語圏でより高い知名度を持っています。

また、この宣言は精神分析にそれほど重点を置いていないため、文章の冒頭で引用していた『戦闘美少女の精神分析』における「オタクの究極の夢」についての直接引用を削除し、代わりに松浦さんの「多重見当識」に関する議論を取り入れ、Aセク研究の地平に繋げました。そして、文末の「サイボーグ宣言」からの直接引用も削除し、ハロウェイのより後期の著作を引用する形に変更しました。

最後に、このバージョンでは「非対人性愛」の視座から明確に立場を表明するために、この段落を追加しました。(旧版では「非対人性愛」という言葉に言及するのみでした。)

また英語圏アセクシュアル・コミュニティが提示した視座は、フィクトセクシュアルは単なるアジア的な奇特な性の一形態であるというステレオタイプ(あるいはオリエンタリズム)を問い直し、フィクトセクシュアルを真剣にとらえることを可能にするうえで、重要な示唆をもたらすものです。それと同時にフィクトセクシュアルは、A-spec の外側での活動として、「非対人性愛の運動」の力学を通して独自の生を築き上げてもいます。「非対人性愛」は包括的な用語として、A-spec とつながるだけでなく、対物性愛(Marsh 2010)、人形愛(関根 2018;Kubes 2019;Karaian 2024)、動物性愛(Rudy 2012;濱野 2019)、フェティシズム(McCallum 1998;田中 2009)、エコセクシュアリティ(Sprinkle, Stephens, and Klein 2021)、スペクトロセクシュアリティ(Spectrosexuality)などにも接続されるものです。

 

 

 

フィクトセクシュアルな視座をどのように具象化するか

破抹消化戦略/戦術

私は「『フィクトセクシュアル支持的空間』には何が必要か」(Fセク宣言[松浦優との共著]の補論として、『人間科学共生社会学』第13号に掲載予定)という日本語論文の中で、「脱抹消化戦略/戦術」という言葉を使用しました。この言葉は、松浦優の「抹消の現象学的社会学」という論文で言及されている「抹消(erasure)」の概念から来ています。大まかに言えば、それは意味領域間での隠蔽、非類型化、および反問題化を含みます。これにより、問題が問題として認識されず、意味の主題が主題として認識されない状況が生まれます。

「抹消」という言葉は、すでにセクマイ・コミュニティで使用されています。例えば、「Aセク抹消(asexual erasure)」「バイセク抹消(bisexual erasure)」などです。(例えば、「Aセクはまだ運命の人に出会っていないだけ」「異性と付き合っているバイセクシュアルはただの異性愛者でしょ」などです。)

しかし、抹消という形態の差別は、差別研究においてはまだ十分に注目されていないため、「抹消の現象学的社会学」の重要性がここで際立ってきます。抹消のレトリックは主に「○○にすぎない」「ただの○○でしょ」といった形で表れます。これは単に発話対象を矮小化するだけでなく、主に「別のクレームを無効化する」ことに作用します。抹消は単なる言語行為にとどまらず、ある規範を引用して別の言語行為を無効化する点が、この差別形式の核心となります

最近執筆中の論文「非対人性愛支持的コミュニティはどのように可能か」において、抹消の結果は単なる伝達の問題にとどまらず、日常生活の中で「言える、言えない、言っても伝わらない」という心態が持続的に測られることに言及しています。他の「言えるか言えないか」の少数者圧力(minority stress)と比較して、第三の状況という「言っても伝わらない」は、つまり「決心してカミングアウトしても最終的には冗談としてしか受け取られない」という状況です。そしてそれが最終的には「誰も理解できない」といった周縁化と自己周縁化を引き起こすのです。

例えば、私の後輩が彼の卒論で百合ファンの研究を行い、藁人形論法を用いて私と松浦優の研究を批判しました:

「オタクがキャラクターに注ぐ感情は、本当にただ(自分自身が入り込む)恋愛感情だけなのか?」
「オタクとキャラクターの関係は、本当にただ『自我』以外の『他者』としての関係形式だけなのか?」
(これらの研究は)「まだキャラクターを『自我』以外の『他者』として相互作用することに重点を置いている」

この理解は、私たちの論文の誤読にとどまらず、Fセクに対する抹消にも関わります。私たちはすでに「人格」と「相互作用」について詳細に議論しましたが、この論文では、私たち(またはFセク)を「自我-他者」という対立関係に設定し、Fセクを人格化した対人性愛中心主義的な視点で捉えています。(私たちはエーゴセクシュアルも含む議論を強調してきましたが、彼はFセクとしてのエーゴセクシュアルをステレオタイプに基づいて排除しました。)彼は「百合ファンがFセクではない(またはなれない)」と仮定し、Fセクは「本当にただ自分自身が入り込む恋愛感情だけだ」としており、これが「抹消」なのです。(この卒論にはの問題もあり、私と松浦の論点が混同され、私の論点に松浦の名前が付けられたり、その逆もありました。)

もちろん、これは学術的な基準であり、日常生活の基準で「フェティシズム」や「スタンダール症候群」などを用いてFセクの意味を隠蔽することは、すでにかなり穏やかです。しかし、正直なところ、それでも私はかなり失望しています。これはまた「言っても伝わらない」経験の一つですし、その後輩とは5年以上の付き合いがあります。このため、「破抹消化戦略/戦術」を考えることが必要です。

「破抹消化」の可能性について、松浦はシュッツの「驚き」を引用しています。シュッツはこの経験を「目覚め」とも表現しています。これは、他の意味への目覚めを示し、驚きとして感じられ、客観的には別の意味領域への「飛躍」として説明できます。「言っても伝わらない」状況は、言語行為が最終的に意味を生み出さなかったこと(他の規範枠組みに引き戻されたため)と、「驚き」と「目覚め」の効果を生まないことを示しています。

「フィクトセクシュアル支持的空間」という論文の中で、私は現象学精神病理学の文脈から「ハイブリッドな対象」の可能性について言及しました。一方で、この論文の出発点は、松浦優の「対人性愛中心主義とシスジェンダー中心主義の共通点:『萌え絵広告問題』と『トランスジェンダーのトイレ使用問題』から」の読書会における私たちの議論でした。その際、私たちが「破抹消化戦略/戦術」に関する議論の中で、ランシエール「感性的なものの分割=共有」が取り上げられました。これは、対人性愛中心主義を「ポリス(police)」と「政治(politique)」との関係に置くことを意味します。ランシエールの意味では、ポリスは美学的秩序であり、政治は美学的再構築です。したがって、抹消と破抹消化の問題を神経多様性と美学の政治に位置づける必要があります。(私が最初に言及した類似のテーマは、松浦優との対談での「想像力の政治」でした。)

フィクトセクシュアルな視座の具象化 Figuration of Fictosexual Perspective

その時から、私はフィクトセクシュアルな視座を感性的に広める方法について考えてきました。「驚き」や「目覚め」を感性的に引き起こすためには、単に「説得」するだけでは不十分だと感じているからです。これは学術論文が感性の範囲外であるというわけではなく、身体との距離やアクセスの問題です。例えば、学術論文を名言風に変換して広めるツイッターボットは、抹消化を打破するのに効果的だと思います。(しかし前述のケースは、論点がどのように成功裏に抹消されたかの例です。)

