東京で生まれ、父はホーリネス教会派のクリスチャンだった[1]。栃木県宇都宮市で育つ。旧制宇都宮中学校(現栃木県立宇都宮高等学校)を経て、東京商科大学(現・一橋大学)予科に進学[1]。高島善哉ゼミ出身[1]。 1943年に大学を卒業後、短期現役士官として海軍に入隊[1][2]。小島直記らは同期生にあたる。主計大尉として終戦を迎える。 戦後は三菱化成(現三菱ケミカルホールディングス)に入社したがやがて退社[1]。また久保栄に師事する[3]。 その後、高島善哉の紹介で日本評論社編集部に入るが、『日本評論』の連載が連合国軍最高司令官総司令部のプレスコードに反し退社した[1]。以後文筆に専念する[3]。 中野重治の一文に感激し日本共産党に入党したがのち脱党した[4]。 1956年[3]、桶谷秀昭らと『典型』を刊行する。のち、1964年から個人雑誌『無名鬼』を刊行する[3]。『無名鬼』には山中智恵子が