要約すると遊佐長教の息子。父親の死後に安見宗房のサポートを得て政長流畠山氏を盛り立てていくが、最終的には下克上を行った。なお、江戸時代の『寛政重修諸家譜』では織田信長との戦いで死んだことになっていたが、最近では豊臣秀吉の紀州攻めの頃にまだ生存していたことが分かってきている。
『勧心寺文書』によると、永禄7年(1565年)に17歳ということなので、天文17年(1548年)の生まれとされる。天文20年(1551年)に父・遊佐長教が暗殺されるとしばらくは、遊佐太藤とそれを支える安見宗房が家を盛り立て、やがて元服し、遊佐教(元服したころの諱はただの「教」)となった彼が守護代家を継いだ。
主君・畠山高政の元、永禄5年(1562年)の久米田の戦いで三好実休の軍を破る。永禄の変の後は三好三人衆らと戦っていった。
軍記『足利季世記』によると永禄12年(1569年)に畠山高政を追放し、畠山秋高を擁立した、とされるが、これは史実からは確認できない。少なくとも畠山秋高は安見宗房が越後上杉氏に送った書状で永禄の変の時点で当主であることが確認されている。さらに足利義昭の上洛の際には『言継卿記』で兄弟そろって出仕している(なお、畠山高政は『高野山過去帳』によって亡くなった日付のみわかっているが、以後どうなったかはよくわからない)。
以後、畠山秋高が三好義継とともに足利義昭に河内を任され(あれほど言われているのに『細川両家記』ソースで本を書く他分野の研究者も多いが)、三好三人衆や阿波三好家と戦っていった。
『多聞院日記』によると、元亀3年(1572年)に畠山秋高の暗殺に失敗して蓄電し、足利義昭のとりなしで元鞘に収まった、らしい(あくまでも、らしい)。『顕如上人御書札案留』によると、足利義昭と織田信長の対立で、天正元年(1573年)に足利義昭方についた。『勧心寺文書』や『諸寺過去帳』によれば、この年の6月25日に畠山秋高を暗殺したようだ。
以後、江戸時代の『寛政重修諸家譜』によって織田信長の攻撃で天正2年(1574年)に死んだことになっていた。しかし、平成に元号がなってから畠山史研究が進み、すでに全く異なる人生を歩んだことが明らかになっている。
畠山秋高の死後、守護代家の遊佐氏と関わりの薄い内衆の保田知宗らは織田信長側に移った。そして天正3年(1575年)4月に河内国は織田信長に制圧された。以後、遊佐信教は『吉川家文書』1-492号(なお、弓倉弘年は493号とミスタイプしている)によると畿内に潜伏して足利義昭方として何やら工作している。この文書は天正3年に比定されていたが、最初の方の内容から確実に足利義昭が既に鞆に移った天正4年(1576年)以降であり、伝承よりも長く生存していたのである。
至其表、 公儀被移御座候、仍為達上聞、遊佐差下候、就其右馬頭(毛利輝元)以一札申候、可然様被相談、此刻急度可被遂御入洛事、肝要候、然者此表之儀、紀州三ヶ寺申騒、不可有油断候、随而甲越両国同入魂事候、於様子者、河内入道可申分候、当家之儀、別而御馳走憑入候、恐々謹言、
さらに2017年に『金剛峯寺惣分沙汰中一臈坊黒印状』が発見されたことで『生駒文書』の高野山がらみが真作だとわかり、生存年代がさらに後ろ倒された。それらによると、天正12年(1584年)の小牧長久手の戦いの際に徳川方として紀伊で活動しており、旧畠山家臣団の一員として挙兵したようだ。しかし、その後どうなったかはよくわからず、紀伊も豊臣秀吉に制圧されている。
子孫とされる人々が御三家のうち紀州藩に仕えた。『紀州家中系譜並ニ親類書書上』を提出した彼らによると、遊佐信教の子息・遊佐高教は元亀2年(1573年)に生まれ、豊臣秀吉に仕えて内里と青谷を安堵されたらしい。一応同時代史料の『鹿苑日記』にも鶴峰宗松とこの遊佐高教と思われる人物との交流が散見される。
『秀頼御上洛之次第』に彼と思われる遊佐新左衛門が登場し、徳川方の史料にも使者としてやってきた彼が何度か出てくる。『本光国師日記』によると慶長17年(1612年)の12月28日に金地院崇伝がかつての畠山氏の寺である真観寺を検地したいということでそのつてを頼り、結果として豊臣方の片桐且元に取り次いだのも彼であるようだ。
以後は『紀州家中系譜並ニ親類書書上』が伝え、大坂の陣ののち浪人となり、江(崇源院)に三女が奉仕していた縁故で旗本になろうとするが断られ、徳川忠長に仕えた後また浪人になり、寛永15年(1638年)に亡くなったそうだ。さらにその子息の遊佐長正が徳川頼宣に仕えた。ちなみに彼は実子ではなく垣屋秀政から迎えた養子らしい。
ちなみに『源畠山吉益系図』では遊佐信教の欄に嫡男が遊佐新左衛門尊教と記載されており、音は似ているが実際のところ諱は地味に不明である。
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||||
戦国群雄伝(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||||||
武将風雲録(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | 教養 | - | ||||||
覇王伝 | 采配 | 58 | 戦闘 | 53 | 智謀 | 59 | 政治 | 51 | 野望 | 75 | ||||||
天翔記 | 戦才 | 106(B) | 智才 | 122(A) | 政才 | 102(B) | 魅力 | 53 | 野望 | 75 | ||||||
将星録 | 戦闘 | 47 | 智謀 | 71 | 政治 | 48 | ||||||||||
烈風伝 | 采配 | 44 | 戦闘 | 47 | 智謀 | 67 | 政治 | 45 | ||||||||
嵐世記 | 采配 | 38 | 智謀 | 56 | 政治 | 33 | 野望 | 82 | ||||||||
蒼天録 | 統率 | 47 | 知略 | 72 | 政治 | 38 | ||||||||||
天下創世 | 統率 | 46 | 知略 | 68 | 政治 | 38 | 教養 | 59 | ||||||||
革新 | 統率 | 52 | 武勇 | 51 | 知略 | 76 | 政治 | 43 | ||||||||
天道 | 統率 | 52 | 武勇 | 51 | 知略 | 76 | 政治 | 43 | ||||||||
創造 | 統率 | 50 | 武勇 | 55 | 知略 | 74 | 政治 | 46 | ||||||||
大志 | 統率 | 49 | 武勇 | 54 | 知略 | 73 | 内政 | 47 | 外政 | 60 |
割ともう古典もいいとこなのだが、研究者ですら読んだ形跡がない人もかなりいるので挙げておく。
さらっと遊佐信教の生存した時間が伸びたことになった論考が、以下に載っている。
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最終更新:2024/10/15(火) 03:00
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