なつやすみのおもいで

 私は小さい頃場所見知りだったらしい。

 酷い場合は出かける時、まず車に乗せようとしたら知らない場所だ!と泣く。ただなんとか車に乗せると、なーんだ知ってる場所じゃん…とでも言うかのように安心して寝るらしい。そして目的地についたら泣く。目的を果たして帰ろうとして車に乗せようとしたらもちろん泣く。最悪の場合、家についても自宅であることを忘れてギャンギャン泣く。最後は場所見知りというか鳥頭なだけではないかとも思わなくはないが、とかく知らない場所に行くのがめちゃくちゃ嫌だったらしい。ではなぜ好き好んで旅をするようになったのだろうか。もちろん旅好きな親の影響はあると思うが、結局本人が嫌だったら嫌なものは嫌なままではないだろうか。
 明確なきっかけは今のところ特に思いつかないのだが、強いて言うならば両親の実家への帰省が影響しているんじゃないかと思った。両親の故郷は当時住んでいたところからは遠く、それぞれ違っていた。母親の実家までは高速バスと新幹線を乗り継いで約3時間半、父親の実家へは高速道路を使って約4時間かかった。お盆と正月になると、基本的には父親の実家の方に行っていたのだが、時にはどちらへも行くこともあった。今考えるとなかなかハードスケジュールじゃないんだろうかと思う。
 そんな中で特に印象に残っていたのが夏休みに父親の実家に行くことだった。父親の実家は山奥にあり、周りにはコンビニもスーパーもなく、ただ家やお寺、畑があるのみだった。近くの家では、木製の水車がいつもぐるぐる回っていた。遠くには道路と山々が見えた。当時住んでいた場所も田舎ではあったが、あの辺りは正に絵に描いたような田舎だったのである。そんな場所へ、兄と共に父親の車の後部座席に乗り、ラジオの道路交通情報を聞きながら向かった。渋滞していて遅れることもあったが、サービスエリアに寄っても大抵はお昼ごろに着いた。明るい時間帯に着くと、いつも玄関の扉は開けっ放しだった(田舎あるある)。

 おばあちゃんに挨拶をして2階の寝室に荷物をおろし、一通りはしゃぐと暇になる。DSも持ってきてはいたが、やっぱり退屈である。なぜなら従兄弟を待っているからである。この家での一番の楽しみは、同年代の従兄弟と遊ぶことだった。けれどもいつも早く来るのは私たちのほうだった。あっちの家はいつも次の日の夜、しかも夕飯を食べ終わった後とかにやって来るので、損した気分になった。そのうち母に自分で布団を敷くよう言われて、もっと不機嫌になる。携帯なんて持っていなかったので、そんな思いを伝える手段は無く、ただひたすら待っているだけだった。

 従兄弟たちが来たらお祭り騒ぎになる。4人一緒にリビングのソファーに座ったり、車で遠くのプールやボウリングに連れて行って貰ったりもらった。親たちが忙しい時は、子どもたちだけで歩いて公園、または近くの牛乳屋に行ったりした。私たちだけで行ける範囲にあるのは、おばあちゃんの畑、神社、お寺、公園、そしてこの牛乳屋だった。ここにある自販機は、瓶の牛乳が買えるのだ。120円という大金を払って得た牛乳は、ドキドキしてたまらなかった。そうしてまた遊んだ後、夕飯は父親が作ってくれる焼きそばを先に子どもたちだけで食べて、また広い仏間か寝室に集まって遊んだ。時には中庭で花火もした。風呂も一緒に入った。親に歯磨きするよう言われるまで、とにかく遊んだ。寝る時、普段は従兄弟たちが寝る部屋と私たちが寝る部屋は別々なのだが、たまに一緒の部屋で寝ることを許してくれるのがとてもうれしかった。次の日の朝は、また私たちの方が早く起きる。半分寝ながらしぶしぶパンを食べ、早く従兄弟たちが起きてこないかなあ、と思った。この家ではそんな具合で過ごすので、すぐに別れの時が来るのだった。

 最後に集まって夏を過ごしたのは高校生のときだったと思う。大きくなるにつれ、受験やら何やらで全員揃うことが少なくなった。そしてあの大きな家に一人で住んでいたおばあちゃんが施設に入ってからは、あそこで夏に集まることは無くなった。おばあちゃんちで従兄弟たちと過ごす夏は、思い出になって終わったのである。

  結局旅好きになれたのはなぜだったか。それは遠くに行けば、あれだけ楽しいことがあると思えたからなんじゃないか。移動に対する慣れとか、他にもいろいろあるだろうけれども、ここを抜け出した遠くでしか味わえないものがある、という価値観が染み付いていたのではないか。きっともうあんな夏は来ないだろう。だからあの思い出のような輝きを求めて、また私はどこかへ行くのかもしれない。

