やっと一つ、越えることができました。
こんな大きすぎる波、いくら何でも無理や〜と思っていました。
例のうちに入居して居座っているAさん。
私は精神がボロボロになり、長男と毎日言い争いをし、何でよりによってあんなやつがうちに、、、と思考回路がそこから抜け出せませんでした。
ここを足がかりに、早く定員いっぱいにして次の手を、と考える長男と、あんな汚いやつ早く出して‼️の感情しかない私と、折り合うわけがありません。
出せたら私の勝ちで、出せなかったら負けやと、二者選択の思考しか私にはありませんでした。
絶対追い出してやる、と思ってギャンギャンお題目をあげていました。
しかし、ぶつかってもぶつかっても、長男の強い意志にはね返されるのです。
おかんは何もせんでいいから、おかんがあいつのことを大嫌いなのはわかってるから、あいつのことはおれが全部するから、おかんはもう好きなことをしていていいから、と言われてもなお、私の家にあんな臭くて汚くて、平気で盗み食いや立ちションするようなやつがいるなんて許せない‼️という感情から抜け出せませんでした。
まるでぐるぐるサーキットのように、怒りと憎しみの感情の回路を回り続けているようでした。
もうおかんの家じゃないから、ここはグループホームという施設やから、といくら長男に説明されても、私の心の底では今もなお、ここは私の家や、という感覚がなくなりませんでした。
そりゃ、一気になくなるのは無理というものです。
ついこの間まで、家族で住んでいたのです。
自分の家だと思うから、浮浪者のようなやつがいると思うだけで気が狂うのです。
もう自分の家ではない、施設として提供したのだ、会社に提供したのだ、と頭で分かっていても、どうしても感情でわからない未練のような感覚は、おそらくやりやすい、穏やかな方が入居してきたのでは、いつまでたっても私の中からなくならなかったでしょう。
その意味では、その未練の感覚をなくすには、Aは、爆弾級に最適な人物でした。
自分の家を、障がい者グループホームへと変身を遂げたかつての我が家、として第三者の目で見るためには、本当に本当にこれ以上ないくらいの、超ド級に最適な人物でした。
そのことに昨日の晩、しんしんとお題目をあげていてはっきりと気づきました。
ご本尊さまは何という最適な人を送り込んでくれたのでしょう。
荒っぽすぎます〜と思ったが、それくらいでないと私の「自分の家」感覚は、いつまでたってもなくならなかったのではないか、と思います。
やっとやっと、彼がうちに来た意味がわかりました。
本当に苦しかったです。
私は今はもう、長男の言ってくれる通り、ホームには必要最低限の仕事しか関わっていません。
ほとんど全て長男がまかなっています。
大変じゃないの?長男さん大丈夫?と言われるが、全然平気そうである。
一昨日はAがびしょ濡れになって帰ってきた、というので何で?雨でも降ったっけ?と聞くと、おもらし‼️と面白そうに言う。
「リハビリパンツが吸収しきれませんでした❗️」と、Aのモノマネをしながら皆を笑わす。
それで電車に乗れたんかと聞くと、またしても「あ、それは大丈夫でした❗️」の
モノマネで、みな大爆笑。
それでそのあとどうしたの❗️と聞く私に、長男は余裕でそんなもん、洗面所で洗わせたよ、と楽しそうに言うのです。
どうしてこう楽しめるんでしょう、、、
私ならきっと、洗いながらきゃー嫌だ嫌だと思っていたことでしょう。
我が子ながら、つくづくすごいなと思います。
昨日は、晩ごはんのあと、映画鑑賞会をしたそうです。
Aは何を勘違いしたか、お菓子食べ放題だと、とても楽しみにしていたそうです。
カールをあっという間に平らげ、コーラを一気飲みしたそうです。
楽しそうで、もう本当に、私の出番はありません。
先日の中秋の名月の晩、次男は窓からベッドの布団に月が映っていた、と感慨深げに話しました。
なんて素敵な話でしょう。
なんて素敵なグループホームでしょう。
あいつを出せたら私の勝ちで、出せなければ負けだという狭い視野にとらわれ続けていた私には、とてもできないような素敵なグループホームができあがっていたのです。
おバカな私にも、ようやくわかりました。
新人間革命にも書いてあります。
「自分の境界が変われば、自然に周囲も変わっていく。それが依正不ニの原理です。幸せの大宮殿はあなた自身の胸中にある。その扉を開く鍵が信心です」
とてもとても腑に落ちました。
先日長男が言いました。
あいつがおかんに謝りたいて言うてたで、と。
え⁉️
依正不ニて、不思議ですね。