はてなキーワード: 洋楽とは
https://www.youtube.com/watch?v=Mp4yubWB8QM
カバーバージョンも好きだけど、こっちの方が悲壮感というかどこか物悲しい雰囲気があって聞き入ってしまう
なんとなくドラマのオープニング主題歌とかに起用されたらカッコよさそう
曲尺も短いし気づいたら一日で100回くらいリピート再生してる時もあった
https://www.youtube.com/watch?v=zILmrAJgzSc&loop=0
連続殺人鬼が女装しながら局部丸出しで被害者からはぎ取った皮で作ったドレスをまとってトリップしてるシーン
おぞましいシーンなはずなのに、穏やかな曲調も相まって不思議と見入ってしまった
ちなみに馬に別れを告げることはヒンドゥー教の聖典の一つにおいては身体的制限からの解放を意味するらしい
https://www.youtube.com/watch?v=zk8YTQtbwQ8&loop=0
この内容がひとつの当事者の声として、実際に関係者に届いてほしいのか、
それとも自分の心情を吐き出す場所がほしいだけなのかはわからないが、
書かないと、どうにかなってしまいそうなので書く。
彼女の訃報を知ってから半日経つが、率直に言ってかなり精神的にまいってしまっている。
普段は物事に対して必要以上に感傷的になったり、映画などを見ても大泣きしたりはしないタイプの人間なのだけれど、
このあまりにも唐突で受け入れがたいニュースに触れてからというものの、
仕事や大学の授業が終わり一人になると、納得できない気持ちや言葉がどんどん頭の中をめぐって、
私生活に特別な不満もなく、心身ともに健康に日々を過ごしていた自分でさえこうなるのだから、
希死念慮を抱えて生きるような人々にとって、著名人の自殺報道がどれだけ影響を持ちうるだろうか、ということも考えてしまう。
自分が彼女に心酔する大ファンだったかと言うと、多分そうではない。
ただ、家で一人作業している時に流すiTunesのプレイリストの数%は彼女の曲であり、
人生で彼女の曲を聞いた時間を一つにつなげると、大抵の友人や家族と過ごした時間よりよっぽど長いのではないと思う。
彼女の楽曲は、巷で「生きづらさ」として語られるような感情をベースにしたものが多くて、
それが彼女の内なる思いの発露なのか、商業作家としての生存戦略であったのかはわからない。
彼女に対しての感情は同年代ならきっと抱くのだろう「共感」とはすこし違っていて、
突出した作家性で、歌声で、演奏で、唯一無二の音楽を聞かせてくれる存在だった。
記憶にすがるように罰が下るのを待っていたように
僕が僕自身をこの部屋に閉じ込めていた
という歌詞だ。鬱屈して閉じこもる心を「罰が下るのを待つ」と表現する感性。
彼女にとって自分の内面とは、けして外界とのつながりを断つための境界や手段ではなく、
それはまるで彼女の内側に広がる「世界」であり、それを統べる神様とさえ繋がる場所だとでもいうような、
強烈な自意識のあり様、彼女の作家性の一端に触れた時は、まさに殴られたような気分だった。
自分のプレイリストの中には、自分が今まで出会ってきたアーティスト達と並んで、高確率で彼女が入るようになった。
(この曲を含め、彼女の歌詞には「君」や「あなた」という表現がよく出てくるが、
彼女にとってはそれもまた客体化された、向き合うべき自分自身であり「神様」であるように思えてならない)
一度だけライブにも行った。
コロナ禍の中、東京で名古屋まで遠征して、人もまばらな新栄町のライブホールで彼女を見た。
落ち着いた会場の中で見た彼女の印象は、楽曲の持つ強烈な存在感とは裏腹に、
どこか年相応で、満員の観客と向き合うには何とも頼りなく見えた。
路上ライブ時代の楽曲なども含めた弾き語り中心の穏やかなセットリストと、
苛烈さを秘めた内容に対して、いつでも「聞いて下さい」から始まるあまりにも低姿勢で飾らないMC。
大満足と言うよりは、次もまた見に行こう、というような気持ちになったのを覚えている。
あまりリアルタイムでアーティストの動向を追うこともないタイプなので、
彼女の結婚や病気、活動休止といった直近のニュースはまったく知らなかった。