決闘ソフトクリーム

 山口には錦帯橋という橋がある。

 広島に近い岩国市は錦川という川に架かる橋で、綺麗なアーチが並んだ木製の橋である。山口の観光スポットの一つであり、近くの吉川資料館にて気になる展示をやっていたのでついでに行ってみた。実際の錦帯橋は想像よりも大きく、また浮世絵に出て来るかのような美しい橋だった。渡ることもできるのだが、実際に渡ってみると結構急で、小刻みな段差がついているとはいえ大変だった。それでもなかなかこんな古風な橋を渡る機会はそう無いので、良い思い出になった。

 しかし錦帯橋で私が一番驚いたのは、渡り終わって着いた向こう岸にソフトクリーム屋さんがあったことである。ただのソフトクリーム屋さんでは無い。めちゃくちゃ味の種類が多いソフトクリーム屋さんである。メニューがカウンターの注文口や受け取り口を取り囲むように貼られており、私が行った時は200種類ほどはあった。少なくとも私が人生で見たソフトクリームの味を全て網羅している。というかもう初めて見た味のほうが圧倒的に多い。トマト味?すっぽん味…?

 しかもその先に、もう一店ソフトクリームを売っているお店があるのだ。そこも種類が多い。手前のお店のほうが多いだろうが、ここも100種類ほどはあろうか。専門店では無くテイクアウトもやっている普通の喫茶店、といった趣だが、なかなかのラインナップである。そして先程のお店が「むさし」だったのに対し、こちらは「佐々木屋小次郎商店」だった。突然の巌流島である(ちなみに巌流島は下関市)。一体なんなんだ、この辺りは…? 私はまったく知らなかったのだが、錦帯橋を抜けるとそこはソフトクリーム激戦区(計2店)だったのである。

 そんなソフトクリーム巌流島にうっかり紛れ込んでしまったので、怖気付いて初めはどちらも素通りしてしまった。いくら甘い物が好きとはいえ、選択肢が多すぎると人間は混乱するものである。ただ、ここでソフトクリームを食べないのももったいない。そう思い、本来の目的である吉川資料館と周辺の史跡等を一通り見学した後、遂にソフトクリームに挑むことにした。

 ベンチがある小さな広場が近いこともあり、初め見た時も周りには人がいたのだが、帰ってきても同じく家族連れやカップルと思われる人々がふたつのお店のあたりにはたむろっていた。やはり皆、どこでどのソフトクリームを頼むか迷っているようだった。

 私も一体どこで何を食べようか。まず店選びから始めなければならない。もちろんどちらも気になると言えば気になるのだが、やはり先に見た「むさし」にしようか。種類の多いし。「日本一ソフトクリーム」とか書いてあったし。錦帯橋初心者なのだから、やっぱり大人しく一番のお店に行くべきだろう。ミーハーになるというのはなかなか大切である。

 そして、味はどうすべきか。おそらくここが最大の難関だろう。せっかくたくさん種類があるのだから、見たことがないような味を食べてみたい。だからといって、トマト味とかは避けたい。トマトはまだマシなような気がするけど、素直なソフトクリームを食べたい。でもここでバニラとかチョコとかも、違う気がする。消去法をしてもまだまだメニューには余りある量のフレーバーが並んでいる。一体、どうすれば。そんなこんなで悩みに悩みまくったあげく、私がメニューの隙間を縫って注文したのは杏仁桃味であった。味は想像できるが、あまり見たことがなかったからである。あとはもう直感だ。実際食べてみたら想像通りおいしかった。勝ちましたね。この決闘。

 しかしなぜこんなにも憑りつかれたかのようにソフトクリームの種類がある店が2店舗もあるのだろうか。調べてみてもその理由とかはよくわからなかった。少なくともソフトクリーム発祥の地とか山口県民はソフトクリームが大好きとかそういうのでもなさそうだった。よくわからないがおいしかったし、この2点を目当てに錦帯橋を訪れる人もいるみたいなので、なんかまあよかったんじゃないだろうか。世の中わかんないこともたくさんあるし、そんなに意味のあるようなことばかりではない、といい意味で思った。次に行ったときは、何種類になっているのだろうか。