この数年間、もしフィクトセクシュアルな視座からキュレーションを行うとしたら、どのようなものになるだろうかと考えてきました。私の想像はずっとラトゥール式の「どうやって非ヒト(キャラクター)に話させるか」というものでしたが、先日親友と徹夜で議論した結果、このようなキュレーションでは対人性愛中心主義の問題を表現できないことに気付きました。したがって、フィクトセクシュアルな視座から出発するキュレーションは、「二次元/キャラクターの存在論」と「非対人性愛のポリスと政治」の二つ方向性に区分することができます。この二つの方向性はいずれも「破抹消化」を目的としています。

私が最初に想像していた形式は、「存在論」に関する方向性として考えられます。例えば、キャラクターの同一性を分解し、創作過程や創作ツール(トレス台、セル画、アニメーション撮影台など)を提示して、キャラクターの物質的構成を示すものです。この思考はラトゥール的な「アクターを追跡」というアプローチに近く、リアリティが創作過程にどのように現れるかを示します。谷口真人のインスタレーションアートはこの方面で注目すべき作品だと思います。彼の作品はセル画に色を塗った成果を逆さにし、隠された面を観客に提示します。(数年前、台北での展覧会「美少女の美術史」で彼の作品を初めて見ました。)

しかし、「ポリスと政治」は異なる方向の問題であり、抹消がどのように行われているかを直接示すことが望ましいですが、私はこの点についてまだ迷っています。私たちのFセク抹消に関する研究はほとんどが言語や文字データに依存しており、非言語的形式で非対人性愛に対する「排除アート」についての研究はまだ不足しています(これは、現在のデータが主にネット上で文字として収集されているためかもしれません)。もちろん、法規制やスティグマに関する様々な史料を直接展示することは可能ですが、それには限界があります。そして最も重要なのは、関連する史料の展示が違法となる可能性があることです。例えば、有害図書として指定されているマンガを直接展示する場合などです。

以前、台大の「言論自由月」というイベントで見かけた横断幕がありました。それは、あるネットフォーラムでのゲイやエイズに関するヘイトスピーチを集め、その中心に肛門のイラストを描いて風刺していました。しかし、この横断幕は多くの議論を呼び、最終的には台大生徒会によって撤去されました。傷をアーカイブ化して批判することは、逆にトラウマを引き起こす可能性があります。それは結局、意図した効果を達成できたのでしょうか?確かに、この社会がどのようにゲイを排除するかを示しましたが、その言語行為を行った責任を負う必要があります。

私はスマホで撮った写真です。横断幕には、直接印刷されたヘイトスピーチが貼られていました。その晩、この横断幕の横でタバコを吸っていたとき、生徒会の役員がその横断幕を撤去するのを目の当たりにしました。実際には、生徒会が世論に応じて「言論自由月」期間にこの横断幕を撤去したことが、私にはより衝撃的でした。

デザインやキュレーション、芸術史に関する訓練がない私は、フィクトセクシュアルな視座をどのように具象化するかについて考えています。今後、このテーマについて専門家に相談するかもしれません。

補記

関連する展示品もいくつか作成しました。例えば、これは台大オタ研の部室です。台大オタ研とのコラボを行った場所でも、同じ展示物がありました。ちなみに、旗は私が十枚作り、すべて無料で友人に配りました。(大量注文しなければ、旗を作るのは高額ですね。)

未提供說明。

ちなみに、前述の「言論自由月」というイベントでは、オタ研の他のメンバーの同意を得て、オタ研の名義でこの横断幕を掲示しました。スローガンは私と他の数人の友人と一緒に考えました。しかし、通行人には「意味不明」と思われるかもしれません。

そして、この横断幕は数日後、隣の「アンケートで生物学的性別を問わないで」という横断幕と一緒に破壊されました。今日まで、犯人が宗教的保守主義者かアンチジェンダー運動者かはわかりません。しかし、私たちは一緒に新しいバージョンを再制作しました。



面白い同人オタク研究をどのように行うか?

この記事は、私があるNGOから招待されて高校生に向けて行った講演原稿です。このイベントはまだ公的機関との申請中です。

これは入門向けの講座ですので、深い学術知識に踏み込まず、参考になる選択肢に重点を置いています。これらの選択肢はすべて選ぶことができ、新しい研究者が立場や方法を選ぶ際の手助けになればと思います。

用語の紹介

タイトルに「同人オタク研究」としていますが、これはオタクに限定されません。「オタク」は私が実際に適用した事例の一つです。今日のテーマは、より広範な「同人文化研究」に拡張できるものです。また、「オタク」をここで定義することはしません。なぜなら、50年の歴史と国際的な文脈で定義するのは非常に困難だからです。「同人」という言葉の意味については、まず「同好」に関わるものであり、「非営利、自費出版」という手法、そして「同人イベント」での頒布に関わるものとします。

それでは、いくつかの用語を紹介します。ある程度、この講座ではこれらの用語を厳密に区別しませんが、それぞれに独自の文脈があります。まず、「大衆文化(ポピュラー・カルチャー)」です。この言葉は「高尚文化(ハイ・カルチャー)」に対して創られたもので、クラシック音楽や油絵など、公式に認められる文化に対するものです。例えば、大衆文化は通常、国民教育の教科書には登場しません。他の訳語としては、通俗文化、庶民文化があります。大衆文化研究は、アニメやマンガ、オタクを研究する際のアプローチの一つとされています。

これに近いのが「ファンダム研究」です。ファンは「過度的な読者」と定義され、そのコミュニティは公式文化経済の下で「影の文化経済」を形成します。ファン研究は、受容研究やアクティブオーディエンス研究に近く、読者が文化商品をどのように積極的かつ能動的に受け取り、独自のコミュニティを形成するかを議論します。また、時には「シリアスレジャー研究」と関連付けられます。シリアスレジャー研究は、アマチュアとプロフェッショナルの関係に焦点を当て、単なる娯楽以上に心血、精力、キャリアを注ぐレジャー活動を研究します。しかし、シリアスレジャー研究とファン文化研究の違いは、必ずしも文化商品をファン対象とする必要がなく、活動の種類自体が対象となることもある点です。

最後に、現在の日常用語では曖昧になっている「サブカルチャー」についてです。「サブカルチャー」は主に特定のライフスタイルを指し、例えばパンクなどがあります。時には主流文化への反抗を強調することもあります。また、定義上、特定の文化商品に依存しないものです。最も古典的な対象は、青少年文化や逸脱(犯罪)サブカルチャーですが、その他にも老年サブカルチャー、障がいサブカルチャー(例えば自閉文化)、セクマイサブカルチャー(例えばゲイサブカルチャーやSMサブカルチャー)などもあります。台湾では、サブカルチャーというとアニメやマンガを指すことが多いですが、学術的にはこれは不正確です。なぜなら、アニメやマンガにも主流作品が含まれているからです。

また、「サブカルチャー」という言葉は、欧米では時にカウンターカルチャー=対抗的文化」と関連付けられることがあります。しかし、私の知る限りでは、「カウンターカルチャー運動」は主に1968年の学生運動と関連しており、当時の台湾はまだ戒厳令時代にあったため、基本的には関連付けるのは難しいと思います。また、私にとってサブカルチャー研究はポストコロニアリズムサバルタン研究」とも関連付けることができますが、方法論上、多くの調整が必要です。