ただ、毎日の在宅デスクワーク、その時の気分で音楽を延々と流す日々のワンシーンに彼女がいる、
好きなアーティストの死に触れることは初めてではない。
1970年代の洋楽もよく聞くので、ルー・リードやデビット・ボウイが死んだ時もショックだった。
ただ、、寂しくはあってもどこかで覚悟していた大御所の死とは違い、
彼女の死に直面して、色々な感情が駆け巡って、最終的にたどり着いたのは「納得がいかない」という思いだった。
音楽の歴史の中で、若くして死ぬ事によって、伝説的に昇華されてしまったようなアーティストはたくさんいるが、
もはやそんな時代ではないと思う。
生み出された作品とその作者の人生や生活は切り離して考えられるべきであって、
劇的な死に方をすることで、楽曲の意味が何らかの方向性を持って印象的に底上げされる、
なんて事は受け入れてはいけないと理性では思っている。
「自死」という究極の自己決定と紐づけた時に、そのありかたが容易く変質してしまう類のものだと個人的には思う。
彼女自身の感性で研ぎ澄まされた強さと繊細さ、息苦しさがたどり着いた結果が「それ」だとしたら。
到底受け入れられない。結びつけてはいけない。
彼女がどんな人生を辿ったとしても、彼女が楽曲に込めた表現の意味は変わらないはずで、
自分にとって、これから先も、生活の一部として聞き続けるであろうたくさんの音楽の一つとして、
年月が移り変わっても、変わらないものとしてありつづけてほしい。
彼女が言葉と歌声と音楽で生み出した、暗くもあたたかい世界は、私自身の居場所でもありました。
自分だけの、二人だけの、生まれながらに全てが正しくて、善であるのだと強く歌ったはずの世界を、
彼女自身が、自ら”指パッチン”で終わらせる対象として塗りつぶしてしまったのではないか。
彼女が歌の中で生み出して、繰り返したモチーフのひとつひとつが、
彼女が選んでしまったかもしれない現実の結末と、それを知った自分自身の類推に過ぎないイメージで上書きされてしまう事があまりも怖くて、
自分はいま、彼女の死を知ってからまだ一度も彼女の楽曲を聞くことが出来ずにいます。
ここまで来てやっと本題です。
今回の「死因非公表」というご遺族の意向による報道内容によって、自分は落とし所を見つけられずにいる。
まず大前提として、著名人の死に当たっては、今回コメントを出した彼女のパートナーを初め、最も近しい人達が、
彼女の死という重大な出来事に対して向き合い、たとえ時間がかかっても心の折り合いをつけていく、
そのための時間は絶対に必要で、「ファンのお気持ち」なんて物とは比べるまでもなく優先すべきで、
ニュースやその視聴者が、それが興味本位であっても切実な悲しみであっても、
彼女の死の原因のあれこれを詮索して、彼らに必要な時間を踏みにじるような事はあってはならないと思う。
その意味において、詳細な死因を公表しない、と決めたご遺族の判断は第一に尊重したい。
ただ、それと同時に、自分を初めとして、彼女の楽曲に日常的に触れてきたファンも、
突然の訃報のショックと抑うつ、行き場のない感情、彼女の楽曲を以前と同じように聞けなくなった辛さを抱えています。
その中で、彼女の死がはたして「自殺」なのか「病死・事故死」だったのかを知ることは、
いや、大きな意味など本当はないのかもしれない。
あるのは、彼女の死が、病死や事故死といった本人の意志によらないものであってほしいという祈り。
でもおそらく報道コメントが暗に示すように、もし彼女が死を選んだという事が真に明らかになったとしたら、
自分の中で、彼女の楽曲に対する「受け入れがたい変化」がより決定的な物になってしまうだけなのかもしれない。
ただ、海や山で誰かが遭難して数ヶ月が経ち、たとえ見つかるのが遺体だとわかっていても、
長い人生の中で避けられない大切な人の喪失を受け入れるにあたって、
その理由や結果を知ることは、たとえ残酷な結論だとわかっていても、必要な過程なのではないでしょうか。
今まさに現在進行系で心の行き場と日々の平穏を失ってしまった自分にとっては、
彼女の死因を知ることが、とても切実な問題であるように思えてならないのです。
