灰色の研究/A Study in Grey.

徒然なるままに、日々、記す。

占いとコスパ

最近、意味もないのに、タロット占いをしている。毎日一枚引いて、占っている。意外と面白い。科学的ではないのだろうけど、楽しいからいいや。コスパの悪い生き方万歳。コスパ良く生きたいなら、死ぬしかないのでは? なんて、思う。

東京

東京に行って感じたことは、多々ある。でも、その中で抜きん出て感じることは、皆が張り詰めているということだった。スタスタ歩く、その背中は少し鋭利な刃物のような気がして、堪らない。いつの間にか、憧れは消え失せ、実力以上の夢を見る中学生のときの僕を見ているようで、少しだけ痛かった。羽田空港でバスを降りたとき、チクリチクリ刺す、冬の寒空が僕をそうさせたのかもしれない。

古本屋

 古本屋に憧れる。

 好きな音楽を掛けながら、少し路上にはみ出た本たちを雨で急いで入れる。そんな生活に憧れる。僕自身が本屋で買い物しているときが面白いからかもしれない。近くにないから一時間掛けて古本を買いに行く。田舎はなかなか気軽にいけない。フットワークが軽い人は実に羨ましい限りだ。そして、都会が羨ましい。

堕落

僕は十分堕落している。坂口さんも吃驚する程だと思う。めったにいない。休日は平均12時間以上眠る。学生の時なんて、酷いもので、本を読み、ゲームして、飯を食って寝る。そんな生活をしていたら、学年5位だった成績が、いつの間にか真ん中ぐらいになっていた。笑う。いや、笑っちゃいけないんだけど。だけど、後人生落ちるだけ。これからも、嬉々として堕落していきたい。

配信者

配信をよく見ているけど、面白い。石川典行さんとk4senさん、sqlaさん。三人を適当に見ているけど、滅茶滅茶面白い。小説家や作家に文体があるのと同じように、やはり、面白い人は色があって、その色を自分の色だと信じているようだ。他人からの評価だとしても、自分で選んだ色を楽しんで手に入れている気がする。楽しそうだけど、すこし、怖い。自分には出来なさそうだ。僕はいつまでも、幼いのだろうか。仮面を被ることに慣れなければ、成功はないのに。

【映画感想】PERFECTDAYSを見て

 これを見て、僕は役所広司さんのファンになった。役所広司がそこにいると言うことを感じさせない、演技力。カンヌのときは圧倒的なオーラがあったのに、やはり、これをU-NEXTで見たときは、普通のお爺さんだった。

スカイツリーを見上げる車の中の不思議な様相は、あの世界で彼は生きていることの証左だ。

 ヴィム・ヴェンダースさんのあのドキュメンタリー映画のようなカットは、本当に印象深い。4:3だからこそ日々を切り取ることが出来たのかもしれない。彼の演技力がいい意味で薄まり(彼自身が加減可能なのかもしれないけど)、素晴らしいハーモニーを届けてくれたのかもしれない。

 そのコンビネーションがトイレを掃除する尊き小父さんを題材にして素晴らしい映画を作れたのではないだろうか。監督と演者、どちらもが全力で奏でる、平山が斯く語りき日常は、僕にとって服薬する、毒薬だった。

 トイレの掃除が仕事の小父さん、平山。

 車の中の音楽はカセットテープ。曲は洋楽ばかり。そして、寝る前に文庫本を読む。休日に買った100円ばかりの古本。布団で舟を漕ぐまで、読んでいる。

 そんな平山の1日は朝早く起き、歯を磨くことからはじまる。それが済むと、その横の霧吹きを持って、小さな椀で育てている植物に水をやる。

 やはり、音楽と文学はあんな人に愛されるべきかも、と少しばかり、思った。

 それが終わると彼はいつも通りのつなぎを着て、フィルムカメラ、小銭、車の鍵を持つ。アパートを出てすぐの駐車場。そこにある明滅する自動販売機でカフェオレを買う。

 いつも買っているであろう、そのカフェオレは可愛らしいまでに、彼の純粋さを映している。僕が平山だったら、ブラックコーヒーにするだろう。でも、見栄を張らない彼は、楽しそうに車で、カセットを聴きながら、飲んでいる。それが、やはり彼っぽいのだ。

