をれをずブログ

あええええばぶばぶ

はてなブログの設定・カテゴリを一新しました

 チャッス(社会人の挨拶)、をれをです。生活が変わったこともあってか、ここ一ヶ月ほど、久しぶりにたくさん文字を書いています。それに伴って、はてなブログの設定を一新しました。

 プロフィール周りを更新したり、いろいろしましたが、主にPC版のサイドバーが使いやすくなっているかと思います。いろいろ仕掛けたので、散策してもらえると嬉しいです。使いやすくするつもりが、気付いたら日本語版Discordみたいな言葉遣いになっていました。見づらいと思ったら直します。もしくは恥ずかしくなったら。

 スマホ版は無料版だとあまりいろいろいじれないようです。残念。言葉だけ更新しておきました。

 

 また、カテゴリを一新しました。今は無いカテゴリも含め、以下のように改めます。文体と内容の面から、二種類の分類を使って、カテゴリを原則一つずつ付けられればと思います。

 

スタイル・役割による分類

  • 日記/ブログ(旧: 雑記): 日記と、いわゆる伝統的な「ブログ」
  • 紀行(旧: 雑記、外向け)
  • 思考(旧: 思考、外向け): 評論と随想とその他ごちゃまぜ
  • 技術/問題解決(旧: 技術/問題解決)
  • お知らせ: ブログのお知らせなど
  • 未分類(スタイル): 増えたら分類します

 

話題による分類

  • スマブラ/2D格ゲー: その他対戦ゲームの話題も含むかもしれません
  • 音楽(旧: 音楽)
  • 大学
  • バンドリ
  • 日常
  • 人生
  • 未分類(話題): 増えたら(ry

 

 すべて一般的な語に改めようと思ったのですが、「思考」は評論とも随想ともなんとも言えない形式で分類を諦めました。私の考えていることのごった煮だと思ってもらえればと思います。

 

 最後に、冒頭に書いたようにたくさん書きたいものがあるので、近いうちに見せられるかと思います。お楽しみに!

 

 それでは、チャッス!

【nayuta】天使の歌声で紡ぐ優しい歌と物語世界

nayuta

 nayutaという存在を一言で表すならば──少し古くさい表現かもしれないが──彼女の歩んできた道程を祝福して、同人音楽の歌姫という言葉にしたい。十七年前、ニコニコ動画の歌ってみたから始まった彼女の旅は、「青の旅立ち」を迎え、新たなステージへと突入した。十三の透明な少女は、様々な出会いを経て、美しく澄み、優しく、それでいて艶っぽい歌声に成長した。

 さて、便宜上音楽記事風の形式を取ったが、やめだやめ、堅苦しいのは終わりにしよう。俺は素人お前も素人、野生のオタクの話をしよう。野生のオタクが好きなものについて好きに話す、それだけのブログだ。

 五曲選んで話すから、気になったら聞いてくれ。どうでもよかったら今すぐブラウザを閉じてスマホの電源を切って散歩に行け。俺とお前の関係はそれでいい。秋のうちに散歩に行け。散歩しながら聞いてもいい。でも秋の声も聞け。

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白日より淡く / effe × nayuta

 「路地裏の少女と異形頭の住人たち」より、神秘的で少しダークな一曲だ。街灯の真下くらい。

 非常に歪んだ話なので危険を感じたら次の曲まで読み飛ばしてほしいのだが、僕は音楽に救われる歌に辟易している。世界には歌に救われる歌が多すぎる。死んでしまいたいほど荒んだ気分を宥めようとそれらしい曲を流しても、冒頭こそ暗い話をすれど、どいつもこいつも二言目には「僕には歌があった」だの抜かしやがる。

 僕には歌があったとか音楽があったとか、音楽で食ってる人はそりゃそうだろうが、僕ら一般人にとっては歌も音楽も生活のごく一部を彩る飾りに過ぎない。自分を歌った歌ならわかる。そりゃあんたの人生はそうだろうから。でも普遍的な苦しみを切り取った歌ですよという顔をして、二番のサビ前くらいで突然歌に救われないでほしい。僕達に歌はないのだから。それでは僕達には何もないことになってしまう。

 この歌はそれを肯定してくれるようで好きだ。無力な歌、意味のない歌というものの存在を歌の方から認めてくれるようで。

音楽はやまず 観客はいなくて

誰もかもが 過ぎゆく

響くよ 届かない言葉と

意味のない音 わたしの全て

 我々にとって歌とはこんなものなのだ。誰に求められることもなく、誰に届くこともない。呟いては壁に当たって砕けるだけの音。

 

Aorist / ARForest × nayuta

 アルバム通して透明感のあるサウンドで、盛り上がる時のドラムビートきもち〜という感じ。アートコアっていうジャンルらしい。へ〜

 淡々と続く情景描写が美しい。

 

