ジュード・スチュワート

『Revelations in Air: A Guidebook to Smell』など3冊の著書がある。『アトランティック』『ウォール・ストリート・ジャーナル』『パリス・レヴュー』『クオーツ』『ビリーバー』『ファスト・カンパニー』などの多くの媒体に、デザインや科学や文化に関する記事を寄稿している。

バーチャルリアリティVR:仮想現実)は、いまだに胡散臭さに満ちている。「臭い」の意味合いはさまざまだ。

まず、常識を打ち破る寸前と言われて久しいこのテクノロジーを懲りずに喧伝し、過剰投資に躍起になっている金持ち白人男性たちが鼻につく。提供する側は、VRは共感と包摂性を深めると謳うが、そうした言動の端々に不快な特権意識が漂っている。しかも値段が高すぎるし、今後も上がる一方だろう。

メタ(旧社名はフェイスブック) や暗号資産コミュニティがVRに手を出している状況を考えると、このテクノロジーはいっそうきな臭いものになりそうだ。VRからは「生焼けのにおい」がすると不満を言う者もいる。なにしろ、VRのなかにいる人はみな足がないのだ。

しかし、メタバースの胡散臭さの最大の理由は、「においがない」ことだろう。

においはVRの盲点だ。嗅覚に関する有望なテクノロジーが利用可能になりつつあるのに、ほとんどのVR技術者はにおいがないことに気づいてもいなければ、その影響を気にしてもいない。

嗅覚は、人間の最もリアルな感覚、つまりわたしたちを最も現実に浸らせる感覚だといえる。VRの潜在能力を発揮させたいなら、目を覚まし、その吐き気がするほどの無臭さを嗅いでみるべきだ。

においは言葉よりも優先される

「Smell-O-Vision(スメロビジョン)2.0」[編注:スメロビジョンは映画館で画面に合わせて客席ににおいを送る技術)]と鼻で笑う前に、においを嗅ぐことの効用を理解しよう。

においは、迫りくる脅威を察知するのに役立つ感覚だ。わたしたちは腐ったにおいのする食物は食べないし、少しでも煙やガスのにおいがするところには近づかない。人は、においにすばやく反応し、永久的な判断をくだすよう進化の過程でプログラミングされているのだ。においで脅威を察知する能力は、わたしたちが弱い存在であることの証でもあり、身体と環境の境界をあいまいにするものでもある。こうした要素はすべて、VRの主要目的のひとつである没入感を高める。

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また、においは人の感情に直接的に作用し、各々の人生に体験を刻みこむ。視覚、聴覚、味覚、触覚の場合、刺激は感覚器官から視床に伝わる。視床とは、複雑な処理能力をつかさどる、進化的にいえばのなかでも比較的新しい部位だ。

しかし嗅覚の場合は、ほかの感覚とは異なり、古い脳で処理される。においは視床を迂回し、鼻から嗅球に直接伝わる。嗅球は、メガネの鼻あてが当たるところの裏側に位置する。この、舌のような形をした神経の突起は、脳内でにおいを処理すると同時に、古い脳の領域(とりわけ感情をつかさどる扁桃体と記憶をつかさどる海馬)と密接につながっている。

重要な記憶が形成されるとき、人はたいてい感情を抱く。そのとき何かのにおいを嗅いでいれば、記憶と感情とにおいが融合する。においとともに生々しい記憶が蘇るのはそのためだ。つんと鼻をつく塩素臭がムッとする汗くささにかき消されたら、たちまち高校時代の水泳部のロッカールームに連れ戻される。ローズウォーターと焦げたトーストとタバコの混ざり合った懐かしいにおいに包まれたら、祖母の愛情が思い出される。

脅威を与えないにおいも、意外なところでわたしたちの行動に影響を及ぼしている。人はにおいを手がかりに、自分の免疫システムと強固に結びつきそうなパートナーを選び、強い子孫を残そうとする(あまり理解されていないが、非異性愛者のパートナーを選ぶ際もにおいは大きな役割を果たす)。他人の体臭を嗅ぐだけで、恐怖や幸福や嫌悪といった感情を感じとることもできる。親はわずか10分ほど接しただけで、生まれたばかりのわが子をにおいで判別できるようになる。

においは、親密さを知覚させるものなのだ。その情報は言葉よりも優先される。においを嗅いで人が不快になるのは、大脳辺縁系のボタンがすべてつぶされ、言葉を失ってしまうからだ。視覚が感情的な距離を置いて状況を調査し、制御するのとは異なり、嗅覚は瞬時に作用し、わたしたちから主体性を奪う。こうしたさまざまな要素を活かせば、没入感を高めることができる。