鬱々雑記

ミニマリストにあこがれている。元々シンプルなものが好きだったし、「実は物ってそんなにいらないんじゃね?」と思い始めてきたのである。割とオタク(大きめの主語)は収集する人が多いというか、所謂「買った後悔より買わない後悔」みたいな言説もあり家に物が多い気がする。この言説にはその通りだと思うのだが、最近私は買い物が下手なのか好きなものへの上がり下がりが激しいのか、買った後悔>買わない後悔みたいに感じられるようになってしまった。まあ買ってしまったのだからもう買わない後悔は感じることはできないのだが…。
というかなんだか私は変に潔癖で、好きで買ったのなら毎日しゃぶりつくすほど楽しみたいのだ。(本当に実現できるのかわからないが)毎日ニコニコしながら「やっぱ買ってよかった~~~」になりたいのだ。そうなると結構ハードルが高くなる。まあ無理せずいい感じに物を集めて物を捨てていきたいと思う。私に収まる範囲で物を管理したい。

・そんなこともあって最近本を古本屋で売ったりしている。本を、売る…とは思ったものの、ずっと読めずにホコリ置き場になっているよりは本も幸せなんじゃないか。ミニマリストの人の記事で、「いつか○○するだろうから、と言って取っておくのは未来の自分に過度の期待をかけることになる」という旨の文章が載っていて、一理あると思わされた。というか読んでない本が結構あるのに図書館に行って本を借りたり、また新しい本を買っていたりする。ということは、今の私にとってはそれほど必要な本ではないんじゃないだろうか?と思った。もちろんもう二度と手に入りそうなものは売らない。欲しいと思ってももう一度手に入りそうな本は手放すことにした。売ってみると案外面白い。売った後のレシートでこの本以外と高いんだなあ、とかいろいろ考えたりできるし、本棚に余裕が生まれる。それに私が行く古本屋には、レシートには「雑誌」とか「文庫」とかしか書かれていないのだが、1時間ぐらい前には持っていたはずなのに売った本のタイトルが思い出せないことが多い。少し寂しいが同時に自分も本もこれでよかったのではないかと思う。

https://www.lettuceclub.net/news/serial/11801/
最近軽く読んで面白かったもの。収集癖のある方が部屋を整理しようとする話(雑)。
この中の「好きなものなら使い道がなくても持ってていいけど/実用品は使ってなかったら持ってる意味ないんじゃ……!?」が印象的だった。なので私も積極的に使ってない実用品は捨てることにしている。

・リゾートバイト、イベントを手伝う単発バイトなどがしてみたい。ろくに接客業をやったことがないから結構堪えそうだが、まあ1回ぐらいやってみてもいいんじゃないだろうか。無職になったらやる。というかもっと気楽に働きたい。

・相変わらず移住についての情報を調べている。やっぱり結局のところ、実際のその土地の雰囲気とかを見た方が早いような気がしてきた。でもなかなか機会がない。いや機会はあるんだけど、バタバタしていてそれどころじゃないのだ。見るんだったら落ち着いて見たい。しかしそんなことをやっているとハードルがどんどん高くなるかもしれない。ユートピアなんてないんだから、早めに行って決着(?)をつけたいものである。

・結局のところ、東京一強みたいになっているのが嫌なのかもしれない。結局何をしようが東京に行ったほうが早いのだ。別にそうでも無いのかもしれないが、小さい頃から刷り込まれてきたヒエラルキー?からそう感じてしまう。劣等感だ。あとそもそも東京は人が多い。心が死んでいっている。

・前から京都に住みたいと思っていたのだが、最近の京都は観光客が多くなんだか疲れてしまった。私の思い描く「京都」からどんどん離れていってしまっている。でもただの幻想なら、他に私の思う「京都」があるのかもしれない、とポジティブに考えることにした。

・母の友人から、「20代と30代は結婚とか出産もあるし若いから大変だけど、40代・50代も親の介護があるから自由になれるのは60代からだよね」という話をされたのがずっと印象に残っている。結婚も出産も無いとなると、私が自由なのはあと10年、または40年後になるだろうか。こんなのは人によるから参考にしかならないだろう。ただ呪いのように残っている。やりたいことをやらねば。どうせ今が一番若い。

・スポーツの応援の仕方が難しい。応援しているチームが勝つともちろん嬉しいが、負けるとつらくてかなり落ち込んでしまう。つらいが試合があると勝ちを期待してしまう。なんかドーパミンとか出ているんだろうか。別に誰か知り合いが出場しているわけでも、何か仕事とかで関わりがあるわけでもないのに、ここまで心を乱されるのは不思議なものである。

ベイスターズ関連の番組でたまに流れる音楽がいいなあ、というか所謂ボカロっぽさ、インターネットから出て来た音楽っぽさがあるな、というかこの声はsyudouか…?と思い調べてみたらそうだった。名探偵の気分である。

youtu.be

SixTONESが今年行ったライブのDVDを出すらしく、宣伝映像などが公開されていた。見るとライブのことを思い出すので、買おうか考えている。

・Xのトレンド欄は本当に健康に悪い。自分の好きそうなものがトレンドには出て来るものの、結局自分の好きなジャンルのささいな揉め事とか、強く批判するような言動に関連する単語も入ってきている。正当性のあると自分でも思えるようなものならまだ良いのだが、とても私にはどうでもいいというか言動があまりにも幼稚で単純すぎるのではないか、と思えるような場合が多い。しんどいものである。