プラネタリウム・グラフィクス / Vivid Lila feat. nayuta

 他のサークルの曲出すのは避けようとしたんだけど、個人的にどうしても外せない曲なのでここに。タイトルからも若干ズレる気がするけど……。いいんだ、それでもいいんだ。Vivid Lilaが一番nayutaの魅力を引き出してると思ってるので強い意志でここに置きます。強いのは思想かもしれない。いいんだ、それでもいいんだ……。

 切なさが駆け抜けていくVivid Lilaらしい一曲。Vivid Lilaはいいぞ。アニソンとか文字読むゲームの曲が好きな人はオススメ。

 

Asphalt

 イントロ好き。えーと、あと?……マ、マグロ?ハ、ハマチとか。好きだよ。

 

ずっと、ふたり。 / dai × nayuta

 必殺技。

 ライブの〆に良さそうだよね。ぼくもこれで〆ていいですか。〆カツオってね。ははっ。は?

人生における責任の所在と、責任を取るということの意味

※9月末に配信で話したことを、改めてまとめた記事

 

 ブルーアーカイブのイベントストーリー「五塵の来降」を読んだ。責任はブルーアーカイブのメインテーマであり、「五塵の来降」でも、責任について様々な考えのキャラクターが登場する。自分が今までぼんやりと考えていたことと大まかに一致していたが、改めて自分の言葉で整理してみる。

 今回の話とは少しズレるため、物語の顛末は読んでもらうとして、自分を考えを記す。


 責任という言葉が少し曖昧だから、「責任がある」と「責任を取る」という2つの言葉に分ける。
 「責任がある」というのは所在の話だ。何か物事が起きたとき、その責任はどこにあるか。原因と言い換えても良い。
 人生における過ち、失敗。そういったもののもとを辿っていくと、自分に責任があるものも幾らかあるが、だいたいの責任は自分じゃないところ、もっと大きな存在、例えば環境、遺伝、運などにある。これはこの世界に生きる以上、どうしようもない事実だ。
 でも、環境も運も責任の取りようがないし、親も兄弟も自分の人生の責任を取ってくれるわけじゃない。どんな結果になろうとも、自分の人生の責任を取れるのは自分だけだ。だから、荒波に揉まれながらも、その中で自分にできることを尽くすしかない。これが「責任を取る」ということだ。

 両者の区別は大事だ。「責任がある」のは自分じゃないことも多い。だから、失敗したときに過剰に自分を責めてはいけない。もちろん、逆に全てを責任転嫁するのも危険だ。
 でも、「責任を取る」のは自分だ。だから、冷静に物事を見て、自分がコントロールできる範囲で力を尽くす。それが自分の人生の責任を取るということだと思う。

AIはつまらないけど、仕事だからしょうがない。

 生成AIの発展が著しい。

 

 これはもう生成AIアンチ(?)の私でも認めざるを得ない。GPT-2以降、あるいは世間的にはGPT-3.5以降かもしれないが、これら新世代の大規模言語モデル、もといクソデカ言語モデルとでも呼ぶべき技術を使った製品が市場を切り開き、我々の仕事を変容させている。どこの学会でもどこの会議でも口を開けばChatGPT、ChatGPT、LLaMA。もううんざりだ。

 

 うんざりだ、が。

 認めざるを得ない。クソデカ言語モデルは言語処理分野における機械翻訳以来の成功だと。

 

 そして彼はもう”成って”しまった。大企業の製品に。

 

 であれば、仕方ない。

 

 

 

 祭りだ〜〜〜〜〜!!!!!!

 

 GitHub Copilotを導入して、半自動でコーディングしてやるぜ〜〜〜〜〜〜!!!!!!!!!

 

 

 うおお!コメントを書いただけでコードを書いてくれる!!!

 

 なんかめんどくさそうな文字列も適当に生成してくれる!正規表現を使った置換なんていらなかったんだ!!!

 

 うおおおおおお!なんかそれらしいAPIキーを生成した!本物か!?!?本物なのか!?!?!?!?!?

 

 生成AI最高!!生成AI最高!!

 

 

 

 

 私は仕事の3割くらいの時間はコーディングしている。その際には、GitHub Copilotという生成AIの支援ツールを使用している。

 AIというのは実に、甘美なところばかり喰らっていく。

 コーディングという営みは実のところ、なんの捻りもない、しかし必要なコードを書いていく作業が大半を占めていたりする。全体の骨組みを作ってから、音楽を聴きながら過去の資料やインターネットからコピペしたり、上の空で文字を打ち込んでこの部分を作っていく作業が私は好きなのだが、GitHub Copilotを導入してからというもの、AIパチンコを打ってチェックするだけの仕事に成り果てた。ヒントを与えるのも候補を選ぶのも頭を使うし、チェック作業も頭を使うから好きじゃない。どちらかといえば好きだが、以前よりもちょっとつまらない時間になった。

 でも私はAIを使う。だって仕事だから。速いのが正義だから。

 仕事なんだからしょうがないね。

 

 

 

 

 

 え? ブログ? ブログでは使わないよ~~~~~~~ん!!!!!趣味だからね!!!!!!!!!!!!