最後に、学術的には、バーミンガム学派(CCCS)のサブカルチャー研究の後に、「ポストサブカルチャー」や「アフターサブカルチャー」など、多くの議論が巻き起こりました。また、「サブカルチャー」という言葉の日本での使用について、例えば宮台真司などの『サブカルチャー神話解体』は、シカゴ学派バーミンガム学派とは異なる点があるようです。しかし、これについての詳細な議論はここでは控えます。

学術研究と趣味研究

「研究」という言葉は、どうしても退屈に感じられることが多いでしょう。しかし、少なからず新しい知識を発見したときに、心から面白いと感じた経験があるのではないでしょうか。誰しもが、好奇心に駆られて外の世界を探求し、その結果として楽しさを感じたことがあると思います。ちょっとしたひらめきを楽しみ、そのことで今日の自分が昨日の自分とは違うと感じることができるのです。

ここで、「学術研究」と「趣味研究」を区別したいと思います。学術研究が常に退屈だというわけではありません。大学者たちは、自分の研究が面白いと思っているからこそ、何十年もその研究に没頭できるのです。しかし、学者は職業でもあり、「学術官僚」という存在もあります。学術界に身を置くことは、学術の官僚制度に従わなければならないということでもあります。この制度は多くの場合、退屈なものです。

しかし、それとは対照的に、誰でも研究をすることができます。たとえアマチュアであっても。アマチュアであるからこそ自由であり、学術官僚制や学術的な人間関係から解放され、柔軟で面白い研究ができるのです。日本では、小学校から中学校までの夏休みに「自由研究」という宿題があります。これは通常、テーマが設定されておらず、自分の興味のある分野やテーマを選び、実験や観察、調査を通じて研究成果をまとめます。私の子供の頃、台湾の教育にはこのような自主探究を奨励する面はあまりありませんでした。せいぜい高校の小論文がありましたが、これは主に大学のレポートのフォーマットを予習することや、賞を狙うことが目的でした。

学術研究と非正規な趣味研究の最大の違いは、教授や学術仲間、査読委員、ジャーナル編集者を喜ばせる必要がないことです。そのため、多くの冗長な手続きを省くことができます。学術研究では、研究が「資格を持つ」必要があります。論文自体が十分であるだけでなく、研究対象も十分である必要があります。初期の頃、学術界でサブカルチャーや大衆文化の研究は「上品でない」と見なされていましたが、現在では徐々に状況が改善されています。しかし、依然として「Not Safe For Acadamy」ものが存在します。例えば、性文化やポルノ、暴力的な作品などです。これには関連する複雑な研究倫理の問題もあり、これについては次に触れたいと思います。

「Not Safe」という言葉のように、これらの研究は「資格を持たない」だけでなく、危険です。サブカルチャーは定義上、主流文化に受け入れられていないためサブカルチャーと呼ばれています。そして、これらのテーマを学術の場に持ち込むことには危険が伴います。例えば、ポルノ作品の研究の場合、徹底的な批判的態度を取らない限り、そのような研究を発表することはほぼ「カミングアウト」に等しいです。非公式の地下出版は、このような「資格を持たない研究」や「危険な研究」に対して小さな空間を提供します。これにより、様々な検閲機構を回避することができますが、これは研究倫理が重要でなくなるわけではありません。むしろ、それは自己責任として扱われるのです。

研究:評論と批評

日本語において「評論」と「批評」は異なる意味を持っていますが、中国語ではこれらの言葉が同じ「評論」とされ、「批評」はほぼ侮辱に等しい意味を持っています。ここでは日本語での意味を紹介します。日本語で「評論」は、情報を集めて解説する作業であり、その目的は理解を深めるためのツールを提供することです。一方で「批評」は知識を生み出し、思想を動かすものであり、その目的は議論されている事柄に新たな意味を付与することです。これは情報を集める作業とは全く異なります。もちろん、読みやすさを高めるために、一つの良い批評は一定の評論を含むことが多いですが、基本的に評論は批評を必要としません。評論は無意識的に批評的な要素を含むことがあり、それがより面白くなることもありますが、基本的に「評論」と「批評」は振り返り(review)と創造的作業(rewrite)の違いと考えられます。

「評論」と「批評」の違いは、日本の「評論系同人」という言葉にも現れています。基本的に、この言葉を直接検索すると、さまざまなテーマが見つかります。たとえば、見聞記や経験談、夏休みの自由研究に似たもの、さらには台湾の選挙データをまとめた同人誌などが含まれます。これは「評論」が経験の紹介に重点を置いているためです。しかし、同人イベントには「批評」の文体も含まれています。例えば、故・米澤嘉博先生のように、彼は漫画研究者でありながらComiketの主催者でもあり、1970年代には同人サークル『迷宮』に参加し、『漫画新批評大系』に批評を連載していました。

また、多くの教授が学生がレポートを感想文として書くことに不満を持っているという話を聞いたことがあります。私自身も同人評論誌を編集している際に、同じケースにしばしば直面します。個人的には、評論と批評は感想文とは区別すべきだと考えています。基本的に、感想文には抒情的な要素が含まれているからです。批評が抒情的であってはならないというわけではありませんが、方法論や論証構造においては明確であるべきです。この点は、「主張(claim)」と「論証(argument)」の論理構造から説明できます。

最も古典的な三段論法を用いて説明すると、ある主張は「ソクラテスは死ぬ」というものです。一方、ある論証は「大前提=人は皆死ぬ、小前提=ソクラテスは人である、結論=ソクラテスは死ぬ」というものです。もちろん、批評は帰納や演繹の論理だけではないと言いたいわけではありませんが、批評は前提を明確にし、証拠(warrant)を提供して論証の有効性を成立させる必要があります。それに対して「風景が美しい」といった断言は、感覚的直観でしか体験できないものです。簡単に言えば、「風景が美しい」と言われたときには、「なぜ美しいのか?美しさはどこにあるのか?」と問いかけることで、感想が次第に評論として発展し、理解しやすく、共感を呼び起こすものとなるのです。

また、感想文と研究との違いの一つは「問題意識(problematic)」です。これは既存の成果に新たな意味を生み出す方法の一つであり、「問題を形作る」ことと「問題に応える」ことを含みます。問題意識とは、問題の基礎となるもので、どのような前提の下でその問題が問題となるのかを考えることです。この点を明確にした後に、研究問題が生まれ、その問題に対して論証を通じて応答していくことになります。これにより、新たな知見を得ることができます。これは単なる感情の表現や描写、整理作業とは異なります。この点において、問題意識を明確にすることが批評の重要な部分と言えるでしょう。

オタク研究の2つの立場:アカ・ファンとファン・スカラー

次に、オタク研究の2つの立場について説明したいと思います。これはオタクの文脈からではなく、ファンダム研究の文脈から来ているものですが、ここでもおおまかに当てはまります。Matt HillsとHenry Jenkinsが提唱した「アカ・ファン(Aca-Fan)」と「ファン・スカラー(Fan-Scholar)」がそれで、これは学者の立場からとファンの立場からの2つの方向性を意味します。私自身はオタクの論者として、しばしば両方の立場を行ったり来たりする感覚があります。私の経験に基づいて、それを以下の図に整理しました。

もちろん、これが必ずしもどちらか一方を選ばなければならないという意味ではありませんし、「純粋」に一方に属する人が本当に存在するかどうかも疑問ですが、参考にはなると思います。ちなみに、現在では差異を表現するために多くの改変が行われており、例えば私は「アカ・ファン・スカラーと呼ばれる研究者もいます。「アカ・ファン・スカラー」として、二つの立場を同時に取り、二つの道を採用するヒトもいますし、他にも、多くの境界ケースも存在します。例えば、学術研究に従事したいファン、または資本や才能が不足しているため学術界に入ることができず、非正規の方法で意見を発表する学者、さらに学術資本を獲得し使用しているファンなど、こうした場合、彼らの主要なアイデンティティがファンなのか学者なのかを区別することが難しいかもしれません。

Cristofari & Guitton(2017)によって示された操作フレームワークに基づくと、以下のような明確な図を見ることができます。

Cristofari, C., & Guitton, M.J. (2017). Aca-fans and fan communities: An operative framework. Journal of Consumer Culture, 17, 713 - 731.