・最近ずーっとスマホを見ているので、自分でも姿勢が悪くなってきているような気がする。改善したい。

・夜枕元に置く小さいランプがほしいと思ったが、寝る前に本を読むことができないタイプなので要検討である。

・ああかがやきの四月の底を
   はぎしり燃えてゆききする
  おれはひとりの修羅なのだ
  (玉髄の雲がながれて
   どこで啼くその春の鳥)

  宮澤賢治/「春と修羅

SNSには何かをしている人たちでいっぱいで、何かをしなきゃいけない気持ちになる。絵を描かなきゃいけないし、頭の良いことを言わなきゃいけないし、何かちょっとした素敵な季節の変化とかを言わなきゃいけない。というかそうなれていない自分が苦しいのだろう。いったい自分は何がしたいのだろうか。感情が全て持っていかれている。なんでみんなが笑っているのか、楽しそうにしているのかよくわからない時もある。でも自分で救いを拒否しているようなところもある。「「自分は、ポオズをつくりすぎて、ポオズに引きずられている嘘つきの化けものだ」なんて言って、これがまた、一つのポオズなのだから、動きがとれない。」という「女生徒」の一節を思い出した。自分の書いた言葉、どこまで本当なのだろうか。またこの疑問も本当なのか。そして本当だったとて、どうすればいいのか。

・久々にゲームを買ってプレイした。謎解きのノベルゲームみたいなもので、(安かったし)クリアは一晩で出来たのだが、なんだか自分でもよくわからないままクリアまで行ってしまったので不完全燃焼だった。代わりにスイカゲームを買ってやっている。8番出口も気になるが、怖いのが苦手なので買わなかった。NEEDY GIRL OVERDOSEも音楽とかは好きなので気になるが、何分メンタルの調子が良くないので様子見である。

youtu.be

・ストレスが溜まってつらいなあ、死にたいなあという思いがある一定のところを超えると海とか水のイメージが出てくる。何故かはよくわからない。概念上の水溜まりである。海に行きたいという気持ちもないわけではないが、こういう時に私が想像する海は行く途中も浜辺にも私以外誰もいない夜の海である。難しい。

人人人

 私は旅先での出会いなどをあまり楽しむタイプではない。

 人に話しかける勇気も無いし、話しかけられることも滅多にない。話しかけられても「はあ、そうなんですね、えへ、アハハ…」みたいな相槌を愛想笑いで述べて足早にその場を去ってしまう。怖い人だ。そもそも私は人とのコミュニケーションに(おそらく)必要以上に精神力を使ってしまうタイプだ。そのため、リフレッシュや現実逃避のために旅行してるのに、「知らない人と話す」ことをしたら旅行に来ている意味が薄れてしまう…と思っているのだろう。旅行に行ったのに「どう反応すればいいんだろう」「なんか変なこと言ったかな…」「沈黙が気まずい…」とかいろいろ考えたくないのである。「一期一会の出会いを大切に…」という言葉が届かなくなるまで増幅した自我に襲われて、旅行どころではなくなってしまう。幸か不幸か現代にはインターネットというものがあるため、人に聞かなくても旅行はできる。旅先で得た感動もSNS上で共有すれば事足りる。ていうか別にわざわざ共有しなくても良い。なんだかつまらないように聞こえるが、無理してやるよりも、自分がそれで良いなら良いのだ。

 そんな中で、私がたまに思い出す旅先の出会いがある。数年前の京都、私が好きな鎌倉幕府三代将軍に縁のあるお寺を訪れた時のことであった。その日、私は朝早くからそのお寺に訪れていた。嵯峨嵐山の辺りではあるものの、いかにも観光地!といったところからは離れているせいか、夏休みにも関わらず周りにはまったく人がいなかった。趣のある山門をくぐると、青紅葉が美しかった。

 門の近くで受付を済まし、お寺の中へと入っていく。一番乗りのようだった。一通り見た後は、お目当ての建物に向かった。舎利殿である。緊張と楽しさに包まれながら近づいてみると、古びた扉にはこんな手書きの張り紙があった。

