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なぜ「四戸」の地名はない?

視聴者のみなさんの疑問や質問に答える「ナノコエ」
  • 2024年6月7日

視聴者のみなさんから寄せられた疑問や声に答える企画「ナノコエ」。今回は青森県のある地名に関する疑問です。
※2023年10月20日に放送した番組の一部を抜粋したもので、情報は放送当時のものです。

「戸」がつく地名に「四戸」がないのはなぜ?

徳島県出身の男性から寄せられた声です。

青森の地名って数字が頭に付いてるところが多いけど、「三戸」とか「戸」が付くところは1・2・3・4・・・という順番では並んでいないんですよね。「四戸」がないのはなぜなのでしょうか?

確かに「戸」がつく地名は青森県の「三戸」町や「八戸」市、お隣の岩手県にも「九戸」村など数多く存在しますが、その中に「四戸」の地名は存在しません。

なぜ「四戸」の地名がないのか?
南部藩の歴史に詳しい、八戸市立図書館の学芸員 滝尻侑貴さんに聞きました。

八戸市立図書館 学芸員 滝尻侑貴さん

滝尻さん:
四戸の地域が無くなった理由には「九戸一揆」と呼ばれる戦いが関わってきます。

「四戸」の消失の背景に、秀吉の天下統一!?

滝尻さんによれば、戦国時代末期に当時の天下人であった豊臣秀吉は、東北地方を直轄地とした後、大名に領地を再分配する奥州仕置を行いました。

この時、秀吉の方針に反旗を翻したのが九戸家の九戸政実です。1591年に、周辺の武士らとともに今の岩手県二戸の地で蜂起しました。(九戸一揆)

この九戸一揆で九戸の味方に付いたのが、四戸の殿様、櫛引清長でした。

四戸氏が加わった九戸軍は5千人。対する秀吉側が組んだのは三戸・八戸などを持つ南部家で、総勢6万人の軍でした。半年に渡る戦いの後、九戸軍は鎮圧されました。

戦に負けた九戸政実とともに四戸氏の櫛引清長は処刑。これにより四戸の地名は終わりを迎えたのです。

四戸を支配していた殿様がいなくなり、いなくなった土地は残った者たちが戦利品として受け取るため、八戸と三戸にそれぞれ四戸の領域が与えられました。 

滝尻さん:
歴史の流れの一環という感じです。歴史を見ると納得できるというか、仕方ないかなと思います。

なお、滝尻さんの独自の文献調査によって「四戸」の範囲がわかりました。北は青森県五戸町のあたりから、南は岩手県二戸市までのあたりだったそうです。

「四戸」が復活しそうになったことも…!

実は近年、この「四戸」の地名が復活するチャンスがありました。

それは今から20年ほど前に行われた「平成の大合併」。青森県では67から40に市町村が再編され、南部町、名川町、福地村の3つの町村が合併することになりました。
当時の状況を南部町役場職員 金野貢さんが教えてくれました。

南部町企画財政課 参事 金野貢さん

金野さん:
合併した町村名を決める時に、①南部藩発祥の地に由来する「南部町」、②3町村を流れる馬淵川に由来する「馬淵町」、③無くなってしまった土地の名前に由来する「四戸町」という3つの候補が最後残りました。

ただ最終的に決まったのは「南部町」で、「四戸」の地名は採用されませんでした。

金野さん:
(四戸がないのは)1つのミステリーみたいな感じでいいんじゃないですか。そういうことで南部町に興味を持ってもらえればありがたいと思います。


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青森県 黒石市・むつ市・三戸町で聞いてきた疑問や声に、ジョナゴールドさんと答えました!

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