 

活動者支援系のサービスに僕がなぜ嫌悪感を抱くのか②

 ここ数年で急激に増えたクリエイター、活動者支援サービス。なんとなく嫌悪感を抱いていたが、いまいち理由がわからなかった。

 例えば、pixivFANBOX、Fantia、Ci-en、Patreonのような月額会員制サービス。YouTube Liveなどのライブ配信におけるスーパーチャット。BOOTHなどの、購入金額に上乗せして支払うことができるサービス。SNSを見ているとこうしたものがひっきりなしに流れてきて、ときどきもやもやしてしまう。でもその原因がわからない。

 と、ここまで書いて思い出した。前にも同じ題材で記事を書いていたようだ。

 

インターネット投げ銭分化と「支援する」ボタンが好きじゃない

 

 このときの結論は、「投げ銭は原則、価値への対価であるべき。でも、人を支援すると幸せになるのかもね」というものだった。しかし今回は別の点を論じたいと思う。

 前回の結論では、まだすっきりしない点があった。というのは、価値を返せない支援にそこまで強い嫌悪感を感じるのか、という疑問だ。値段に見合った価値を提供できていないという話なら、「しょうもねえもん売ってんなあ、しょうもねえやつ」と思って終わりじゃないだろうか。嫌悪を抱くほどのものだろうか。

 そこで二年越しに思いついたことがある。それは、支援ではなく搾取*1の形になっているものがある、ということだ。

 前回も書いたが、パトロネージュという行為に対しては何ら違和感を抱いていない。現在の支援サービスが旧式のパトロンと違うのは、一人から支援を受けるか、大勢から分割して支援を受けるかどうかだけのはずだ。でも私には、どうにもそういう行為に見えなかった。

 例えばスーパーチャット。人気配信者では一万円以上のスーパーチャットが飛び交うことも少なくない。一万円。赤い枠に文字を出すだけで? 広告でもなく、単なるメッセージに?

 BOOTHなんかだと、購入時に五万円支援するオプションみたいなものが付いてたりする。四千円そこらの商品に付加して払う金額だ。四千円のものを、五万四千円で購入する。見返りはなにもないのに。

 

 「一万円払って手紙を書く」「四千円の商品を五万四千円で買う」という行為はどう考えても普通ではない。何故そんなものが成立するのか。それを解決する鍵は、ファン感情だと思う。

 ファン感情。分解すると、憧れ、好感、尊敬、信奉、恋愛感情、性欲、そんなところだろう。ファンのちょっとした見栄だとか欲望、そういうものを利用した、ある種の弱者からの搾取。夜の世界と似ている。夜の空気と暴走する感情によって、シャンパン一瓶に無限の価値が付与される。そういえば、インターネットではVTuberはオタクのキャバクラだと揶揄されることがある。極端な論だと思うが、振ろうと思えばそうなれるのだとも思う。演者と客の匙加減で、エンタメからキャバクラまでの無限のグラデーションが可能だろう。

 富豪の娯楽ならいい。しかし、只の会社員が、知らない女に月五万円貢いでるとしたら、どう考えても普通ではない。それはホスト問題で「弱者」と表現される人々と変わらないのではないか。活動者支援の中には、活動への支援ではなく、夜の世界と同じ構図になっているものがある。

 

 もちろん、夜の世界を否定するつもりはない。どうお金を使い、あるいはどうお金を受け取ろうが、社会基盤を破壊しない限りは自由であるはずだ。しかし夜の住人ではなくクリエイターや活動者ならば、私は問いたい。

 自分のファンに、そういうお金の使い方をしてほしいのか。何の見返りもなしに五万円渡してほしいのか。相手が富豪ではなく、しがない会社員だったとしても?

*1:搾取と表現したが、これはホストクラブ問題とのアナロジーから取った表現であり、売買契約の一種である

人生不全という病

 電子回路で正帰還というものがある。出力の一部をそのまま入力してしまう回路のことだ。出力が入力に入るので、常に前の瞬間より入力が大きくなり、したがって出力が大きくなり、さらに入力が……というように、針が振り切れてしまうようなシステムになっている。スピーカーの音がマイクに入って起こるハウリングも、正帰還による現象だ。

 実は、世の中のいろいろなところで正帰還が起こっていると思う。人生をとってみても、おそらくそうだ。
 富める者はますます富み、貧しき者は持っている物でさえ取り去られる。2000年前からそう言われている。
 学問のすゝめの冒頭にも「学ぶものは富み貴人となり、愚かな者は貧しい下人となる」というようなことが書かれている。今の時代なら過激な知識人(?)枠のタレントのYouTube切り抜きサムネイルになっていそうな内容だが、悲しいかな、現実にはこの正帰還は世代すら越えて起こる。