「開けたら閉めてください」

 開けたら、閉めてください。「お入りください」でも「立ち入り禁止」でもない。これは、入っていいのだろうか。

 辺りを見ても他の観光客の方はもちろん、職員?っぽい人もいない。なので入っていくような人もいない。受付してくれた方がさっきいたような気がしたけど、いない。本当に誰もいない。逆に怖い。後ろを振り向いたら何も無かったりするんだろうか。滅茶苦茶気になるけれども、勝手に入って「何してるんですか!?」と不法侵入として訴えられたり(?)したら滅茶苦茶に嫌だ。旅行先で逮捕(?)なんて嫌すぎる。これでニュース(?)になるのか。この先一生この罪を背負わねばならないのか。しかも推しに縁のある寺で…。ていうか「自分が」というよりも申し訳ない。各関係者に顔向けが出来ない。やめよう。こういう時は危険を犯さないのが賢明である。とりあえずその姿を目に焼き付け、来た道を戻り山門へとたどり着いた。

 結局入口へと戻ってきてしまったものの、諦めきれなくてしばらくはその場にいた。というか職員の方が戻ってきてくれるんじゃないかと思ったのである。しかしそんなすぐには戻ってこない。近くの保育園か幼稚園からは子どもたちの無邪気な声が聞こえてくる。ずっとここにいたら流石に変な人だと思われるだろうか…もう一回入ったら拝観料は…いやそもそも気まずいか…などと考えていた時、一人のご老人に話しかけられた。実際には京ことばだったのだが、正確には覚えていないため標準語で記す。

「観光で来たの?」

 あっ、はい、そうです、と答えると、ご老人はこの辺りの人でお寺の人とも親交があるらしく、歓迎するかの如く寺についていろいろ話してくれた。なんでもこのお寺はご家族で切り盛りされているため、積極的に観光地として打ち出していないんだそうだ。というかやりたかったとしても、できないようである。美しい紅葉があるにも関わらず、あまり有名でないのはそのためらしい。

 ふむふむ、大変なのだなあ…と話を聞いていると、「舎利殿には行った?」と私の心を読まれたのか?と言わんばかりの質問が飛んできた。「あっ、いやっ、行ってないです!」と答えると、「そりゃ見た方がいい」と山門をくぐってどんどん進んでいった。私もこの機を逃さんとばかりに、どんどん着いていった。

 ご老人は関係者以外立ち入り禁止そうな建物の前で軽く声を掛けると、私を受付してくれた人が出てきてくれた。ああ、という顔をしていて、知り合いというのは本当だったんだ、と私はようやくご老人の話を信じたのであった(観光客に対して歴史とかを語る人間の中には創作や誇張された話をする層がいるので…)(すみませんでした)。

 そしてご老人は「舎利殿を見ていないっていうから」と私の置かれた状況を説明してくれたので、受付の人もああ、そうでしたか、とぬるっと再入場を許可してくれた。急展開でかなり驚いていたのだが、ありがとうございます、と伝えるとご老人は言葉少なに帰っていってしまった。なんだか、滅多にない経験をしたなあと思った。そうして入った舎利殿は、曇り空のため薄暗く、非常に幻想的な空間だった。大きくは無いが確かにそびえ立つ四天王像の神聖さがより増していた。ただ実のところ、それぐらいしか覚えていない。そもそも推しに縁のある仏舎利は年に一度の公開だし、公開してないと知りながらもどうしても舎利殿だけでも見たくて来たのである。そして何よりも、先程のことが印象的だった。舎利殿を満喫した後、境内を出てもご老人はもういなかった。心の中でなんべんも御礼を言った。

 この出来事を思い出し、お寺は今はどうなっているだろうか…と先日インターネットで検索してみたら、なんとおしゃれな公式HPが引っかかるではないか。確か私が行ったときには無かったはずである。そしてそのHPを見ていると、かなり観光に力を入れ始めているように見えた。雑誌やテレビで取り上げられたり、年に一度しか公開していなかった仏舎利が特別公開で年に二回ぐらい公開されていた。なんだかすっかり変わっており、良かったね…と思うと同時に、この状態だったらあのご老人には会わなかっただろうなあとなぜか思った。ご老人や受付の方は今どうしているのだろうか。あの人たちに良いことがたくさんあるといいな。

奈良

 京都での仕事が佳境に入った折、私は観光の場を奈良に変えた。

 変えた理由はまあ気分転換というか、佳境に入ってしまったせいで「京都にいたくない」「人が少ないところにいたい」という気持ちが溢れてしまったのである。あと京都はなんだかんだ行く回数が多いものの、奈良はあまり行ったことが無い。このついでに、いろんなところに行ってみようと思ったのである。先輩にも「もう京都来ることも無いかもね」と言われたので、交通費が会社持ちという貴重な機会を逃さないためにも、とある金曜の夜にホテルを自腹で取って奈良観光としゃれこむことにした(ちなみにこの翌週は1週間まるまる京都にいた)(何故?)。

