張 議潮(ちょう ぎちょう、799年 - 872年)は、西域の十余州を収復した唐の名将。張義潮・張義朝とも。沙州敦煌県の人。 安史の乱の後、吐蕃が乱に乗じて河西回廊、隴右を攻め占領した。建中2年(781年)に沙州も吐蕃の手に落ちた。 * 大中2年(848年)、組織した軍を率いて、吐蕃を駆逐し、瓜州・沙州などの地を収復した。並びに等を使者として長安に派遣しこのことを朝廷に報告させた。 * 大中4年(850年)、西州(前庭)を収復した。 * 大中5年(851年)、沙州(敦煌)・瓜州(晋昌)・伊州(伊吾)・西州(前庭)・河州(枹罕)・甘州(張掖)・粛州(酒泉)・蘭州(五泉)・鄯州(湟水)・廓州(広威)・岷州(溢楽)などの十一州を収復した後、唐の宣宗は、詔して、張議潮に沙州防禦使に任じた。同年の冬、兄の張議潭を派遣して、河西十一州を献じて、唐の版図にし、唐は沙州に帰義軍を置き、張議潮を帰義軍節度使に任じた。 * 咸通2年(861年)、涼州(姑臧)を収復した。 * 咸通8年(867年)、入朝し、河西十一州節度管内観察処置等使・金紫光禄大夫・検校吏部尚書・御史大夫・河西万戸侯に封じられた。 * 咸通13年(872年)、長安で逝去した。

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  • 張 議潮(ちょう ぎちょう、799年 - 872年)は、西域の十余州を収復した唐の名将。張義潮・張義朝とも。沙州敦煌県の人。 安史の乱の後、吐蕃が乱に乗じて河西回廊、隴右を攻め占領した。建中2年(781年)に沙州も吐蕃の手に落ちた。 * 大中2年(848年)、組織した軍を率いて、吐蕃を駆逐し、瓜州・沙州などの地を収復した。並びに等を使者として長安に派遣しこのことを朝廷に報告させた。 * 大中4年(850年)、西州(前庭)を収復した。 * 大中5年(851年)、沙州(敦煌)・瓜州(晋昌)・伊州(伊吾)・西州(前庭)・河州(枹罕)・甘州(張掖)・粛州(酒泉)・蘭州(五泉)・鄯州(湟水)・廓州(広威)・岷州(溢楽)などの十一州を収復した後、唐の宣宗は、詔して、張議潮に沙州防禦使に任じた。同年の冬、兄の張議潭を派遣して、河西十一州を献じて、唐の版図にし、唐は沙州に帰義軍を置き、張議潮を帰義軍節度使に任じた。 * 咸通2年(861年)、涼州(姑臧)を収復した。 * 咸通8年(867年)、入朝し、河西十一州節度管内観察処置等使・金紫光禄大夫・検校吏部尚書・御史大夫・河西万戸侯に封じられた。 * 咸通13年(872年)、長安で逝去した。 (ja)
  • 張 議潮(ちょう ぎちょう、799年 - 872年)は、西域の十余州を収復した唐の名将。張義潮・張義朝とも。沙州敦煌県の人。 安史の乱の後、吐蕃が乱に乗じて河西回廊、隴右を攻め占領した。建中2年(781年)に沙州も吐蕃の手に落ちた。 * 大中2年(848年)、組織した軍を率いて、吐蕃を駆逐し、瓜州・沙州などの地を収復した。並びに等を使者として長安に派遣しこのことを朝廷に報告させた。 * 大中4年(850年)、西州(前庭)を収復した。 * 大中5年(851年)、沙州(敦煌)・瓜州(晋昌)・伊州(伊吾)・西州(前庭)・河州(枹罕)・甘州(張掖)・粛州(酒泉)・蘭州(五泉)・鄯州(湟水)・廓州(広威)・岷州(溢楽)などの十一州を収復した後、唐の宣宗は、詔して、張議潮に沙州防禦使に任じた。同年の冬、兄の張議潭を派遣して、河西十一州を献じて、唐の版図にし、唐は沙州に帰義軍を置き、張議潮を帰義軍節度使に任じた。 * 咸通2年(861年)、涼州(姑臧)を収復した。 * 咸通8年(867年)、入朝し、河西十一州節度管内観察処置等使・金紫光禄大夫・検校吏部尚書・御史大夫・河西万戸侯に封じられた。 * 咸通13年(872年)、長安で逝去した。 (ja)
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  • 張 議潮(ちょう ぎちょう、799年 - 872年)は、西域の十余州を収復した唐の名将。張義潮・張義朝とも。沙州敦煌県の人。 安史の乱の後、吐蕃が乱に乗じて河西回廊、隴右を攻め占領した。建中2年(781年)に沙州も吐蕃の手に落ちた。 * 大中2年(848年)、組織した軍を率いて、吐蕃を駆逐し、瓜州・沙州などの地を収復した。並びに等を使者として長安に派遣しこのことを朝廷に報告させた。 * 大中4年(850年)、西州(前庭)を収復した。 * 大中5年(851年)、沙州(敦煌)・瓜州(晋昌)・伊州(伊吾)・西州(前庭)・河州(枹罕)・甘州(張掖)・粛州(酒泉)・蘭州(五泉)・鄯州(湟水)・廓州(広威)・岷州(溢楽)などの十一州を収復した後、唐の宣宗は、詔して、張議潮に沙州防禦使に任じた。同年の冬、兄の張議潭を派遣して、河西十一州を献じて、唐の版図にし、唐は沙州に帰義軍を置き、張議潮を帰義軍節度使に任じた。 * 咸通2年(861年)、涼州(姑臧)を収復した。 * 咸通8年(867年)、入朝し、河西十一州節度管内観察処置等使・金紫光禄大夫・検校吏部尚書・御史大夫・河西万戸侯に封じられた。 * 咸通13年(872年)、長安で逝去した。 (ja)
  • 張 議潮(ちょう ぎちょう、799年 - 872年)は、西域の十余州を収復した唐の名将。張義潮・張義朝とも。沙州敦煌県の人。 安史の乱の後、吐蕃が乱に乗じて河西回廊、隴右を攻め占領した。建中2年(781年)に沙州も吐蕃の手に落ちた。 * 大中2年(848年)、組織した軍を率いて、吐蕃を駆逐し、瓜州・沙州などの地を収復した。並びに等を使者として長安に派遣しこのことを朝廷に報告させた。 * 大中4年(850年)、西州(前庭)を収復した。 * 大中5年(851年)、沙州(敦煌)・瓜州(晋昌)・伊州(伊吾)・西州(前庭)・河州(枹罕)・甘州(張掖)・粛州(酒泉)・蘭州(五泉)・鄯州(湟水)・廓州(広威)・岷州(溢楽)などの十一州を収復した後、唐の宣宗は、詔して、張議潮に沙州防禦使に任じた。同年の冬、兄の張議潭を派遣して、河西十一州を献じて、唐の版図にし、唐は沙州に帰義軍を置き、張議潮を帰義軍節度使に任じた。 * 咸通2年(861年)、涼州(姑臧)を収復した。 * 咸通8年(867年)、入朝し、河西十一州節度管内観察処置等使・金紫光禄大夫・検校吏部尚書・御史大夫・河西万戸侯に封じられた。 * 咸通13年(872年)、長安で逝去した。 (ja)
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  • 張議潮 (ja)
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