Cristofari & Guitton(2017)は、いくつかの位置を描き出しました。これには「エリートファン」、「ファンの専門家」、「ファン・スカラーが含まれます。ファンの専門家とファン・スカラーの違いは、ファンの専門家がファン・スカラーよりも多くのコミュニティ参与や身体知を持っている可能性がある一方で、その知識を十分に構造化し、組織化することができない点です。ファン・スカラーは、その知識を言語的により適切に分節化することができます。また、アカ・ファンはこれらのファンダム知識を学術界に持ち込み、時にはこれらの知識がファンダムに戻ることもあります。

注目すべきは、アカ・ファンがファンダムの境界を打破し、「ファンダムに出る」を促進する役割を果たし、ファンダム知識を一般化し、商業化することがある点です。日本でこの学術資本を用いた「ファンダムに出る」の典型例は宮台真司東浩紀(または野村総合研究所)であり、台湾ではU-ACGの梁世佑がその例として挙げられるかもしれません。

言説資源:学術パラダイムとローカルな知識

言説資源の分布を示す図を描きました。図は「作品・技術からサブカルチャー生活」および「学術パラダイムからローカルな知識」という二つの軸で構成されています。Cristofari & Guitton(2017)の図と同様に、これは論述の組織化を示す一方で、論述の分布も示していますが、私の主観的な優劣を示すものではありません。

左側の学術的なパラダイムサブカルチャーを研究する際には、右側のリソースを参照せざるを得ないことがほとんどです。これらのリソースは通常、「経験データ」と呼ばれます。しかし、右側のローカルな知識の発展は、左側の学術的パラダイムに依存するわけではありません。左側の研究成果や概念ツールを流用することができますが、ローカルな知識は自身の再帰性によって知識体系を組織化することもできます。ただし、学術的なツールや権威が不足している状態では、できることには限りがあります。

また、ファン文化内でのコミュニケーションも当然のように、大量の大衆知識に依存しています。例えば、国民教育、通俗心理学、通俗哲学、疑似科学などであり、一般向けの書籍を通じて得られる知識です。これらはサブカルチャーのローカルな知識と混ざり合うことがあり、両者を区別するのが難しい場合がありますが、主な違いは大衆知識はほとんどの人が簡単にアクセスできるのに対し、サブカルチャーのローカルな知識はそうではない点です。

以上のように、アカ・ファンとファン・スカラー、学術的なパラダイムとローカルな知識の関係と分布を示しました。これらの関係を明らかにする目的は、選択を明確にするためです。あなたは何をしたいですか?あなたは何になりたいですか?誰に話したいですか?誰のために話したいですか?どうやって話すべきですか?何を話すべきですか?これらはすべて選択です。この議論の目的は、このような再帰性をもたらすことです。次に、ファン・スカラーの立場から研究を行う方法や、伝達とメディアの問題について主に議論します。

サブカルチャーの知識を再帰的に発展させる方法

前述した「ローカルな再帰的言説」という言葉は、現地の人々が自己を超えて自己を見つめる反省と自己対話を通じて形成される思考体系のことです。これは、現地の人々の身体知やライフスタイルとは異なります。身体知とは、サブカルチャー行動の背後にある直感的な基盤を意味しますが、再帰的言説はこれとは異なり、再帰性を通じて組織化され、分節化されることで、より効果的に利用され、伝播し、学ばれることができます。これを「現地理論」と呼ぶこともあります。学術的なパラダイムとは異なり、学術官僚制の外側で形成されますが、サブカルチャー行動の方向を指示し、再帰的に引用され、修正されるのです。

私はオタク同人批評は、ファン・スカラーの立場に基づいて、このような再帰的言説に位置づけられるべきだと思います。それは単なる描写ではないため、この再帰的言説には「私たちはどのようにして私たちのサブカルチャーを変えたいか」、「どのようにしてサブカルチャーを『より良く』するか」という目的が含まれています。このような問題意識はアカ・ファンとは異なります。アカ・ファンはサブカルチャーを大衆に紹介し、サブカルチャーの学ぶべき点を説明する傾向がありますが、もちろんサブカルチャーを批判することもあります。しかし、その立場はファン・スカラー再帰的言説とは全く異なります。

ここでは、このような再帰的言説を構築し、拡張するためのいくつかの方法を提案したいと思います。作品論はほぼ最もよく採用される方法であり、作品とサブカルチャーの間に解釈学的循環を生み出し、作品にサブカルチャーの意味を付与します。しかし、その再帰性は弱い場合があり、例えばネット上でよく見かけるどの立場から見ても愚かな作品論などです。この再帰性はまずサブカルチャー内コミュニケーション」において生まれます。例えば「アニメ読書会」という形式では、サブカルチャーの臨場感の中で作品を集合的な議論し、このようなコミュニケーションは私たちが分節化していない身体知を明確にするのに役立ち、再帰性を提供する装置となります。台湾の同人サークルでは、Socotakuや台大宅研などがこのような形式を採用しています。

ここから徐々に研究領域に進み、さらに努力が必要になってきます。私は再帰的言説を構築するための三つの方法を提案します:史料考察、フィールドワーク、アーカイブ。史料考察は文献の調査に限らず、忘れ去られた作品や文物を含むものです。これらの文物を見つけ出すことは、私たちの歴史を再帰的に再発見することであり、私たちのサブカルチャーがどこから来たのかを理解する手助けになります。したがって、史料、文献、文物の収集は重要であり、それらを理解し解釈する作業もまた重要です。しかし、この作業は日常生活の中で隠されていることが多いため、十分な再帰性がなければ発見することが難しいかもしれません。

第二の方法はフィールドワークです。これはサブカルチャー内のコミュニケーションとは異なり、フィールドワークにはフィールドワーカーとしての再帰性が求められます。フィールドワークは、フィールドの中の行動者を意識的に観察し、その行動の意味関連を理解することです。なぜ彼らはそのように行動するのか?なぜそのように話すのか?これらはすべて有意味であり、その意味は彼らの身体知として表現されていなくても重要です。フィールドワークの要点は、これらの意味を記述や解釈を通じて説明することにあります。このようなフィールドワークには、自身のサブカルチャー生活に対する再帰性も含まれます。再帰性を持ちながら創作、読み、鑑賞、消費の活動を行うとき、それは身体知による実践とはどのように異なるのか?