 お天気に恵まれた土曜の朝、さっそく私が向かったのは元興寺である。どこへ行こうか調べていた時に、目に止まったのがこのお寺だった。名前は聞いたことがあるけれれども行ったことは無い。駅からそう遠くもないし行ってみよう、と意気込んで無事についたのだが、まあ穏やかで素敵なお寺だった。

 6世紀末に蘇我馬子が創建した法興寺(飛鳥寺)を、平城遷都に伴い官大寺として新築・移転し元興寺と名を改めたのが始まりとされ、国宝・世界文化遺産にも登録されている。そんな説明を聞くと壮大なものを想像してしまうが、実際はとてもこじんまりしたお寺だった。創建当初は現在の何倍もの敷地があり、大きな宝塔などもあったようなのだが、今は僧坊と講堂の一部が残っているのみである。その小ささもあってか、その時拝観に来ていたのは私の他に5人程度だった。

 特に印象的だったのが、飛鳥時代の瓦が一部使われている極楽堂(本堂)である。参拝者でも中に入れるようになっており、薄暗い堂の中には仏像が数体並んでいた。仏像から少し距離を置いた場所には椅子が並んでおり、数人が座ってその像を眺めている。私も先客に倣い、座ってみることにした。9月と言えどまだまだ暑かったのだが、焼かれるような日差しも入らず風が通るお堂の中は心地よかった。そしてみな静かに見ていたので、風が葉を揺らす音ぐらいしか聞こえなかった。都会の喧騒を忘れられる、というのは正にこういうことなのではないだろうか。この静寂と涼しさがある限りここにいたいと思った。あまりにも理想的な空間だった。

 そして元興寺ですれ違う人はなんかみないい人だった。元興寺に関連した資料などが展示されている元興寺文化財センターでは「こんなに古いものが残ってるんだ!すごいね〜」「そうだねえ」と感心しながら話していたご夫婦に、そのセンターを出たら「見て、藤の花だよ」「わ~きれいだね」と趣のある会話をしていた若き2人組に出会った。労働に忙殺されていた私にとって、もはや幻かと疑ってしまうような空間だったのである。

 そんな穏やかで素敵な元興寺を出た後は、近くのならまちを少し散策し古民家カフェに入った。綺麗に、けれども古く味のある部分はそのままにした素敵なカフェだった。ただそこも全く人がいなかった。どれぐらい人がいないかというと、13時すぎに行ったのに1日5食限定のおにぎり定食がまだ3食残っていたぐらいである。最早不安になった。不安になったものの、無事にやってきたおにぎり定食はとてもおいしかった。立派な具が乗ったおにぎり2つに、素朴な豚汁にちょっとしたお惣菜とお漬物。古民家カフェで食べるのに最高の組み合わせではないだろうか。ついでに食べた抹茶チーズケーキもおいしくてゆっくりしてしまった。暑かったけど、大満足の一日だった。

 世界遺産や国宝を多く有しているのに、穏やかで静かでなんだかのんびりしている。そんな奈良が好きだ。だからいろんな人に来てほしいが、人は増えてほしくない。奈良に対するジレンマである。わがままを言わせてもらえるのなら、今のままほどよい感じが良い。京都や大阪みたいに発展していて華のある感じではなくても、こういう場所があってもいいじゃないか。と田舎で生まれ育った者は勝手ながら思うのであった。

置かれた場所であんまり咲かない

 家族旅行だが、最近は先祖をテーマにして全国を巡っている。

  昨年は松山、そして今年は函館だった。この2か所に縁があるのが、母方の曽祖父である。曽祖父は元々愛媛の生まれ。生まれてすぐに近くの大きい商家へ養子に出されたのだが、それが彼のその後の人生を大きく変えることになる。

  まあ早い話が、養子先であまり可愛がられなかったらしいのだ。物語とかではよくある話と言えばそうなのだが、なんでも養母にいじめられていたとかいないとか、家督を巡って殺されかけたとか殺されかけてないとか……。詳しいことはわからないが、結構ひどい目に遭っていたらしい。

  しかし、いじめる神あれば救う神あり。そんな目に合っていた曽祖父を見かねて、可愛がってくれていた人(おそらく実兄)がこう勧めたそうな。「お金は工面するから、北海道へ行きなさい。」

  なぜ北海道だったのかはわからない。当時北海道は人手が欲しかったらしいので、そのあたりの繋がりかもしれない。そして曽祖父は勧められた通りに生まれ育った故郷を出て、はるばる北の大地・北海道へと渡ったのだった。

  ちなみにそう勧めた曽祖父の実兄は元々朝鮮総督府に勤めていたのだが、なぜか突然愛媛に帰ってきて、弟の養子先の商家を継いだ。なぜかはわからない。なぜかはわからないのだが、それまでお醤油とか売っていた店を突然近代的なカフェーに変えてしまった。建物もピアノを備えた洋風のオシャレな2階建てに改装し、実兄自らフグも捌くこともあったらしい。フグ?そしてそのカフェーはなかなか繁盛したらしく、実兄は市議会議員にもなっている。閑話休題

