自民党安倍派会長代理の下村博文・前政調会長は、安倍晋三元首相の死去を受けて岸田文雄首相が安倍派を軽視すれば、保守層からの支持を失う可能性があると指摘した。また、安倍氏の国葬を行うべきだと主張した。 …
安倍元首相が街頭演説を行った奈良の駅前には花を手向ける人が途切れないという。バイデン大統領に独・ショルツ首相、仏・マクロン大統領など世界中のリーダーからも悼む声が上がっている。史上最長の通算8年8か月、政権を率いた安倍氏は外交に力を入れたため海外での知名度も抜群だった 写真/朝日新聞社 安倍元首相の銃撃事件は、多くの人に衝撃を与えた。銃弾に倒れた後、病院で懸命の蘇生治療が続けられたが、7月8日午後5時3分に死亡が確認された。卑劣な暴力によって、政治家の生命が絶たれてしまっていいわけがない。喪心より哀悼の意を表し、お悔やみ申し上げます。 涙で目を腫らした岸田文雄首相や、かつて安倍氏と激しい論戦を交わした各党党首も一致して「暴力を許さない」とコメントを発表した。最終日まで選挙活動続行を決めた茂木敏充自民党幹事長を含め、民主主義が暴力によって歪められてはいけないという姿勢が広く示されたことは、歴
「芥川賞作家」であり「東京都知事」 昭和から今日に至るまで、カリスマ性と強力なリーダーシップで一時代を築いた石原慎太郎が亡くなった。享年89。 時には歯に衣着せぬ発言で物議を醸し、作家、政治家として、国をもリードした行動や言動は枚挙にいとまがない。 石原は、何を目指し、何を遺したのか。 (成澤良、西澤友陽) 「太陽の季節」で一世を風靡 石原のデビューは鮮烈だった。一橋大学在学中の昭和31年、小説「太陽の季節」で芥川賞を受賞。若者の性と暴力を描き、既存の価値観を打ち破るかのような作品に「太陽族」という流行語も生まれ、一躍、文壇の寵児となった。 石原は、昭和の大スター、裕次郎の2歳違いの兄であり、自民党の元幹事長・伸晃らの父親で、一族は「石原ファミリー」と呼ばれた。 息子たちが語る晩年 家族によると、石原は3年前に膵臓がんを患い、去年10月には腹膜にがんが転移。闘病生活を送る中でも、1日1時間
作曲家のすぎやまこういち氏が9月30日に敗血症性ショックのため亡くなっていたことが昨日7日、わかった。人気ゲーム「ドラゴンクエスト」シリーズの音楽をはじめ、「学生街の喫茶店」や「亜麻色の髪の乙女」「恋のフーガ」「花の首飾り」などのヒット曲も手掛け、ゲーム音楽や歌謡史に大きな功績を残した。 だが、すぎやま氏といえば、そうした輝かしい功績の一方で、歴史修正主義などの極右思想の持ち主としても活発に発言をおこなってきた人物でもある。すぎやま氏はのちに「LGBT に生産性がない」という差別論文で大きな批判を浴びる自民党の杉田水脈・衆院議員の同趣旨の性差別発言に「ありがたい」「正論ですよ」などと同調したり、「慰安婦は強制ではない」「南京虐殺はなかった」といった主張をおこなってきた(詳しくは過去記事参照→https://lite-ra.com/2021/07/post-5961.html)。 本サイトで
野村克也氏の訃報を受け、同氏がヤクルト監督時代にエースとして活躍した楽天の石井一久GM(46)が11日、都内で取材に応じた。 「今朝、球団から聞いた。僕がプロ野球選手になって一番お世話になった人で、野球の原点を教えていただいた。すごくショックです」と、神妙な面持ちで話した。 訃報を知ってから「自分は恩返しができただろうか」と振り返り、在りし日の恩師の姿に思いをはせた。思い出されたのは、ヤクルト入団2年目のシーズン。試合で打たれた後、監督室に呼び出され「お前、俺をなめているのか!」と目の前でイスを蹴り飛ばされた。普段は温厚で動きも静かな監督の強い言葉と鬼の形相は今でも忘れられない。「僕自身、本当に頑張らないといけないんだ、とあらためて感じさせられた。これからも一生忘れられないでしょう」と、振り返った。 現在の楽天GM職へ背中を押してくれたのも、野村氏だった。球場で会うたびに「お前もどこかのタ
野村克也さん(享年84)の訃報を受けて、お笑いコンビ、サンドウィッチマンの伊達みきお(45)が11日、ブログを更新。伊達は仙台出身で楽天ファンとして知られており、元楽天監督である野村さんを悼んだ。 ブログは「野村監督」というタイトル。伊達は「イーグルスの監督をされている時は、我々がご挨拶に行くと『おぉ漫才屋か…』とニコニコ声を掛けて下さった。モノマネ番組では、僕らが野村監督と沙知代夫人のモノマネをして、御本人登場で出演して頂いた」と思い出を振り返った。 「昨年も、僕等が司会をさせて頂いたTBSのスポーツバラエティ番組にも元気に出演して頂いた。お会いしたのはその時が最後になるのかな」と最後の姿を回顧。「スポーツ番組でもバラエティでも、雰囲気によって場に合わせたコメントを言う……あんなにメディアから愛された監督は他にいないです」と野村さんの人柄をつづった。