自殺報道が最大限の配慮を持ってなされるべきだ、ということももちろん承知しています。
その一方で、ペットロスといった身近な死を乗り越えるためのサポートなども社会課題として捉えられる時代においては、
一定の社会的支持を持つアーティストの死に対して、ファンが重要な事実を知ることも、
私達が「大切な存在の死」という逃れられぬ現実を乗り越えるためには必要な手続きなのではないかという事を、
いままさに行き場のない思いを抱える当事者として切実に感じています。
自分は、彼女の死を知って以来、まだ彼女の曲を一度も聞くことが出来ていません。
いつかまた彼女の曲たちを、これまで同様に、そして私の生活を彩る他の数多のアーティストとも同様に、
自分の人生にとってかけがえのない存在として共に過ごしていく日々がまたいつか来ることを切に願っています。
長くなってしまいましたが、
2ヶ月で5キロ落とした。
フィットボクシングは昔やってたけど音楽が洋楽中心で苦手だったのと判定が厳しくてやめちゃったのよね。
でも最近腹の肉やべー肩こりやべーだったのもあって、なんとなく好きな曲に合わせて適当に腕シュッシュッしてたら数分でしっかり疲れたので続けることにした。
フィットボクシングやリングフィットアドベンチャーは最低でも20分くらいやらないといけないけどこれなら数分で終わるし、事前用意もいらないからやろうと思ったらすぐ出来るのが長続きした原因かも。
ゲームは用意するのが面倒なのよ…。
あと好きな曲でやるからテンション上がるしもうヤダーやめたいーみたいな弱音もあまり無かった。
https://anond.hatelabo.jp/20240906124703
を読んで素晴らしいと思った。
https://www.facebook.com/share/vTdZHBdWZCmb4GMf/?mibextid=WC7FNe
のコメント欄みてたら
"もう少し世代を超えた大物にした方がいいですね。
例えば、自分の地元ジングルはサザンですが、あれは老若男女、邦楽洋楽派を問わず納得出来ると思います。
正直、誰?って感じが。"
"複数ご意見ありますが、誰にでも愛される知っている歌、でないと、数年でオシマイですよね。。。それともお金取ってプロモーション?
ロマンスカー来たら「ロマンスの神様」とかなら、よく理解できますが^_^)
相模大野なら、、、チャゲアスのNO NO ダーリンとかですかねー^_^;
新ユリとか大野駅頭で弾き語りして売れた奥華子さんなんかも、素敵なメロディー多い、地味に色々テーマソングになってますね♪"
とかわけわからんことが書かれる始末。
まず"相模原市出身の老若男女に愛される楽曲を輩出したミュージシャン"が難しいのよ
だいたい[Alexandros]ならCMタイアップもたくさんしてるしガノタならかぼちゃで知ってるじゃない?
うちの会社にいる海外の映画や音楽を好んで視聴する先輩がいちいち他の人の好きなものサゲをしてくるのが、本当にキツい。
「◯◯っていう邦画を観たよ!」という人がいれば「邦画ね〜…邦画ってどれもこれも似たような内容で社会的なメッセージも特にないし…観た方がいい映画もっと他にあるでしょ」みたいなことを言う。
「◯◯っていうアニメを観たよ!」という人がいれば「アニメね〜…海外の◯◯(作品名)とかはアニメだけど絵柄もオタクに媚びてないし、ちゃんと社会問題についても取り入れてるから観てるけど…日本のアニメって絵柄がキモくない?」って言う。
「◯◯ってアーティスト(邦楽)のライブに行ってきたよ!」という人がいれば「邦楽ね〜…最近の邦ロックとか本当に興味もてなくて(笑)日本人って本当に洋楽聴かないよね…恥ずかしい」って言う。
「ジャ◯ーズが好き!」という人がいれば「え!?カッコいい人…いる!?私は◯◯(外国人俳優)くらい身長も高くて顔も良い人じゃないと好きになれないわ(笑)」って言う。
誇張じゃなく、本当にこのまま言う。
友達とか恋人とか家族とか、今後も長い付き合いになるごく親しい人との会話ならまだわかる(わかんないけど)。
