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東谷暁による「事件」に対する解釈論

政府はますます大きくなっている;それなのに何故問題を解決できないのか

最近は財政赤字など怖くないという人が多くなり、政府はますます巨大化している。日本は公務員が少ないのに削減しろとの声が高かった1990年代や、構造改革を断行した小泉改革はいったい何だったんだろうと思えてくる。しかし、その一方で政府はますます無力になっているとの指摘もある。大きくなっても非効率だというのだ。かつて政府が小さくて効率的といわれたアメリカを中心に、その現実を見てみることにしよう。


経済誌ジ・エコノミスト9月23日付に「政府はかつてないほど大きくなったが、かつてないほど役立たずになっている」という刺激的なタイトルの記事が掲載されている。「1960年には先進国全体の政府支出は対GDPで30%だったが、いまや40%を超えている」。政府がそれほど大きいのに、どういうわけか受けるサービスがどんどん少なく質が低くなっていると感じるのはなぜだろうか。

まずは、この記事の概要を読んでみよう。「その理由は国家がのろまのリヴァイアサン(怪物)に変貌してしまったということだ。この数十年間、先進国の政府は支出金の急速な増額を実現してきたが、それに見合った増税が行われていない。そのため再配分が政府の他の機能を圧迫して、その結果、公共サービスと官僚機構のクオリティが下落している。この現象は、裕福な国の人びとが政治家をほとんど信用していないことの理由なのかもしれない」。

ちょっと分かりにくいが、要するに、政府が使うお金が対GDP比でどんどん増えているのに、それに見合うだけの税金をちゃんと取っていないから、結果として政府のサービスや役人たちの質が悪くなっているというわけである。しかし、これは分かったようで分からない話だ。GDP比で増えているのが本当なら、公共サービスは向上していると感じるのではないのか。また支出と税金のバランスが崩れているだけのことなら、政府が使うお金を減らすか、税金を増やして、バランスを取り戻せばいいだけのことではないのか。したがって、同記事がいいたいのは、バランスを崩したことで、ほかの部分に支障が出ているということなのだろう。

グラフ①公共サービスの仕組みより給付金に傾斜

ともかく、同誌が掲げているグラフを見ながら、現象も解決もそれほど単純ではない理由を考えていくことにしよう。グラフ①アメリカの公共サービスに対する政府支出の割合と、年金とその他福祉への支出の割合の推移が分かる。これで明らかなのは、公共サービスを生み出すために支出するのではなく、ダイレクトにお金をばらまく傾向が進行しているということである。たとえば、コロナ禍のさいに公共的な感染阻止の仕組みを作るのではなくて、補助金をばらまいて飲食店や家計に、そのときだけ窮地を回避させるわけで、当面は喜ばれるが、そのお金はかなりの部分が退蔵(いわゆるタンス貯金に)されるし、将来的な感染阻止システムの強化につながるわけではないのである。

グラフ②社会保障と給付はどれくらい増えたか


政府が社会保障と給付金について、OECD全体で見たのがグラフ②で、このグラフには年金や税額控除だけでなく、健康保険の割引、住宅支援などの「現物給付」も含まれている。OECD平均では1980年の対GDPで14%から、2022年には21%にまで上昇している。

グラフ③アメリカは将来の補償にもかなり支出している


さらには、将来的な補償を考慮すると、潜在的な支出が炙りだされる。カリフォルニア大学サンディエゴ校のジェームズ・ハミルトンによれば、米国連邦政府は国民の銀行預金、医療費、住宅ローンについて(もしものことがあった場合の)補償を約束しており、これがかなりの額になる。さらに将来の退職者に対する補償もあり、それらを合わせると総額で米国GDPの約6倍に相当するという。それがグラフ③である。もちろん、すぐに顕在化するものではないが、確率論的に計算された数値だろうから、けっして無視できない数字だろう。

高齢者向けの給付金については、ヨーロッパの場合などは民間の年金制度がないため、ほとんどを公共的な制度で支えてきた。OECDにおいては、広義の公的給付支出の約50%から33%が、裕福な上位20%の世帯に集中して給付されていると推定されている。アメリカ政府の場合も、所得上位20%の世帯に合計で4000億ドルが支給されている。これは国防予算の約半分に相当している。アメリカにおいて2019年には所得上位1%の世帯が、1世帯あたり社会保障やメディケアのかたちで平均約1万6000ドルの給付を受けたという。これらは「権利」として制度化されているのだろうが、政策の本来の目的からすれば無駄な支出というしかない。

