私は小さい頃場所見知りだったらしい。
酷い場合は出かける時、まず車に乗せようとしたら知らない場所だ!と泣く。ただなんとか車に乗せると、なーんだ知ってる場所じゃん…とでも言うかのように安心して寝るらしい。そして目的地についたら泣く。目的を果たして帰ろうとして車に乗せようとしたらもちろん泣く。最悪の場合、家についても自宅であることを忘れてギャンギャン泣く。最後は場所見知りというか鳥頭なだけではないかとも思わなくはないが、とかく知らない場所に行くのがめちゃくちゃ嫌だったらしい。ではなぜ好き好んで旅をするようになったのだろうか。もちろん旅好きな親の影響はあると思うが、結局本人が嫌だったら嫌なものは嫌なままではないだろうか。
明確なきっかけは今のところ特に思いつかないのだが、強いて言うならば両親の実家への帰省が影響しているんじゃないかと思った。両親の故郷は当時住んでいたところからは遠く、それぞれ違っていた。母親の実家までは高速バスと新幹線を乗り継いで約3時間半、父親の実家へは高速道路を使って約4時間かかった。お盆と正月になると、基本的には父親の実家の方に行っていたのだが、時にはどちらへも行くこともあった。今考えるとなかなかハードスケジュールじゃないんだろうかと思う。
そんな中で特に印象に残っていたのが夏休みに父親の実家に行くことだった。父親の実家は山奥にあり、周りにはコンビニもスーパーもなく、ただ家やお寺、畑があるのみだった。近くの家では、木製の水車がいつもぐるぐる回っていた。遠くには道路と山々が見えた。当時住んでいた場所も田舎ではあったが、あの辺りは正に絵に描いたような田舎だったのである。そんな場所へ、兄と共に父親の車の後部座席に乗り、ラジオの道路交通情報を聞きながら向かった。渋滞していて遅れることもあったが、サービスエリアに寄っても大抵はお昼ごろに着いた。明るい時間帯に着くと、いつも玄関の扉は開けっ放しだった(田舎あるある)。
おばあちゃんに挨拶をして2階の寝室に荷物をおろし、一通りはしゃぐと暇になる。DSも持ってきてはいたが、やっぱり退屈である。なぜなら従兄弟を待っているからである。この家での一番の楽しみは、同年代の従兄弟と遊ぶことだった。けれどもいつも早く来るのは私たちのほうだった。あっちの家はいつも次の日の夜、しかも夕飯を食べ終わった後とかにやって来るので、損した気分になった。そのうち母に自分で布団を敷くよう言われて、もっと不機嫌になる。携帯なんて持っていなかったので、そんな思いを伝える手段は無く、ただひたすら待っているだけだった。
従兄弟たちが来たらお祭り騒ぎになる。4人一緒にリビングのソファーに座ったり、車で遠くのプールやボウリングに連れて行って貰ったりもらった。親たちが忙しい時は、子どもたちだけで歩いて公園、または近くの牛乳屋に行ったりした。私たちだけで行ける範囲にあるのは、おばあちゃんの畑、神社、お寺、公園、そしてこの牛乳屋だった。ここにある自販機は、瓶の牛乳が買えるのだ。120円という大金を払って得た牛乳は、ドキドキしてたまらなかった。そうしてまた遊んだ後、夕飯は父親が作ってくれる焼きそばを先に子どもたちだけで食べて、また広い仏間か寝室に集まって遊んだ。時には中庭で花火もした。風呂も一緒に入った。親に歯磨きするよう言われるまで、とにかく遊んだ。寝る時、普段は従兄弟たちが寝る部屋と私たちが寝る部屋は別々なのだが、たまに一緒の部屋で寝ることを許してくれるのがとてもうれしかった。次の日の朝は、また私たちの方が早く起きる。半分寝ながらしぶしぶパンを食べ、早く従兄弟たちが起きてこないかなあ、と思った。この家ではそんな具合で過ごすので、すぐに別れの時が来るのだった。
最後に集まって夏を過ごしたのは高校生のときだったと思う。大きくなるにつれ、受験やら何やらで全員揃うことが少なくなった。そしてあの大きな家に一人で住んでいたおばあちゃんが施設に入ってからは、あそこで夏に集まることは無くなった。おばあちゃんちで従兄弟たちと過ごす夏は、思い出になって終わったのである。
結局旅好きになれたのはなぜだったか。それは遠くに行けば、あれだけ楽しいことがあると思えたからなんじゃないか。移動に対する慣れとか、他にもいろいろあるだろうけれども、ここを抜け出した遠くでしか味わえないものがある、という価値観が染み付いていたのではないか。きっともうあんな夏は来ないだろう。だからあの思い出のような輝きを求めて、また私はどこかへ行くのかもしれない。