職場の休憩時間に数人で雑談してるときにこれされると当たり前だけどシーンって場が凍って「はは…あ、そうなんだね〜…」って周りが大人の対応してその会話は終わり。
ちなみに、私は無趣味人間なので「趣味がないって本当に理解不能(笑)何のために働いてお金稼いでるの?」ってその先輩によく言われるけど、実際自分でもそう思ってるし、みんなみたいに何か好きなものがあればもっと人生が楽しそうだな〜と思ってるので、そこに関してはあんまり腹は立ってない。
でも、先輩と他の人の会話を聞いてるとすごいイライラする。
他の人は先輩が好きなものの話をしていても馬鹿にしたりなんかしないし(当たり前だけど)、なんなら質問を交えたりして会話を膨らませたりしてるのに、先輩は人の好きなものをサゲてばっかり。
自分の好きなものをサゲられているわけじゃなくても、聴いていて不快になる。
先日、先輩が最近観た洋画の話をしていて「◯◯(俳優名)の演技がすごく良くて〜」と先輩が話すので、その場にいた同僚が「どんな人なのか気になる〜!その俳優さんは他にどんな映画に出てるんですか?」って質問したら「え!?◯◯知らない!?◯◯だよ!?…え〜、◯◯知らないのか…(ため息)」ってわざとらしく呆れた顔してて本当に不快だった。
職場にはいろんな趣味を持つ人たちがいて、私のように無趣味な人間からするとみんなそれぞれ好きなものの話をするときは目がキラキラしてて素敵だなぁと思ってる。
それは先輩に対しても同じで「もっとたくさんの人に海外の映画や音楽を視聴してほしい」って熱く語る先輩を見ていると、そんなに好きになれるものがあって羨ましいと心から思う。
一度、先輩の趣味に対して「私、そういうの興味もてないんです」ってはっきり言ってる人を見たことがあるけど、先輩はその人に対して「海外の映画や音楽は社会問題をテーマにしているものが多くあって、そういうものを知ることは大切なこと。興味を持った方がいいと思う」って答えてて。
先輩の言ってることは正論だなと思ったけど、でもやっぱり他の人の「好き」を馬鹿にするような人間の言葉は全然心に響かなくて、私は先輩のすすめてくる映画や音楽は一切視聴しないと心に決めてる。
「もっとたくさんの人に海外の映画や音楽を視聴してほしい」と先輩は言うけれど、少なくとも先輩のせいで1人は視聴者減ってるよ。
渋谷系とは、1990年代初頭にJ-POPシーンで流行した音楽のジャンルで、
洋楽との溝を感じさせないポップ・ミュージックを特徴としています。
渋谷系は、若者カルチャーをリードしてきた渋谷で誕生した音楽ジャンルで、
当時、「渋谷系」サウンドは“オシャレな音楽”とみられ、多くのバンドが異常なまでのセールスをあげていました。
渋谷系御三家としてピチカート・ファイヴ、フリッパーズ・ギター、オリジナル・ラヴが挙げられることもあります。
恋とマシンガン ~Young, Alive, in Love~
東京は夜の七時
朝日のあたる道
ハミングがきこえる
STAR FRUITS SURF RIDER.
今夜はブギー・バック smooth rap (feat.小沢 健二)
※googleAIによる概要
元増田は音楽趣味とオタク拗らせた怪文書であって両方を趣味として持ってるからこそって感じなのに解像度が低い
挙げられてるMVが中高学生の頃って言ってるから二十代後半って推察できるし(ここはフェイクくせーなと思うが)
音楽を少し高尚な趣味においてアニソンと洋楽を分けて聴いてたから拒否反応起こしてるんだろうなって感じと、あとはオタク分野がマイナー性を失って居場所を奪われた苦しみのことを言っているんだろうなって内容で表現規制がどうのなんて一言も言ってない
自分が愛好していたものが大衆に奪われた苦しみに言及している文章に関係ない表現規制派の老害って誹りがつくのって、まさにオタクが中身のないスカスカの共同体になったことを表してるなって思う
その記事を読むかぎりでは、つまり「洋楽離れ」というのは「洋楽から邦楽に人が流れた」って話じゃなくて、
その記事は「日本の洋楽離れ」を大前提として鵜呑みにしてるので役に立たないよ。
ヒットチャートにアメリカの楽曲が入ってないから日本は特異!っていうのは何十年も前からそういう傾向じゃん、って話なので元増田は。