グラフ④所得の低い層への給付が増加し続けている


労働年齢人口に対する給付も高齢者以上の速いペースで増加している。1979年には、アメリカの所得下位20%の人びとは、所得の約33%に相当する給付を受けていた。これが2010年代の後半になると約70%にまで上昇しており、グラフ④に見られるように、コロナ・パンデミックの時期には90%を超えている。つまり、収入のほとんどが政府の給付金なのだ。また、1970年代と比べてフードスタンプ(食料の補助制度)を受給している人は、16人に1人から8人に1人と2倍に膨れ上がった。

同誌によれば、近年のアメリカの政治家は、増税をほとんどせずに追加支出できるかのように振舞うことを好んでいるという。これは他の先進諸国、たとえば日本でも同じことだ。2022年までに、豊かな国では個人所得課税ベースにかんする改革の約85%が税額を減少させることに関係しており、増税させるものはわずか15%にすぎない。その間を少しでも埋めるための「金策」が、イレギュラーな手法で行われてきた。同誌のチームによれば2022年アメリカの連邦、州、地方政府の予算は、罰金、料金、追徴金、和解金などから約800億ドルが調達されているが、これは対GDP比で、1960年代、70年代の約3倍にも膨れ上がっているという。

グラフ⑤研究開発への支出が減少し続けている


いまや政府から巨大なプロジェクトを遂行する能力など失われたかのようにすら見える。グラフ⑤が示すように、OECD公共投資は大幅に減少し、政府は研究開発部門を削減している。20世紀を通じてアメリカ政府は科学と研究開発に資金と知力を投入したし、また、1950年代と60年代に、ドイツと日本は焼け野原になった国土に何百万戸もの公営住宅と何百マイルもの道路や鉄道を建設したが、「いまの政治家たちはただその日を乗り切ることだけを望んでいる」という。マニュフェストを分析した研究によれば、OECD諸国の政党マニュフェストは、1980年代初頭に比べて経済成長に重きを置く傾向が半分程度にまで増えているという。

これまでもジ・エコノミストは、「大きな政府」が批判されたにもかかわらず政府は大きくなっているという特集を、何度か掲載してきた。このレポートが示すデータはきわめて興味深いが、論調としてはかなりの矛盾が感じられる。いっぽうでミクロ経済学的な視点から政策の欠陥を突きながら、そうしたミクロ的欠陥をものともしなかったマクロ経済学的政策が華やなりし時代を懐かしんでいる。一般的にいって、戦後の復興期においては戦勝国も敗戦国も、親ケインズ主義的な公共投資による政策が急増したが、1980年代にインフレが昂進すると、今度はミクロ的構造改革が正しいことであるかのようにに宣伝される時代をわれわれは経験している。

ジ・エコノミストより:大きくなってもその割には無能な現代国家


アメリカは不況もあったが常に他国に比べて優越していたので、いまのような事態になると、ミクロとマクロが整理されないまま混在した議論が生まれてくるのかもしれない。しかし、ヨーロッパや日本においては戦後の復興・成長期が終わってしまっても、膨らんだ福祉政策を維持させるために、基本的には財政累積赤字を膨張させることしか有効ではなかった。たとえばインフレターゲット政策やマイナス金利といった金融政策は、スタートしたさいには若干の効果があるように見えるが、長期的には続かなかった。野放図な財政支出でも、それはある種の経済学が指摘するように、国家が発行するマネーならば持続可能なのだろうか。それとも、結局は旧ヨーロッパ世界の国々が示してくれているように、長期的には衰退に収斂されるものなのだろうか。

いずれにせよ、われわれには、マクロ経済学ミクロ経済学を、矛盾承知で組み合わせて経済を運転するしかない。そのいっぽうで「ただその日を乗り切ることだけを望んでいる」政治家たちが、自分たちの再選に役立つ「新しい理論」を探し回っている。彼らは国家の大問題についての解決策を提示したつもりになっても、中長期的にはかえって状況を悪くすることに「貢献」するだろう。いまのところマクロ経済政策は財政と金融の微妙な組み合わせで行うしかないのだが、それを受け入れるにはある種の諦念が必要だ。それに我慢できない人は、しばしば何かすごい解決策が発見されたとの異端説にはまり、日本経済の奇跡的なよみがえりと輝かしい未来を描いてしまうのである。