 さて、この記事ではそんな現代社会を賢く生きるべく────いや、経済新聞の記事を書きたいわけじゃないんだ。ともかく、正帰還は人生のいたるところに潜んでいる。一旦孤立してしまうと孤立はますます加速し、社会のレールから外れてしまえばどんどん遠くへ流されてしまう。ポジティブな方向ならいいが、ネガティブな方向で正帰還に陥っていることに気付けないと大変なことになる。電子回路において、意図しない正帰還は回路を破壊する原因となる。それは人生でも同じだ。

 人生の針がひとたび悪い方向に振れたとたん、悪いことがどんどん加速していく。そういった状態を私は人生不全と呼んでいる。

 人生は、機能だと思う。
 人生という機能には、人を前へ前へと歩ませてくれる力がある。
 それは認められたいといった社会的な欲求だったり、社会生活で得られる喜びだったりする。あるいは、うざったらしい親の小言や、上司からの圧力、隣人からの冷たい視線かもしれない。でもそういったものが、正も負もひっくるめて、大きな力となる。会社や学校といった社会的な関係と、友人や家族といった広くプライベートも含めた人間関係が、自分に社会的な意味を与え、人生を前に進める意味を与えてくれる。無人島で一人しかいなかったらおしゃれをしないように、それらがなければ人生を前に進める意味がないのだ。
 そして、この機能はゆるやかな正帰還だ。うまく使えば活力ある人生にできるが、電圧が一旦負に振れてしまえば最後、どん底まで落ちていく。引きこもりがその典型だ。ひとたび社会的な繋がりを断ち切ってしまうと、人生を前に進める帰還がなくなり、機能不全に陥ってしまう。これが人生不全という病だ。

 だから歩みを止めてはならないのだ、と思う。歩みを止めれば、一気に向こう岸まで流されてしまう。

 実のところ、私もここ一年半はほとんど引きこもりのようなものだ。一応他人の四分の一くらいは仕事しているが、フルリモートなのもあり、家から出るのは月に一、二度だけ。外出の半分は病院だ。
 簡単に癒せるような病ではないだろう。しかし、そんな私にも此岸に繋ぎ止める鎖があった。日本人全員が持っているものだ。
 それは税金*1。税金を払うためには、全ての障害を掻き分け、仕事しないとね……。

 

 

 

*1:俺が一番困ってるのは年金だから正確には社会保険だけど……。

人生には大切なものがあると思ってるやつが多すぎる

 人生には大切なものがあると思ってるやつが多すぎる。そんなわけがないだろ。

 

 お前は何だ? 崇高な使命でも持って生まれてきたのか? それとも世界を変える力でも持ってるのか?

 違うだろ。俺もお前もただ生まれてきただけの人間で、思考するだけの知能を持った生物に過ぎない。ただの生き物に天命なんてあるわけないだろ。お前は池に浮いてるミジンコに運命づけられた大切なものがあると思うのか? 小学校の池に浮いてるミジンコのバタ足が世界を救うのか?

 俺達も地面に張り付いてるちっぽけな生き物に過ぎないんだよ。生まれながらに持った大切なものなんて、そんなロマンチックな運命はないの。

 

 

 自分の人生には何かかけがえのない大切なものがあって、今の自分はそれを探している最中で、でもなかなか見つからないんだと嘆く。人生の帰路に立っているとき、暇なとき、就職した後、そういう人間をよく見かける。みんな口を揃えて「大切なものを見つけたい」と言う。まるで自分の人生にぴったりはまるピースがあるかのように。

 思い上がった考えだと思う。特別な人間にならそういうこともあるかもしれないが、普通の人間にそんなものあるわけがない。

 

 白馬の王子様は迎えに来ない。そんな運命はない。十二時の鐘が鳴るまでもなく、平凡な毎日は続いていく。でも大切なものがないと人生は苦しい。だからみんな縋るのだと思う。口を開けば彼氏彼女と煩いやつらも、その裏にはそういう漠然とした不安があるのだろう。

 

 人生で大切なものは、えいや、と決めるしかない、と思う。ちっぽけな人間なりに、これと決めたものを大事に抱えて生きていくしかない。

 

 生まれながらに決まった大切なもの、運命じみたものはない。でも十年二十年と生きていれば、大切にしたいものなら意外と身近にあったりする。家族なり友人なり恋人なり、物でも習慣でもいいけれど、それを大事にしてみればいいし、違うなと思ったら、また別のものを大事にしていけばいい。人生でずっと同じものを大事にする必要もない。その時その時大事なものがあれば、それで生きていけるのだから。