野村氏が急逝 阪神・藤川が追悼「人間教育をして頂いた」同郷の糸井は「伝説の人」 2枚 プロ野球の南海、ヤクルト、阪神、楽天で監督を務めた野村克也氏が11日、午前3時30分に死去した。84歳だった。楽天が野村氏の死因について「虚血性心不全」だったと発表した。 阪神では野村氏と縁の深い選手が追悼。野村監督時代にドラフト1位で入団した藤川は「人間教育をしっかりして頂いたんで。野球選手である前にいち社会人だというふうに、すごくいい指導をして頂いた」と感謝した。突然の訃報にショックもにじませ、「すごく残念ですけどね。米国行く時も電話で話をさせて頂いたりとか、そうですね。言葉がないというか。そういう状態ですね」とした。 監督、選手の間柄でなくなっても関係があり「間接的に連絡取ったりとかね。代理人が団さんなので。そんなに遠い存在ではなく、相談させてもらったり、カツノリさんを通してだったりとか、というとこ
野村夫妻を襲った「虚血性心不全」とは 冬に多発 生田悦子さんらも急逝 拡大 プロ野球の南海、ヤクルト、阪神、楽天で監督を務めた野村克也氏が11日午前3時30分に死去した。84歳。楽天が野村氏の死因について「虚血性心不全」だったと発表した。 「虚血性心不全」は17年12月に亡くなった沙知代夫人と同じ死因だった。 虚血性心不全は、心筋梗塞や動脈硬化などにより心臓の冠動脈が詰まったりしたために、心臓の筋肉に酸素や栄養が行き届かなくなり、心筋が動かなくなる状態。冬に多いとされる。 2016年にはタレントの前田健さんや、芸能リポーターの武藤まき子さんが、18年には女優の生田悦子さんが急逝している。 続きを見る
ヤクルト・高津監督は号泣 野村氏の急逝に絶句「見てもらいたかった…」 2枚 プロ野球の南海、ヤクルト、阪神、楽天で監督を務めた野村克也氏が11日、午前3時30分に死去した。84歳だった。死因は「虚血性心不全」だった。 訃報を受け、ヤクルトの高津臣吾監督が対応。突然の訃報に号泣した。野村氏のもとで抑えとして活躍した高津監督は「言葉にならない。入団当時から一から十までプロの難しさを…教わりました」と話し始めたところで、涙をこらえきれなくなった。今季から監督に就任し、「見てもらいたかったですし、まだまだ教わることもたくさんありました。最近、会えば、『抑えにして悪かったな』と言われてきました。楽しい時も素晴らしい時もつらいことも、経験できたのがすべての思い出です」と振り返った。 今は「普通の会話がしたい」と語った高津監督。恩師に誓うように、「ヤクルトを愛してくれた人。監督の思いに応えられるように素
巨人・長嶋茂雄終身名誉監督(83)が11日、84歳で急逝した野村克也さんを悼み、球団を通じてコメントを発表した。同年代としてともにプロ野球の歴史を作り上げてきた仲。野村さんがヤクルト、阪神で監督を務めた際には数多の名勝負が繰り広げられた。コメント全文は以下の通り。 驚いた。テレビのニュース速報で、訃報を知ったが、一瞬、言葉を失った。なぜならノムさんとは、3週間前に行われた「金田さんのお別れの会」で顔を合わせたばかりだったから。久しぶりに二人で2、3分間ぐらい会話しただろうか。その時のノムさんの言葉が忘れられない。「おい、頑張ってるか。オレはまだ生きてるぞ。まだまだ頑張るぞ」。だから私も「お互い頑張ろう」と話したばかりだった。 まだ現役だった1963年、ノムさん、稲尾、王の4人でイタリア、フランスなどを巡るヨーロッパ旅行に出掛けたことがある。観光地を回りながら、色々な話をして、とても楽しかっ
ヤクルトのOBで、昨季までヘッドコーチを務めていた宮本慎也(49)=野球評論家=が11日、沖縄・浦添のヤクルトキャンプを訪問。現役時代の恩師で、この日未明に亡くなった野村克也さん(享年84)の訃報に接し、取材に応じた。 「お元気そうだったので、信じられないという気持ちですね。(自身にとっては)大恩人です。いまこの場にいられること自体が、野村監督のおかげ以外の何物でもないです」 1990-98年までヤクルトの監督を務めた野村氏。95年にヤクルトに入団した宮本氏にとってはまさに恩師で「厳しい中に優しさがあるなと。本当は優しい方。こと野球に関しては厳しくされて、最初はついていくのに精いっぱいでした」と振り返った。
横浜(現DeNA)、近鉄でリリーフとして活躍した盛田幸妃氏が16日、横浜市内の自宅で死去した。45歳だった。詳細は明らかにされていないが、ここ数年はがんで入退院を繰り返すなど、闘病生活が続いていた。盛田氏は現役時代に脳腫瘍の摘出手術を受けながら復活し「奇跡のリリーバー」と呼ばれた。 「奇跡のリリーバー」が、永遠の眠りについた。16日午前、横浜市内の自宅で家族にみとられたという。ここ数年は、がんで入退院を繰り返す闘病生活が続いていた。 病気と闘った人生だった。近鉄時代の98年に脳腫瘍の摘出手術を受けた。復帰は危ぶまれていたが、懸命のリハビリで克服して翌99年に1軍マウンドに戻った。01年にはファン投票で球宴に選出されて「カムバック賞」を受け、リーグ優勝にも貢献した。右足首に後遺症がある中、02年で引退するまで投げ続けた。 引退後は評論家として活躍するも、がんで闘病生活を余儀なくされた。度重な
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