第三の方法はアーカイブ化(archiving)です。すでに発生した、または現在進行中の多くの事件の中には、アーカイブ化されていないものがあります。これらの事件を再編成し、利用可能なアーカイブにすることがアーカイブ化の作業です。それは史料調査と似ていますが、史料を作成するプロセスでもあります。例えば、フィールドの行動者に対して口述歴史インタビューを行うと、その過程でサブカルチャーの文脈に置かれ、まだ分節化されていない事件アーカイブ化されます。そして、これらのアーカイブは言説の参照点となり、再帰的言説の一部となります。

次に、一般のファン・スカラーが実行するのが難しい部分について述べます。これはサブカルチャー内部を超えて再帰的言説を構築することを含み、クロスカルチャー比較や学術パラダイムの取り込みが含まれます。クロスカルチャー比較とは、異なる文化やサブカルチャーとの比較を行うことで、私たちのサブカルチャーの特徴、長所、欠点を明確にすることです。例えば、二次元オタクとケモナ、コスプレイヤー、2.5Dファンやロリータサブカルチャーを比較したり、LGBT+コミュニティと比較することができます。また、これは文化の境界の問題にも関わります。「どの境界内が私たちの文化なのか?」という問いに対し、比較によって私たちの文化の特異性が明らかになり、それは他の文化との相互浸透の中でしか顕在化しません。したがって、私たちの文化には本質的な境界はなく、他の文化との違いと距離を見つけることができるだけです。

最後に、学術パラダイムの取り込みについてです。学術研究で提供される概念的なツールは、それが私たちのサブカルチャーに特化して構築されたものでなくても、再帰的なツールとして利用することができます。しかし、この取り込みはリスクも伴います。時には学術的な権威が、ファン・スカラーが権威を得たりサブカルチャー代弁するための単なるツールに過ぎないことがあります。ファン・スカラーサブカルチャーのために、再帰的な目的でこれらの概念的ツールを使用しなければなりません。ただの象徴的な権威を求めるために、無意味に学術用語を使用するべきではありません。もちろん、日本の事例のように、学術的な権威そのものがサブカルチャーを呑み込み、サブカルチャーが学術運動の道具として利用されることもあります。これは一介のファン・スカラーが防ぐことはできません。その結果として、私たちがサブカルチャーについて語るときには、これらの学術的な言説を使用せざるを得ないのです。

最後に、研究倫理の問題について少し触れておきたいと思います。同人出版は外部機関の倫理審査を通過する必要はありません(というか、審査機関が関与しない)が、道徳的・自己責任において、「無傷害(do no harm)」が第一の原則です。まず、ファン・スカラーサブカルチャー内部での権威を利用して、報告者から資料を提供させることや、圧力をかけることがないかどうかが問われます。次に、研究は大部分が「暴露」行為であり、特にサブカルチャーにおいては、皆が黙っている暗黙のシナリオを明るみに出すことがサブカルチャー自体に害を与える可能性があります。学術的な事例では、『茶室取引(Tearoom Trade)』がゲイサブカルチャーを暴露したこと、『逃走中(On the Run)』がアフリカ系アメリカ人コミュニティのサブカルチャーを暴露したことが議論を呼びました。同人出版であっても、このような倫理問題に直面する必要があります。すべてのことが表現されることが良いわけではありません。この問題は、後述する伝達やメディア問題とも関連しています。

サブカルチャー知識の伝播方法について

今の時代、SNSやネット記事が主なコミュニケーション手段となっています。他にも、Podcastや自作の電子書籍など新しいメディアもあります。例えば、Amazon Kindleでは自費出版電子書籍の機能があると聞いています。後者については詳しくないため、ここでは触れません。しかし、ネットの公開性には注意が必要です。いろいろな権限設定ができても、様々な方法でそれを回避できることがあります。また、ネット情報はプラットフォームの審査を受けることがあり、「機密」情報として扱うのは難しいです。これは、サブカルチャーのセンシティブな部分に触れる際に特に危険です。例えば、前述したように、ポルノ作品の研究に関しては、ネットの公開性だけでなく、情報がどこまで流通するかをコントロールするのが難しいですし、司法体系の監視や審査を受けやすいです。

そしてこれが紙メディアの優位性です。紙の本の出版は、正規出版とアンダーグラウンド出版に分けることができます。正規出版はISBN(国際標準書籍番号)体系に組み込まれた出版であり、出版社出版と自費出版が含まれます。出版社出版は編集者との交渉が必要ですが、自費出版ではその必要はありません。ただし、自分でレイアウト費と印刷費を負担する必要があります。正規出版の利点は、出版社が書店、図書館、通販プラットフォームなどの販売経路を提供してくれることです。しかし、ISBN体系に組み込まれた書籍は検索可能であるため、「過度にセンシティブな研究」、つまり成人向けに指定されてもまだかなりセンシティブな内容や、公開すべきでない情報を含む著作には適していません。前述のように、そのような本を出版することは、ほとんど「カミングアウト」と同じことなのです。

アンダーグラウン出版、例えば同人誌出版やジンの出版は、印刷所を見つければ印刷が可能です。この時代に無断でスキャンされてオンラインにアップロードされることは一般的ですが、評論系同人誌の中では、このようなケースは少ないと私の知る限りです。同人誌の販売はその流通に制限を加えるため、相対的プライバシーが保たれます。もちろん、同人誌は同人イベントで販売せず、かつてのパンフレットのように直接手渡しや郵送で特定の友人グループ内で流通させることもできます。したがって、私的な経験のアーカイブには適しており、フィクトセクシュアルの例として、近藤顕彦編の『二次元キャラクターとの結婚式のしかた』や松浦優編の『Fictosexual Perspective』が同人誌の形で出版されています。これは、まだフィクトセクシュアルについて率直に語る世界ではないからだと思います。

私自身にも同様の例があります。以前、Fancy Frontierで『工口論』という草稿を出版したことがあります。この草稿は、NTRや暴力的なポルノ作品およびそのサブカルチャーについての議論を含んでいましたが、最終的には完成せず、25部のみを予印して販売しました。これはそのような考慮に基づいてのことでした。最近の例としては、昨年台湾ACG研究学会で発表した論文「Fセクの境遇とその逆説」があります。この論文では、かなり非識別的な方法でデータを表現しました。しかし、研究協力者のライフヒストリーを整理したデータ「Fセク集散地のアーカイブ」もあり、これらのデータの表現方法についてはずっと悩んでいます。要するに、ネット公開は考えておらず、専門書の一部としてもためらっています。したがって、同人誌として編集し、限られた範囲で流通させることを検討しています。また、FFのような同人イベントとは異なり、作品論や作家論はオンリーイベントでかなり人気があるかもしれませんが、前述のコミケ形式の評論系同人誌はオンリーイベントとはあまり関係がないかもしれません。

もちろん、同人誌やジンには、同人イベントやジン販売会以外の流通経路もあります。例えば、通販や一部の書店、独立書店などです。具体的には、Socotakuの同人誌はMagasickで販売され、私の『Fセク宣言』ジンはFembooksで取り扱われています(売り切れました)。最後に、これが印刷本の利点の一つかもしれません。電子書籍とは異なり、印刷本の実体性は展示性を高め、つまり偶然手に取ってめくる可能性が増します。Socotakuのメンバーである公法さんは、これについて次のように評価しています。「同人評論誌が売れるためには、最も重要なのは表紙のデザインだ。」ただし、これはFFのような視覚優位なフィールドにおけるマーケティング手法に限られるかもしれません。公法さんのもう一つの名言は、「同人評論誌を買う人は買う、価格が200ニュー台湾ドルでも300ニュー台湾ドルでも関係ない。」です。もちろん、「売れること」を目標にするかどうかは、別の問題です。

