特に最近、「メンター」という言葉をよく耳にするようになった。端的に言えば「師匠」を指す言葉だ。

筆者は長州力の書籍(宝島社『長州力 最後の告白』)に関わったばかりなので、彼のメンターとの接し方は記憶に新しく、印象深い。

長州はデビュー直後にカール・ゴッチ道場へ修行に出されるも、すぐにゴッチと衝突。「ゴッチをすごいとは思えなかった」「ゴッチの指導は必要なかった」と回顧する長州は、ゴッチをメンターとして認めなかったことになる。

長州力のメンターは、マサ斎藤である。1982年に長州が“噛ませ犬発言”を放った後、当時の新日本プロレス営業本部長・新間寿は長州をニューヨークへ向かわせた。現地で長州の面倒を見たのはマサだ。それまで押しも押されぬ中堅選手だった長州は、マサに付くことで完全に感性を上書きさせた。
「マサさんといるのが楽しくて楽しくて。そうなると仕事が楽しくなっちゃう。マサさんから吸収することがたくさんありますから。吸収も早かったと思いますよ。ああ、このままでもいいなという感覚がありました。
本当はあのままマサさんと(国外を)回っていたかった」

上記は、2015年に出版された田崎健太著『真説 長州力』での長州の言葉だ。
マサ斎藤は長州、健介、三銃士が慕うメンターだった。こんなに早く逝くなんて思いもしなかった

田崎は内蔵をえぐり取るかのごとく長州の半生に迫っており、その工程でマサの証言は必要不可欠なはずだった。しかし、マサは協力を拒否した。マサが外国人格闘家をブッキングし大失敗したWJのX-1以降、マサと長州の関係は途絶えた。いや、マサのほうから関係を一方的に断絶していた。
著者がマサが協力を拒否した旨を伝えると、長州は寂しそうな顔をしたという。佐々木健介にも拒否をされているが、それを知った際の長州は鼻で笑っただけだった。健介の存在を貶めてるのではなく、マサへの敬愛の深さばかり伝わってくる。

髪を伸ばしてブレイクの階段を上がっていた頃の長州は、全面的にファッションを一新した。革製のウエスタンブーツ、裾が広がったジーンズ、ニューヨーク・ヤンキースのマークが入った野球帽……ほとんどがマサからもらった物だった。

長州力を「ボーイ」呼ばわりしたメンター・マサ斎藤


7月16日、マサ斎藤が75歳でこの世を去った。告別式は22日に行われ、坂口征二や長州力、前田日明、武藤敬司、蝶野正洋、キラー・カーン、佐々木健介、西村修、小島聡、SANADAらが参列した。
マサの棺が運ばれる写真を見てハッとした。
前田日明を挟んで長州力とキラー・カーンがニアミスしている。長州力の対面に佐々木健介がいる。長州との和解を拒んだマサだったが、長州に遺恨ある人物と接触をさせて雪解けの機会を与えていた。

出棺後、長州はマサとの思い出を明かした。
「残念ですよね。随分会ってなかったし、こういう形で……」
「マサさんは、最初は僕のこと『ボーイさん、ボーイさん』って呼んでね。それで、また半年、1年近くアメリカでマサさんに付いて一緒に仕事をしていたんですけど。とにかく、豪快でしたよね。そこまでやるのっていうような感じの、ちょっと怖いことありましたよね。会場の中でも。お客がエキサイトするし、ちょっとヤバイんじゃないかなというところまでやる」

7月23日、長州はブログを更新する。自宅屋上テラスにマサのフィギュアを置き、そのそばには「GO FOR BROKE」と書かれたマサのプロマイドが置いてある。
続けて、告別式帰りに撮った居酒屋でのタイガー服部との写真を公開。同時にこんな言葉を長州は綴った。
「三人で本当に良く飲みましたね。葬儀も終わりました。帰りに正男(服部)ビールでもマサさんと飲むか!」
「正男また三人で飲もうな」

三銃士世代まで降りていったマサ斎藤


マサから影響を受けたのは、長州世代だけではない。マサの2世代下にあたる蝶野正洋は、7月17日放送『バラいろダンディ』(TOKYO MX)で思い出を語っている。

「新日本の中で、猪木さん、坂口さん、マサ斎藤さんは我々にとっては別格だったですよ。だけど、マサさんは2世代上の人ですけど三銃士の我々の世代のところに降りてきてくれて」
「アメリカでは各テリトリーに日本人レスラーがいるわけですよね。その日本人枠の取り合いを、マサさんは絶対譲らない。その辺は徹底してますよね。だから、自分たちがアメリカ行った時に、色んな人種がいるアメリカの中で日本人はどうあるべきかというようなこと、生き方を強く我々に教えてくれました」
「マサさんはアマレスの地盤があって喧嘩が強い。“ポリスマン”って言って、おかしな奴が入ってきたらやりに行くのは各団体でいつも日本人のマサさんでしたから。アメリカのマット界でマサ斎藤と言ったらポリスマンとしての地位をしっかり持ってる人だった。
だから、俺らはマサ斎藤さんの名前でどこへでも行けました」

マサと同様にアメリカマットで活躍した経験を持つ武藤敬司は、マサのことを「一番、話の合う大先輩でした」と語る。
蝶野正洋司会『ワールドプロレスリング オレの激闘! ベスト5』(CS テレ朝チャンネル2)に武藤がゲスト出演した際、彼が“平成の幕開け”として挙げた試合は「M斉藤、橋本 VS 武藤、蝶野」(1990年4月27日 東京ベイNKホール/IWGPタッグ選手権)だった。この4人の中にマサが入っていることが重要だと、武藤&蝶野の2人は大いに説いている。

武藤 これは近代的なプロレスの始まりだったんだよ。それまでは、UWFスタイルがプロレス界にはびこってたんだよ。近代的なプロレスの走りだよ、この試合は。
蝶野 マサさんもアメリカンスタイルだからね。これが長州さんじゃ、こういう試合にならないね。
武藤 ならない、ならない!

