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塩原明

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
塩原 明
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 長野県松本市
生年月日 (1940-05-30) 1940年5月30日
没年月日 (2023-01-25) 2023年1月25日(82歳没)
身長
体重
174 cm
70 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 内野手
プロ入り 1959年
初出場 1960年
最終出場 1967年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

塩原 明(しおばら あきら、1940年5月30日 - 2023年1月25日[要出典])は、長野県松本市[1]出身のプロ野球選手(内野手)。

来歴

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松商学園高校では1958年夏の甲子園遊撃手として出場[1]。2回戦(初戦)で八女高に敗退。高校同期に三沢今朝治がいた。

1959年読売ジャイアンツへ入団[1]1961年土屋正孝国鉄トレードされると、空いた正二塁手の座を藤本伸らと争って、後半戦を中心に48試合に出場して打率.276を記録。南海ホークスとの対決となった同年の日本シリーズでは、第2戦から先発出場し適時打を放つなど3安打の活躍。シリーズ通算16打数6安打2打点の好成績で優秀選手賞を獲得した[1]。その後も、須藤豊船田和英らとともに二塁を守るがレギュラーの座を掴むまでには至らず、1965年土井正三が入団すると、以降は出場機会を失ってゆき、1967年限りで引退[1]

引退後は、朝日カントリー倶楽部(現:ザ ナショナルカントリー倶楽部 千葉)へ加入[1]。埼玉の名門「嵐山カントリークラブ」の支配人を務めた。

人物

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端整な顔立ちで、スマートな体つきをした男前であった。当時人気があった水原弘を意識して、黒いスーツで上から下まできっちり固めて颯爽とネオン街に出没していたという。ある時、大勢の女性ファンをぞろぞろ引き連れて丸子橋を渡っているところを、監督川上哲治に見つかってしまい、そのせいかにメンバー入りが確実視されていた第1回ベロビーチキャンプ(1961年)の選から漏れてしまった(代わりに西野忠臣が選ばれる)[2]

詳細情報

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年度別打撃成績

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O
P
S
1960 巨人 11 14 14 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 4 0 .000 .000 .000 .000
1961 48 137 127 14 35 4 0 2 45 7 3 1 5 0 4 0 1 11 0 .276 .303 .354 .657
1962 75 189 176 18 32 6 1 3 49 11 2 1 6 0 6 0 1 23 3 .182 .213 .278 .492
1963 82 191 174 12 36 2 2 4 54 17 1 0 10 0 6 0 1 16 3 .207 .238 .310 .548
1964 78 158 147 12 31 4 0 0 35 13 0 0 2 0 7 0 2 14 5 .211 .256 .238 .495
1965 75 114 106 5 26 6 0 1 35 12 0 0 2 1 5 1 0 8 5 .245 .279 .330 .609
1966 58 79 72 4 12 1 1 0 15 7 1 1 1 2 2 0 2 7 1 .167 .211 .208 .419
1967 29 37 36 1 7 1 0 0 8 3 0 0 0 0 1 0 0 6 0 .194 .216 .222 .438
通算:8年 456 919 852 66 179 24 4 10 241 70 7 3 26 3 31 1 7 89 17 .210 .244 .283 .527

表彰

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背番号

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  • 28 (1959年 - 1967年)

脚注

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  1. ^ a b c d e f プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、263ページ
  2. ^ 『巨人軍の男たち』221頁

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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