この議論は、同人誌のメディア特性と同人イベントのアーキテクチャーを明確にするためのものです。これは定式があるわけではなく、それぞれの前提と目的に応じて手段を選ぶ必要があります。

提案:学術的生産をサブカルチャー知識に変換する

最後に「学術研究」と「趣味研究」の問題に戻ります。現在、学術界の雰囲気が徐々に開放され、多くの人が「趣味」に基づいて研究テーマを選ぶようになり、その結果として大衆文化が前景化されています。台湾の典型的な例としては、修士論文を出版物にした事例があります。例えば、楊若暉の『少女之愛』や張資敏の『宅経済誕生秘話』などです。つまり、学術研究と趣味研究の距離は徐々に縮まり、趣味を学位論文のテーマにすることはもはや珍しくなくなっています。(もちろん、これには指導教員の意向も影響します。)

日本の例としては、『マンガ・アニメで論文・レポートを書く:「好き」を学問にする方法』という本があります。この本はコンテンツが分散した論文集といえますが、学部論文や修士論文の例を通じて、「趣味を学術研究として扱う」可能性を示そうとしています。これは「趣味研究」に対して友好的な成果の一例だと思います。(もちろん、著者の中には著名な学者もいます。)

基本的には、前述のように多くの方法論的問題について議論してきましたし、さらに深い方法論についてここで全てを説明することはできません。史料考察、コンテンツ分析、インタビュー、フィールドワークなど、これらは専門書を参考にする必要があります。社会科学の専門家でも、多くの課題と長年の実践を通じて熟練する必要があります。ここでは、一つの提案として「授業レポートを同人誌化する」方法を提供したいと思います。

現在、多くの人が授業レポートでサブカルチャーに関連するテーマを書くようになっています。私が見た例では、学部生のレポートでフィクトセクシュアル、萌えフォビアローカルアイドルVtuberメイドカフェ、中国の音声パフォーマンスなどについて書かれているのを見たことがあります。オタクとアニメが主流な学術テーマとなったポストクールジャパン時代において、私たちはサブカルチャーに関連するいくつかの授業を受けることができます。例えば、李衣雲教授の『マンガ文化論』、王佩廸教授の『オタク学』と『アニメ文化とジェンダー』、Teri Silvio教授の『アニメ・マンガの人類学』、王威智の『現代東アジアアニメの文化読解』などの授業があります。基本的には、大学のレポートの品質にはあまり期待しない方が良いですが、これらの授業は再帰的言説が大量に行われる場所であることは間違いありません。

しかし、レポートの問題は、それが基本的に教育成果の確認としてしか扱われないことです。最終的には教授やTAだけがそれを目にするか、発表の機会が10分から30分程度しかないことが多いです——基本的に、学生の努力が無駄にされてしまうのです。たまに、教授が学部生のレポートを論文集にまとめたり、学部生に対して公衆向けの発表の機会を提供することもありますが、これは骨の折れる仕事であり、報われないことが多いです。

一部の大学院生は授業のレポートを直接ジャーナルに投稿することがありますが、ここで別の方向性を提案したいと思います。それが「授業レポート同人誌化」です。前述したように、これは単に敷居を下げるだけでなく、異なる対象に向けて発信することができます。それによって、レポートという退屈な作業が面白くなり、授業レポートが単なる授業の一部ではなく、面白く情熱的な労働に変わります。私はそのような行動の実践者でもあります。

台大オタ研の同人誌『球根Rhizome』は、最初にこのようなサブカルチャー関連のレポートを集めるために設立されました。とはいえ、私はすぐに台大生の大部分が依然として単に成績評価のためにレポートを書いていること(しかも一部の人が書きたいセンシティブなテーマが授業で発表するには適さないこと)に気づき、この目標はすぐに達成できませんでした。しかし、私はまだ二つの個人的な事例を参考として提供できます。

『球根Rhizome』には現在、創刊号と『オタクの生態』特集の二号があります。創刊号は基本的に雑多な内容で、オタクの生態特集は手元にある原稿をまとめたものです。当初は『オタクのセクシュアリティ』特集も予定していましたが、最終的には出版されませんでした。その中で、創刊号とオタクの生態特集にはそれぞれ私の授業レポートが含まれています。「絶望世界、臨終少女、幸福漫遊」は『マンガ文化論』の期末レポートで、宅生態特集の「オタクは死んでいる、しかしその亡霊がまだ消えず:オタク文化経済の美学的反思」は『文化人類学』の期末レポートです。

基本的に、レポートの構成は「序論—本文—結論—参考文献」であり、これはレポートと評論とで同じです。しかし、高校の小論文から修士論文にかけての基本的なテンプレートは「序論—文献レビュー—研究方法—研究結果—議論—研究の限界と貢献—参考文献」となっていますが、評論にはこのような分割は必要ありません。文献レビューの目的は、基本的には前述の「問題の構築」であり、問題を適切に構築すれば、このように分ける必要はありません。文献レビューの基本的な目的は、既存の研究とつながり、既存の研究の啓発と不足を評価し、それによって研究問題を提起することです。これは既存の学術知識と対話するためのものです。しかし、同人評論にはこのような既存の学術知識との対話の義務はありません。

したがって、これらの既存の研究を把握している人を除けば、この段落は読者にとって退屈かもしれません。また、特に授業のレポートでは、問題意識に関係ない文献も引用する必要があります。これは教授を喜ばせるためであり、例えば、一部の教授は「今学期学んだ内容をレポートに引用してください」と規定することがあります。その授業が内容が薄い場合、この段落自体が論文の余分な部分になります。したがって、評論では文献レビューの段落を削除することができます。これは既存の文献や史料を全く読まなくてもいいという意味ではなく、それらは論文の中で問題の構築や論証の一部として組み込むべきです。「Aは…言った、Bは…言った、Cは…言った、だから…」という形式を取る必要はありません。

例えば、私のオタク批評「オタクは死んでいる、しかしその亡霊がまだ消えず」では、オタクの「セグメンテーション」と「アニメファン汎化」の問題について議論したいと思い、次のような構成を示しました。

  • 文化宇宙としてのオタク場
  • オタクの死とオタク場の自主論理
  • セグメンテーションの現象と生産—消費の実践
  • ケース:一篇の風刺小説を通してオタク場の階級を考察する
  • 結論:オタクの再考
  • 参考文献

初めに、ブルデューの芸術社会学理論とイアン・コンドリーを引用し、岡田斗司夫等々の歴史的な記述を通じて、オタクがどのように場として成立したかを論じました。この問題意識が浮かび上がります。岡田が述べるように、オタクは「すでに死んでいるのか?」という質問に答えるために、場の分化の現象を論証しました。場の分化はサブカルチャーの消滅を意味するわけではなく、ただサブカルチャーが垂直的に歴史的な積層を生じ、水平的にジャンルの散逸を生じるだけです。次に、興味深くするために、史料として中国のオタクを風刺した小説「アニメバラモン消亡史」を引用し、この現象を説明しました。この風刺小説はまた、言語、ジェンダー、国際政治の問題を議論に引き入れ、前述のデータでは見えなかった側面を提供します。最後に、新たな見解として、問題を「主体」から「家族的類似」にシフトし、今後の議論に対する提案を提供しました。