 その延々と繰り返すルーティンを彼はすんなり送っている。なんとも美しい。手の届く、日々に重ねる小さな幸せを手に取っている。100円の本、昔買ったカセットテープ、100円のカフェオレ、フィルムカメラで撮る、木漏れ日。どれもが、誰にでも手に入る幸せだった。お金では買えない、普通の日々の中の幸せ。それは誰にでもあるものだし、誰もが感じることだろう。

 僕は何を求めていたのだろうか。そんなことを思いながら、僕はこの映画を楽しんでいた。僕の求める幸せはお金で買えるのか。そんなことを思った。いつも同じような日々を送る平山を見て、感情が揺らぐ。同じような人生でつまらないのではないか。そんなことが脳裏に過った。でも、よくよく自分の今までの人生で感動したことを、詳細に書き出してみると僕の人生も彼とさほど変わりないものだった。感動したことは、ドットでも、その周りに纏わり付く人生はラインだった。

 つまり、僕はそこら辺にいる普通の人で、頭が悪く、忘れ物ばかりする、音楽とゲーム、アニメに映画。そして、小説が好きな、サブカル好きの人間だった。

 そんなことを考えた。

 僕の映画への興味は、興味から、関心へ、そして、彼への尊敬へ、移り変わった。木漏れ日が差す、その一日一日を丁寧に生きる彼は、十分幸せそうだった。

 彼への興味が明確に尊敬に変化したのは、フィルムカメラを現像する、あの休日のシーンからだ。

 休日、平山はフィルムの現像をする。その中で現像してもらった写真を家に帰ってきて、選ぶ。正座をし、缶箱の蓋を開けて、選別する。その手は白く輝いた木漏れ日を選び、抜き取る。手の木漏れ日を破る。それから、葉が銘々に映り、織りなす影が映った木漏れ日の写真を淡々と缶箱へ摘み入れる。

 そして、その缶を仕舞う。毎月同じことをしているのだろう。それを証明するかのように、同じ大きさの缶が押し入れにどっさり積み並ぶ。何年、何月と書かれたガムテープを表に、貼り付け、整理している。

 その横に、今月の木漏れ日を入れた缶を仕舞う。僕は自分の日々をこれだけ繰り返したと、自分へ反芻するかのように、積み入れる。

 僕はこれだけ何年も幸せだと言えるものを繰り返したことがない。趣味を長々と繰り返すことをしたことがない。あまりに、それは、僕にとって美しく輝く、猛毒だった。それぞれの缶に木漏れ日かどうかもわからい被写体がある。その写真には、苦楽もあった、“無難”な人生が映っているのだろうと思うと、自然に目頭が熱くなった。

 泣き笑う、最後のシーンの朝焼けで僕はもう、彼に釘付けだった。この変哲もない、ありきたりな無難な人生。それこそ、幸せなのだと思えた。

 まるで、彼のその姿は僧侶のようだった。日々を生きながら、生きる意味を所々に見出す。そして、今にフォーカスして、生きる。まるで禅だ。それこそ海外で禅が流行っているから、海外では人気がありそうだ。カンヌを取った意味も自ずと見えてくる。海外も、日本も同じように、日々の小さな幸せを忘れつつあるのだろう。

 今を生きる。そんな純粋で単純なことを僕らは、いつの間にか忘れてしまうのかもしれない。誰もが明日の日銭を追い求める。それは生きる上で、最も重要なことだとも言える。だが、もっと大切なことは「日々、生きている実感を持っている」のかどうか。その一点に尽きるのかもしれない。

 脱サラをして、農家をしている人や田舎の移住に憧れがある人に、何故そんなものに惹かれるのかと、ある人は怪訝な顔で尋ねる。

 だが、よくよく考えてみると、単純に、今の瞬間瞬間の今、このときを、誰もが平等に生きたいだけなのかもしれない。

 僕も何故かそんな欲望がある。

 毎日、映画と音楽、そしてご馳走の小説を読めれば何ら問題はない。ただ単に、そんな単純でシンプルな日々を過ごしたい。そう思うのはこの平然と激動を孕む、そんな社会では当然のことなのかもしれない。

 平山の過去は何ら知らない。でも、何らかの理由があって、あのアパートに住んでいる。彼は嬉しそうに画面の中から、問答無用で、こちらに問いかける。

 「貴方の日々はPERFECTか」どうかを。

 彼の缶に入った日々のように、この身に積み重ねた日々は、僕にとって幸せで、大切な“無難”な日々だったのかどうかを。そんな気がしてならない。

 まるで映画の中の物語のそれは、現代の処方箋だった。