何より重要なのは、すべての感覚が連結し、相互に影響し合っていることだ。嗅覚は「補佐的」な感覚である。必ずしも目立ちはしないが、たいていはレーダーの下で活発に働き、意識的に考えさせることなく簡単に、強い感情や判断力、記憶力を稼働させる。

嗅覚障害を患った人は、ほぼ例外なく、その症状は悲惨だと訴える。新型コロナウイルスに感染して嗅覚障害を発症した人は、抑うつ症や不安症になる割合が通常より高い。味覚はにおいに依存しているため、食べ物に関心をもたなくなり、セックスへの興味も失う。ほとんどの人は時間が経つと嗅覚を取り戻すが、それまでに数カ月かかる場合もある。

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VRとにおいをめぐるパラドックス

においのマジックは、没入感をもたらし、世界を一変させる力をもつ。それはまさに、VRが目指すものと一致する。最近のVRは、別人になったかのような感覚を味わわせることを主な目的としている。それは「具現化の追究」だと、VRを研究しているイェール大学の社会文化人類学助教授リサ・メッセリは言う。「身体とはつまり、信じられないほど単純化された感覚の集合体だといえます」

一方でメッセリはこう警告する。「具現化は、単なる感覚の寄せ集めをはるかに超えるものです」。具現化と共感を混同することは、VR作家が避けるべき過ちではあるが、感覚的な体験がVRの世界に没入させるための強力な手段であることに変わりはない。にもかかわらず、そのなかでも最も効果的な手段を活用している者はほとんどいないのだ。

VRに勝利の甘美な香りを嗅ぎとった数少ない人物のひとりが、嗅覚VRメーカーOVR TechnologyのCEOで創業者のアーロン・ウィズニュースキーだ。ウィズニュースキーの説明は時宜を得たものだ。「コロナにともない嗅覚障害を発症した人の多くが『不安だ。憂鬱だ。すべてが白黒で、誰からも何からも完全に切り離された気がする』と言っています。これは、オンライン空間で長時間過ごす人の経験とそっくりです」。彼は続ける。「わたしたちは、ますますのめり込みつつあるデジタルの世界に嗅覚を実装しない限り、心理的にも社会的にも多くの悪影響に苦しむことになるでしょう」

OVR Technologyの目標は、この感覚の穴を埋めることだという。同社の旗艦製品「ION」は、取り外し可能な詰め替え式カートリッジに入った9種類の化合物を調合して数百種類の香りをつくり出し、Bluetoothを介して利用者の鼻に放出する。ウィズニュースキーいわく、視覚と聴覚に頼り切った現在のVRは「実質的にわたしたちの生活から人間性を排除」しているのだ。

しかし、においをめぐるVRの現状は、あるパラドックスを浮き彫りにする。開発者が慎重にVRににおいを加えなければ、不気味の谷現象、すなわちVR信奉者の言う「没入感の破壊」を増幅させ、人間性をさらに排除してしまう危険性をはらんでいるのだ。

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嗅覚VRテクノロジーの進歩は、1990年代後半から始まった。きっかけは、「人工現実」という言葉の生みの親であるマイロン・クルーガーが、VR医療トレーニングシミュレーションにおけるにおいの開発を目的として、米国防総省の国防高等研究計画局(DARPA)から助成金を受けたことだ。その後、においの精度や、においが鼻の下で自然に拡散する仕組みの再現性は向上したものの、いまでも嗅覚VRテクノロジーには課題が残っている。「ヘッドセットの収容力に限界があるため、装着できるにおいカートリッジの数が限られる」といった基本的な課題ばかりだ。

バーチャルなにおいがつくり出す没入感

しかし、必ずしもリテラリズム(直写主義)を目指す必要はない。VRににおいを加えるには、段階的あるいは簡潔なアプローチをとるのが最も効果的だ。人間は1兆種類ものにおいを嗅ぎ分けられると言われている。そんなわたしたちの鼻をだますのは難しいだろう。

ウィズニュースキーによると、OVRのあるプロジェクトで、苦労して森のにおいを厳密に再現したものの、利用者からの反応はいまいちだった。そこでOVRは、複雑な森のにおいを酢酸イソボルニルという単一の分子で置き換え、利用者に「森っぽさ」を感じさせた。「足りない10~20%の部分を利用者の脳が補ってくれたため、はるかに説得力のある没入体験を実現することができました」とウィズニュースキーは振り返る。