これは批評の典型的な構成であり、「問題を形作る—問題に応える」というものです。理想的には、レポートも同様の内容を持つべきですが、学術的なルールに従うために、冗長な部分が生じます。これらの部分を削除することで、一般の読者が理解しやすくなります。私の『文化人類学』のレポートをこのように同人誌に収めるバージョンに修正するために、必要な文献を除外しました——なぜなら、同人イベントでこの本を手に取る読者は、私の『文化人類学』の教授よりもオタクについて理解している可能性が高いが、人類学については理解していないと推測されるからです。中にはブルデュー風の派手な表現の痕跡が残っていますが、それを限られた範囲に圧縮しました。過剰なブルデューは私の問題意識を超えてしまうからです。

要するに、ここで提案するのは、レポートを同人評論に修正することで、その効果を最大化するということです。これにより、レポートを書くことが楽しくなり、心血が教授のコンピュータの中で埋もれることもありません。それはサブカルチャー再帰的言説の一部として影響力を発揮します。もちろん、発表方法は様々で、私たちのように同人誌を作るのも一つの方法ですが、ブログやネット記事、メディアへの投書、ジャーナルへの投稿なども可能です。どのように利用するかは、それをどのように修正するかに影響しますが、唯一お勧めしないのは、それらが永遠に教授のコンピュータの中で停滞し、学術とサブカルチャーの両方に忘れ去られること、そして教授にも自分自身にも忘れ去られることです。

 

台湾のオタク評論系同人サークル『ソコタク』について

数年前から、私は台湾の同人評論サークル『ソコタク(Socotaku)』に評論を書いており、一応メンバーとして活動しています。『ソコタク』は形式上、固定のメンバーがおり、各刊ごとに共通のテーマに基づいて執筆を行うサークルです。テーマは主にオタク文化に関連しており、基本的にはアニメのジャンル論や作家論や作品論が中心です。

コミケの分類に従うと情報系に位置づけられますが、このような形式の同人サークルは台湾では少数派です。私の知る限り、日本でもこのような同人サークルはそれほど一般的ではありません。今年は記念すべき創立十周年となりますが、最近、私はメンバーのMと大喧嘩してしまいました。この先、サークルがどのように運営されるかはまだ結論が出ていません。

そのため、もし解散することになったとしても記録として残せるように、自分のブログにこのサークルについて書き留めておこうと思います。解散してしまったとしても記録を残せるようにし、ついでに日本語圏の方々にもこのサークルを知っていただけたらと思います。中国語が読める方は、直接ソコタクのサイトをご覧ください。

  • 『ソコタク』の歴史(私が知っている範囲で)
  • 『ソコタク』の作品について
    • 『ミサイルを撃ち落とす方法:神山健治作品評論集及びその他』(2014)
    • 『日々奇連:日常系アニメ評論集』(2015)
    • 『この世界を深く愛しているから:虚淵玄作品評論集』(2015)
    • 『中二的な、あまりに中二的な』(2016)
    • 新海誠電車問題』(2017)
    • 『人類は卒業しました:ポストアポカリプス作品評論集』(2017)
    • 『AIの愛情白書:AI作品評論集』(2020)
    • 『アイドルの愛は進行形の愛』(2022)
    • 『湯浅.証明』(2023)
    • 異世界系評論集(未定名)』(来月)
  • 小結
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文献がほしい

上窮碧落下黃泉,動手動腳找文獻。

Up to heaven, down to earth,
move your hands and move your feet,
search the texts and seek the lore.

 

もともと私は、台湾に生まれ育ったため、日本やヨーロッパの文献を探すことは、「知識の大海」という比喩のように、文献との間に実際に海を隔てているように感じていました。しかし、今振り返ってみると、このような考えは私がデジタル時代に生まれたことに起因しているのかもしれません。初めからキーボード、文書ソフト、電子データベースを使って研究をしていたため、文献の物質的な側面を忘れてしまったのです。

私と文献の間には、ただ海が隔てているだけでなく、不均等な社会空間も隔てています。お金、文化的資本、学術的資格、都市と地方の距離、インターナショナル政治、そして歴史的な時間も隔てています。それらは私に対して一種の不透明性を示しています。

台湾、または地方の嘉義は、私の有限性を示していますが、それがまた私の視座を形作っています。台北との距離、日本との距離、パリやハイデルベルクとの距離、シカゴとの距離、中国との距離は、距離の中で初めて私の空間的な位置付けを明らかにします。読むべき書物がなく、届かない距離があるからこそ、手の届くところにある人々を羨ましく思うのです。

 

文献は、おそらく手に入りにくいからこそ貴重なのです。図書館で埃をかぶっている秘密の手紙、古本市で流通している貴重な史料、大師が寄贈した蔵書の中に紛れ込んだ個人的な記録。これこそがデジタル時代以前の文献学者の日常生活だったのでしょう。たとえ現代においても、文献学者は紙媒体との縁を求め続けているはずです。文献との出会いは、偶然に依るものであり、求めても得られないかもしれませんが、外に出て探さなければ出会うことはできません。だからこそ、それが貴重なのです。

私は本の可及性に慣れてしまい、本の物質性を無視することはできません。論文を書く際には、本の山の中で何時間も探して見つからないときに、パニックを起こすことがあります。しかし、大学生の身分を失った今、私はクラウド上の五年間のノートを失っただけでなく、正式な方法で論文を読む資格も失いました。電子データの可及性は、特定の状況下では紙の文献よりも容易に奪われることがあります。

 

図書館が一つの「縁の制作機械」として存在することは、たぶんその最初の公共的な理想の一つです。どこにでも置かれた本、奇妙な分類、擦り切れた背表紙、本に書かれたメモ、文献に挟まれた文献たちが、縁を呼び起こします。ただ、これが図書館員にとっての悩みの種となることがあるかもしれません。

このような縁はアレルギーも含んでいます。本を手に取るときに舞い上がる埃、百年の古書庫に足を踏み入れるとき、誰もいない古本屋で、ほとんど避けられないこととして、症状を抱えて帰ることになります。

しかし、文献の蓄積は、図書館を象徴の森と化しています。それは文献に不透明性を与え、大部分の文献は、そこにいる人々にとって可読性がないように感じられます。なぜなら、私たちはその中に目印を見つけることができないからです。その価値は、おそらく可及性を失った後にしか理解できません。今になって後悔しています。なぜもっと図書館に時間を費やさなかったのか。図書館で過ごした時間は既に多くの人々よりも長いですが、心を込めた文献学者には及ばないと感じています。

 

以前、文献は手書きで写し取るしかありませんでしたし、現在でも他校の図書館からの書籍借りは依然として高額になることがあります。なぜ当時、これらの縁を逃したのかと思います。

しかし少なくとも、今では文献学者や博物学者のように、文献のために世界を移動することが必要であり、価値のあることだと知っています。そして期待できるのは、この旅路が予期しない縁を秘めているかもしれないということです。

 

補記:在学期間、台大図書館には最新版の『広辞苑』がありませんでした。『古語大辞典』を見るためには、五階の国分直一の蔵書区に行く必要がありました。五階の寄贈文献は持ち出しできず、スキャンしてバックアップを取るしかありませんでした。

 

 

 

 

フィクトセクシュアルのフィールドワークについて

Fセクのフィールドワークにおいては、教科書には載っていない問題に直面することがあります。この記事では、いくつかの問題を説明し、将来の研究者たちに一助となる方向性を示したいと思います。最も重要なのは研究倫理の問題であり、次に方法論の問題、そしてフィールドワークの技術に関する問題です。セクシュアル・マイノリティに対する質的調査を行う際の注意点については、ぜひこの紀要を参考にし、フィールドに応じて調整してください。