  一方その弟の曽祖父は真面目に北海道庁へ勤め、終戦樺太で迎えた。その後はまた北海道へ戻ったものの、息子である私の祖父が大学院生の時に急死した。波乱万丈な人生を終えたのは、函館は五稜郭のすぐそばだった。

 実際のところ、この話がどこまで本当なのかはわからない。私にとっては又聞きの又聞きレベルの話なので、おそらく全く違うところなどもあるだろう。ただ曽祖父の戸籍と残された資料を見る限り、愛媛に生まれてすぐに養子に出されたこと、北海道庁に勤めていたこと、そして函館で亡くなったことは事実のようであった。そのため、とりあえず函館に行ってみることにしたのである。

 そして実際に函館を旅行して見て思ったのが、函館って、いいな…。ということだった。

 まず涼しい。7月に行ったのだが、関東が既に夏!!みたいな気温になっている中で、函館は最高気温25度ぐらいだった。長袖一枚か、半袖に上着一枚でちょうどいい感じなのである。あと海が近いからか、結構風が通る。もうこういう気候で暮らしていたいよ…と最終日に関東の天気予報を見て思ってしまった。

 それとご飯がおいしい。ラッキーピエロの名物・チャイニーズチキンバーガーや五稜郭タワーで売っていた新選組ソフトクリームなど、どれもおいしかったのだが特に感動したのがサーモンだった。おいしすぎる。バイキングでサーモンの刺身が出て来たのだが、おいしすぎて熊か?というぐらい食べた。というか何にしても元の食材が良すぎるんだと思う。お米も肉も魚も甘い物もなべておいしかった。

 あとレトロな街並みがあるのも魅力の一つだ。なんでも函館は当時の幕府が交わした条約によって、横浜などと同じく幕末には既に欧米諸国などに向け開港していたのである。習ったような…習わなかったような…。流入してきた西洋文化は、函館の街づくりにも大きな影響を与えたという。その函館の中でも、特に元町のあたりには函館ハリストス正教会といった教会や、旧函館公会堂といった歴史ある西洋風の建物が立ち並んでいる。曽祖父も行った…かもしれない旧北海道庁函館支庁庁舎も、水色を基調としたおしゃれな洋風建築である。この旧庁舎や旧イギリス領事館の中にはカフェがあり、ゆっくりできるのもまた良い点だった。

 その他、「羽田から一時間で行ける」「ごみごみしていない」「路面電車があるから市内を回りやすい」などと良い点は結構あるのだがこの辺りにしておく。先祖が過ごした土地だから輝いて見えるのかもしれないが(?)、読者諸君も是非行かれたし。

 そんな函館の中でも特に印象的だったのが、 函館市青函連絡船記念館摩周丸だった。青森駅函館駅を結ぶ青函連絡船として使われていた摩周丸をそのまま記念館にしたもので、中ではその歴史などを学ぶことができる。函館駅の近くとはいえ、夕方に行くと人も少なかった。薄汚れた窓からは古びたデッキと波間にきらめく光が見える。一日市内を歩き回り疲れもあったので、一通り見た後は実際に使われていた席に座りながら当時の映像などを見た。

 曽祖父が亡くなったのは本当に突然だったらしい。唯一の息子である祖父は、母や姉妹を養うべく急遽就活することになった。幸いにも良い条件の働き口は見つかったが、東北であった。本州の中では近いとはいえ、祖父たちにとっては生まれ育った地を離れることになる。この数年前には、青函連絡船において千人以上の乗客が亡くなった洞爺丸事故が起こっていた。だが祖父は「親父も愛媛を離れてここまで来たんだ」と一家移住したという。骨壺に入れられた父と海を渡る時、私より年下の祖父は何を考えていたのだろうか。祖父も既に亡くなっているからわからない。私の中の祖父は、飼っていた犬とお酒が好きな愉快な人だった。

   曽祖父も祖父も大変な人生だっただろう。ただ子孫としては、「やっぱりうちって流浪の家系なんじゃ……」と勝手に思ってしまう。置かれた場所で咲くより、タンポポの綿毛の如くいい感じに流れていい感じの場所でいい感じに花を咲かせるのが合っているような気がする。先祖代々の土地とか共有できる風景とかは無いけれども、ある意味では自由を確約されているのだ、と子孫は思った。自由気ままに全国を旅する子孫たちを見て、曽祖父やその兄、また祖父たちは驚くだろうか。それとも案外、仕事以外では移動などしたくないだろうか。でもやっぱり流浪の家系なのだから、私たちと同じように面白がってくれているだろうと思った。全国を好きに巡っていることが、ある意味孝行になっているのかもしれない。