三銃士の中でも、武藤と蝶野は海外マットを意識しながらレスラー人生を送ってきた。マサ斎藤が彼らの偉大なサンプルになったのは自然の流れだ。また、もう1人の三銃士である故・橋本真也をマサが叱咤し、厳しくも強く目をかけていた事実は往年のプロレスファンにはお馴染みである。

「GO FOR BROKE」の本当の意味


7月25日発売の「週刊プロレス」が、マサ斎藤の追悼特集を組んだ。

マサ斎藤は長州、健介、三銃士が慕うメンターだった。こんなに早く逝くなんて思いもしなかった

同誌は、マサにとって息子のような存在であり、倫子夫人と共にマサを看取った健介の心情を主に報じている。

マサと健介は共にWJへ参加したものの、志半ばに同団体を脱出。妻・北斗晶と自らの会社を立ち上げた健介は、ファミリーに加わってもらえるようマサに声を掛けた。
「マサさんもその時は一人だったんで。違うことをもしやられていたら誘えなかった。とにかく一緒にやりたかったね……」
「『一緒にやってもらえませんか』って伝えに行ったら、気持ちよく『わかったよ』って言ってくれた。泣いたね……泣いた。マサさんに言ったのは『無理はしないでください』って。来られる時に練習を見てあげてくださいって。『わかったよ』って言いながらチョコチョコ来てくれたけどね。あの時のマサさんの嬉しそうな顔はいまだに忘れられない」

前述のようにファッション面を、そして悪役らしいぶっきらぼうな振る舞いやレスラーとしての心構えを長州はマサから学んでいる。健介もコスチュームや髪型といった部分でマサにアドバイスを受けた。
もちろん、ファイトスタイルもだ。
「新弟子のときに言われたことでいまでも覚えているのは、『健介は俺と一緒で背がないんだから横をガッチリつけろ。どんなにぶん殴られても大丈夫な体を作れ』って」
「俺の身長と体重は普通だったら、(ベイダーやノートンのような対大型外国人選手は)無理だってあきらめてもしょうがないサイズ。でもマサさんにいわれた言葉を信じてやってきて」

マサ斎藤の信条「GO FOR BROKE」を自分なりに感じ、健介はレスラー人生を全うした。この言葉を直訳すると「当たって砕けろ」だが、その裏には深い真意が含まれている。
「マサさんのゴー・フォー・ブロークって体をガンガンに鍛えて、打ち砕いていく体を作ってきてるからね。俺の体が砕けるものかっていう気持ちでやってきた人だから。誰にも負けない自信もあったと思う。砕けてもしょうがないって言えるだけの最善の体を作って、全力でぶつかっていく気持ち。それが本当のゴー・フォー・ブローク」

「GO FOR BROKE」を、そのまま「当たって砕けていい」と捉えてはならない。これは、当たっても砕けない心と体を作り上げた者だけが至る境地なのだ。
最後までパーキンソン病と闘っていたマサ。東京オリンピックが開催される2020年にまでには自力歩行ができる自分になっていたい。その目標に向かって奮闘するマサの姿は、まさしくGO FOR BROKEだった。


筆者は、筋金入りの前田日明ファンだ。そんな私が忘れられないのは、1987年9月11日のナウリーダーVSニューリーダー、5対5イリミネーション・マッチ。
当時の前田は、アントニオ猪木が対戦を避けるほど危険な存在。“最強幻想”はピークにあった。そんな前田に、マサはオリジナルホールドの監獄固めをがっしりと極めた。その瞬間、前田は「うわっ!」と悲鳴が聞こえてきそうなほど悶絶。「頼むからすぐに解いてくれ!」とでも言うような身振り手振りで「ギブアップ」の声を発した。目を疑うような前田日明の姿。新日Uターン時、前田が対藤原喜明以外でギブアップした唯一の試合でありショッキングな場面である。悶絶の前田、技を淡々と掛けるマサ。両者のコントラストは恐怖心を余計に喚起し、いつまで経っても筆者は忘れられない。

「カルピスが大好き」というエピソードと共に、マサはチャーミングな印象も強かった。一方で、ジャンボ鶴田が唯一びびった存在とも囁かれている。「アメリカでやってみたい」と相談した長州に「拳銃、ぶっ放せるか? いざとなったら相手を殺せるか? それができるなら来い」とアドバイスしたこともあったマサ。常軌を逸するほどエネルギッシュだったのだ。
こんなに早く旅立つなんて思いもしなかった。
(寺西ジャジューカ)
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