  • はじめに
  • フィールドに入る
  • 質問の設計
  • 概念の使用
  • 経験の表現と非識別化
  • 調査と支援の関係
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フィクトセクシュアルや非対人性愛について入門向け文献案内

最近、このような文献案内が流行しているようですね。私も自分の文献リストをお勧めしたい。もちろん、それは私自身の研究趣旨や読書の好みに影響されていますが、他の人にも啓発を与える効果があると考えています。また、私は日本の学術制度に馴染みがないため、研究向けの文献案内を書くことができません。研究向けについては、松浦優さんのこのブログ記事を参考にしてください。

対人性愛中心主義

松浦さんの研究のまとめです。講演のため、単一の研究問題を扱う論文とは異なりますが、この講演記録を読むことで、松浦さんの思想について大まかな理解が得られるはずです。(そして、より読みやすいかもしれません。)また、中国語の公開版は書籍版ので、生活や経験に関する多くの部分が追加されているため、DeepLを使って読むこともできます。

  • 廖希文、松浦優[近刊]。「[増補]フィクトセクシュアル宣言――台湾における〈アニメーション〉のクィア政治」。『人間科学共生社会学』。

私と松浦さんが共同執筆したバージョンです。以前のバージョンのいくつかのネタを残しつつ、前述の講演記録と同様に、松浦さんの「対人性愛中心主義とヒューマノジェンダリズム」に関する理論化をまとめしました。私は「アニメーション・パラダイム」についてより詳細に説明しました。

Fセクの生活について

  • 廖希文、松浦優[近刊]。「[補論]「フィクトセクシュアル支持的空間」には何が必要か」。『人間科学共生社会学』。

拙論「フィクトセクシュアルの境遇とフィクトセクシュアル・パラドックス」に基づき、この補論では「フィクトセクシュアルの概略的記述」を提案しました。これには、生活経験について4つの主題、「表現」「伴侶」「アニミズム」「特定のつながり」、そして不快について5つの主題、「次元の壁」「相互作用」「物質性」「同担」「クローゼット」が含まれています。これらは、将来の研究での理念型として活用できます。

日本語圏SNSにおけるFセク言説の(量的?私が学んでいない凄い研究法)調査(2017年9月〜2020年10月)。初期の日本語Fセク言説間の関連性を記録し、Fセク差別には「排除(foreclosure)」だけでなく「抹消(erasure)」の側面もあることを提案しました。後これは、後のより詳細な現象学的差別研究「抹消の現象学的社会学」の基盤を築きました。

英語圏での最初の研究として、ウェブ言説の内容分析です。 「Fセク・パラドックス」、「Fセク・スティグマ」、「Fセク行動」、「Fセク・アセクシュアリティ」、「Fセク・超常的な刺激」という5つの主題が提案されましたが、詳細な理論化は行われていません。 第一著者の研究テーマは「ゲーム障害(game disorder)」のようです。

アニメーション・パラダイム

「アニメーション=生気を吹き込む」と、ゴッフマン=バトラー的な「パフォーマンス」を対照させ、「アニメーション」を理論化します。両者のやり方、宗教、労働、政治、心理学、協力などの側面の違いについて議論します。

Silvioの「アニメーション」概念を使用しましたが、ゴッフマンの『Frame Analysis』で「アニメーション」を見つけたため、「アニメーション的な相互作用」の概念を提案しました。Cosplay、VRchat、Vtuberに関連する研究に役立つ可能性があります。また、補論では、「アニメーション・パラダイム」と人類学の新しいアニミズム研究を結びつけ、後続の理論化に重要な啓発を提供しています。

著者は心理療法士として、カウンセリングするのヒトたちがデジタルメディアを通じて亡くなった親しい人との関係を維持する方法についての研究から、「アニメーション」の概念を導入しました。死者が「アニメーション的なキャラクター」として、生者との共生を続ける方法を提案しました(東浩紀の「データベース」概念を引用)。従来の「別れ」に焦点を当てた哀悼(mourning)の研究とは異なる、新しい形態の哀悼実踐を提案しています。

キャラクター論

「次元の壁」の話から始めて、さまざまな興味深い事例を紹介した後、アニメーション・パラダイムを導入し、「キャラクター中心実在論」を提唱しました。また、「キャラクター化」の行為やプロセスを提示しました。野澤俊介先生の日本語論文を読んだことはありませんが、「言語のキャラクター化」には類似した内容があると推測します。

伊藤剛のマンガ表現論を基盤として、「アニメーション」概念を導入しました。この論文での「アニメーション」を使用する方法は、伊藤剛のキャラ・キャラクター論や萌えフォビア論をアニメーション・パラダイムから再検討するのに役立つかもしれません。

現代形而上学における「キャラクターの人工物説」を整理し、紹介しました。人工物の定義については、第四章「時計は実在するのか?」を参照する必要があります。同一性に関する議論は少し複雑であり、経験に直接関連するわけではありませんが、問題を明確にするのに役立ちます。

セクシュアリティ

AVENとDSMの闘いを詳細に記録しています。現在、Aセクに関する多くの心理学研究は、依然として精神病学的な分類(例えば、Anthony F. Bogaertの「Aegosexual」の定義)を採用していますが、この論文はAVENの歴史を例に挙げ、性の医療化の問題を指摘しています。DSM、ICDや異常心理学の言説に注意を払うことは重要だと考えています。

対物性愛

対物性愛国際のウェブサイトを直接参照すると、興味深い言説が得られます。英語版、フランス語版、ドイツ語版、日本語版にはいくつかの違いがあります(日本語版には英語版からの誤訳が含まれる可能性があります)。私は英語版をお勧めします。

詳細な理論化はないものの、オンラインアンケート調査により、英語を使用「できる」対物性愛国際のメンバーの経験が収集されており、それゆえにこの文献は重要です。特に注目すべき点は、「四種のコミュニケーション」と「マスターベーションは自慰ではない」という記録だと考えています。

対物性愛とFセクの経験を結びつけ、対人性愛中心主義批判の視座から批判的考察を提出しました。

人形愛

卒業論文のようですが、読みやすく、日本における歴史が明確に整理されています。(台湾人としての私にとって)

イギリス、古代中国、日本に関する歴史的な議論から、ラブドールと「性具」および「配偶者」との関係について議論し、そして、ギデンズの「純粋な関係性」を引用して、その他の可能性について論じました。

様々な研究アプローチを収集しました。凄く重要な文献です。

動物性愛

霊体性愛・スペクトロセクシュアリティ

新しい用語なので、私はAmy Marshさんからそれを知りました。Marshさんのブログを添付します。ちなみに、lgbtqia.wikiによると、それは時々「Fセク」の一部と見なされることがあるそうです。

エコセクシュアリティ

英語版、スペイン語版、カタルーニャ語版はこちらを参照してください。彼らに『Assuming the Ecosexual Position: The Earth as Lover』という著作も執筆しており、より詳細な言説が知りたい場合は、参考になります。

フェティシズム

古典アフリカ宗教研究、マルクスフロイトフェティシズム論を整理し、批判的解釈を提案しました。最後に、「フェティッシュ・ネットワーク」の概念を提唱し、凄く汎用的です。田中先生も『フェティシズム研究』のシリーズを編集しており、より広範な文献や視点が必要な場合は参考にできます。