お盆覚書 福島

 今年のお盆は福島県立美術館に行き、「みんなの福島県立美術館  その歩みとこれから」を見た。今年で40周年を迎えた福島県立美術館のこれまでの歩みや美術館の仕事を紹介する展示で、あまり訪れたことが無い私にとっては美術館のことをまるまる知れて嬉しかった。

 展示は第1~4章で構成されており、「第3章 まもる:コレクションを未来に伝えるために」は東日本大震災について言及していた。当時の状況や、震災によって損傷してしまった作品(修復済み)が展示されていたのだが、そのような県立美術館における震災被害や復旧作業についてが全てまとめられた一冊の本が近くに置いてあった。軽く読んだだけなのだが、どの作品がどのように損傷したか(当時の写真付き)、いつどのように再開館したか、また受付や警備員の方なども含めた当時の状況についてのインタビューなどが掲載されていた。素人目でも重要な資料だというのがわかる。

 その中で特に印象的だったのが、原発事故によって無人となった地域からの文化財の救出についてだった。福島県地震津波によって直接に大きな被害を受けた文化施設や美術品等はなかった(いま、被災地から ──岩手・宮城・福島の美術と震災復興──:キュレーターズノート|美術館・アート情報 artscape)そうなのだが、当該地域の文化財の救出が大きな課題として降りかかってきたという。放射能汚染のため立ち入りが制限されている地域からの救出。類を見ないような課題である。続けて本には救出の際の写真が載っていた。確か防護服を着た人々が仏像を救出するところだった。その写真が妙に印象的だった。

 福島のテレビではローカルCMに交じって、ちょうど東京電力からの賠償金についてのCMが流れていた。夜のNHKニュースでは、天気予報の最後に必ず各地方での今日の放射線量が流れる。福島県立美術館でも、頻度は少なくなったが放射線の測定は2011年からずっと行っている。まだ震災(というよりも原発事故か)の影響は続いている。別に福島はまだボロボロだとか言いたいわけではない。復興は今でもゆっくりと確実に進められているのだ。あの日より前には戻れないかもしれないけれども、良い方向へ進むよう13年努力している人たちがいる、という話である。

 結局第三者として出来ることは一体なんなのだろうか、とかいろいろ考えてみたのだが、まあやはり最低限出来ることとすれば興味を持ち続けることなんじゃないだろうか。友人のように、毎日伺うことは難しくとも、たまにSNSとかで様子を見に行くぐらいはできるかもしれない。他の被災地についても。実際、自分がやっていることでも全然関係ないけど見ている人がいる、興味を持ってくれている人がいる、というだけで結構嬉しいものである。もちろん出来ることはやっていきたいし、たまにしか行けないけれども、福島のことをずっと見ていきたい。

 

追記

 福島(と言っても福島県は広いので全く巡れていない)の中で個人的に好きなカフェは福島駅近くの「珈琲グルメ」である。あの辺で知らねー奴はモグリだと言わんばかりに人気の老舗喫茶店で、以前行ったときは開店すぐに入ったら早々に満席になってしまった。休日のお昼時はよく並んでいたりする。昔ながらの喫茶店なのでコーヒーもご飯も甘い物もあるのだが、特に人気なのがプリンである。昔ながらのしっかりめのプリンで、揺らしてもまったく動かない。上に乗せられたさくらんぼも良い。おいしい。店内も非常におしゃれなため、是非一度行かれたし。珈琲グルメ (coffeegourmet.jp)


 というか機会があったら行きたい!とかやってると人生すぐ終わりますんで「来て。」福島県もそう言っています。

https://fuku-official-posters.jp/

 

【参考】

SMMA東日本大震災 ミュージアム被災と復旧レポート | 福島県立美術館

2013年3月26日に行われたヒアリング調査

福島県の文化財レスキュー:キュレーターズノート|美術館・アート情報 artscape

2014年03月01日号

いま、被災地から ──岩手・宮城・福島の美術と震災復興──:キュレーターズノート|美術館・アート情報 artscape

2016年06月01日号

放射線量測定結果 - 福島県立美術館ホームページ (fcs.ed.jp)

2011年7月からの測定結果が閲覧可能。

福島県環境放射線モニタリング広報誌「ふくモニ」629937.pdf (fukushima.lg.jp)

令和6年3月発行。福島県内(避難指示区域を除く)の空間線量率は、現在では世界の主要都市とほぼ同水準であることが述べられている。

福島県公式イメージポスター「来て。」について https://fuku-official-posters.jp/

※どれも2024年8月18日閲覧。