身体に自然に備わっている能力を利用することは、嗅覚VRの研究のなかでも可能性に富むテーマだ。シカゴ大学のHuman-Computer Integration Labの博士論文提出資格者で、研究者でもあるジャス・ブルックスは、顔と鼻の三叉神経に関する有望な研究を行なっている。嗅神経が化学物質(においそのもの)を感知するのに対し、三叉神経はにおいの触感(炭酸のキレや漂白剤の刺激など)や温度変化を感知する。

ブルックスのチームは三叉神経を活用し、VRのなかで温度を錯覚する体験をつくり出した。設定は、冬の嵐の中をトレッキングするというものだ。利用者が山小屋の炉に近づいたら、カイエンペッパーチンキ剤のにおいを鼻の下に漂わせ、三叉神経を刺激して身体が温かくなったように感じさせる。すると突然、吹雪で暖炉の火がかき消され、山小屋のドアが開け放たれる。このときヘッドセットからユーカリオイルを放出させ、利用者に寒いと感じさせる。

ブルックスはまた、ステレオ嗅覚、すなわち人間が左右の鼻孔を使って空間のにおいを検知する仕組みを研究するために「バーチャルなにおい」をつくり出した。三叉神経を電気的に刺激する、つまり偽物のにおいをつくることで、その仕組みを再現できないかと考えたのだ。

ブルックスのチームはこれを検証するため、何もない空の部屋にペパーミントのエッセンシャルオイルを入れたディフューザーを置いた。被験者に目隠しとしてVRヘッドセットを装着させ、ホワイトノイズマシンで雑音を消した状態で、鼻だけを使ってペパーミントオイルのにおいの発生源を見つけるよう指示した。「最初の条件では、三叉神経には刺激を与えず、においそのものだけを頼りに本物の発生源を探してもらいました」とブルックスは説明する。「もうひとつの条件では、装置で三叉神経を刺激しましたが、部屋には何のにおいもありませんでした」

この実験のきわめて不可思議なところは、バーチャルなにおいは、特定の物質の「におい」ではないということだ。実際はまったくの無臭で、三叉神経が働いていると感じることによって、においを嗅いでいると錯覚しているだけなのだ。「鼻を使って何かを見つけるよう、被験者に指示しただけです」とブルックスは言う。「訓練はしていません。しかし、被験者はそれを見つけることができたのです」(ただし、これがわずか4人の被験者で行なった小規模な実験だったことを付け加えておく)。

想像上のにおいをつくり出し、それを使って3D空間をナビゲートする──これ以上に没入感があり、環境に溶けこめる、VR精神に富んだ体験はないだろう。

より豊かな現実を刺激する

ブルックスの実験のような思慮深いバイオハックなら、不気味の谷現象を回避しつつ、VRでにおいの威力を発揮させられる。しかし、現実を再現することだけがVRの目的ではない。それだけではすぐに飽きられてしまうだろう。

VRは、これまでとは違う内部規則や感覚、ロジックをもつ新たな世界を創造することも期待される。「レーザービームやユニコーンは、どんなにおいがするのだろう? わたしたちは、そういう問いに答える発明をしなければなりません」とウィズニュースキーは言う。

ブルックスは、現実の世界でにおいに遭遇したときの没入感や現実が変わるような感覚を強調し、こう語る。「わたしたちの視点や認知感覚は不変ではなく、どのような選択肢があるかによって変わります。においに意識が引きつけられるとき、それはほかのあらゆるものをほとんど忘れてしまうほど、鮮明で刺激的な瞬間なのです」

においは感覚を刺激する銃のようなものであり、取り扱いには慎重を要する。VRににおいが実装されると、気が散ったり、精神的に圧倒されたり、嫌悪感を覚えたりする人もいるだろう。しかし、節度を守り、文脈に合わせ、ほかの感覚とうまく連動させられれば、においで遊ぶことは──においを歪曲することさえも──奇妙な世界をより人間らしいものに変え、新たな環境の探究にわたしたちをいざない、その体験に感情的な力と関心を刻みこむことを可能にする。

それが現実のものであれ、想像上のものであれ、より豊かな現実は、わたしたちの目の前に──あるいは鼻の下に──あるのだ。

WIRED US/Translation by Tomomi Sekine, LIBER/Edit by Michiaki Matsushima)