「フランソワ2世 (ブルターニュ公)」の版間の差分
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{{基礎情報 皇族・貴族 |
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| 人名 = フランソワ2世 |
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⚫ | '''フランソワ2世'''(François II de Bretagne, [[ブルトン語]]:Frañsez II, [[1433年]][[6月23日]] - [[1488年]][[9月9日]])は、[[ブルターニュ公]](在位 |
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| 各国語表記 = François II |
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| 在位 = [[1458年]] - [[1488年]] |
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| 子女 = ジャン<br>[[アンヌ・ド・ブルターニュ|アンヌ]]<br>イザボー |
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| 家名 = [[ドルー家]] |
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| 父親 = エタンプ伯[[リシャール・デタンプ|リシャール]] |
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⚫ | '''フランソワ2世'''(François II de Bretagne, [[ブルトン語]]:Frañsez II, [[1433年]][[6月23日]] - [[1488年]][[9月9日]])は、[[ブルターニュ公国|ブルターニュ]][[ブルターニュ君主一覧|公]](在位:[[1458年]] - 1488年)。ブルターニュ系[[ドルー家]]最後の男系男子で、ブルターニュ公[[ジャン4世 (ブルターニュ公)|ジャン4世(5世)]]の孫である。父エタンプ伯[[リシャール・デタンプ|リシャール]]はブルターニュ公[[ジャン5世 (ブルターニュ公)|ジャン5世(6世)]]および[[アルテュール3世 (ブルターニュ公)|アルテュール3世]](アルテュール・ド・リッシュモン)の弟であり、母[[マルグリット・ドルレアン (1406-1466)|マルグリット・ドルレアン]]は[[オルレアン公]][[ルイ・ド・ヴァロワ (オルレアン公)|ルイ・ド・ヴァロワ]]の娘で[[シャルル・ド・ヴァロワ (オルレアン公)|シャルル・ド・ヴァロワ]]の妹である。 |
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== 生涯 == |
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1458年、嫡子のなかった伯父アルテュール3世の死後に公位を継いだ。父リシャールは[[1438年]]、フランソワの幼少時にすでに死去していた。公位は[[1442年]]から従兄の[[フランソワ1世 (ブルターニュ公)|フランソワ1世]]・[[ピエール2世 (ブルターニュ公)|ピエール2世]]兄弟、伯父アルテュール3世に継承されていたが、いずれも男子が無かったため傍流だったフランソワ2世に受け継がれていった<ref>エチュヴェリー、P237。</ref><ref name="エチュヴェリー">エチュヴェリー、P309。</ref>。 |
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諸侯への干渉と中央集権化を目論む[[フランス王国|フランス]]王[[ルイ11世 (フランス王)|ルイ11世]]と対立、[[1465年]]4月にルイ11世の弟である[[ベリー公]][[シャルル・ド・ヴァロワ (ベリー公)|シャルル]]およびシャロレー伯[[シャルル (ブルゴーニュ公)|シャルル]](後の[[ブルゴーニュ公国|ブルゴーニュ]]公シャルル軽率公)と{{仮リンク|公益同盟|fr|Ligue du Bien public}}を結成したが、外交で同盟を切り崩され同年12月にルイ11世と和睦した。しかし[[1467年]]に再びベリー公・ブルゴーニュ公と謀り西から[[ノルマンディー]]へ侵攻したが、ルイ11世の反撃で翌[[1468年]]9月にまたもや和睦を結び、2度の反乱でフランソワ2世は得る所が無かった<ref>ロイル、P281 - P282、佐藤、P171、P174 - P176</ref>。 |
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1488年にフランソワ2世が落馬事故で急死した時、残された子供は2番目の妻との間の娘で当時10歳の[[アンヌ・ド・ブルターニュ|アンヌ]]のみであり、彼女がブルターニュ公位を継いだ。アンヌは[[シャルル8世 (フランス王)|シャルル8世]]、のち[[ルイ12世 (フランス王)|ルイ12世]](オルレアン公シャルルの息子)の2代の[[フランス王国|フランス]]王の妃となった。 |
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だが同年に[[イングランド王国|イングランド]]王[[エドワード4世 (イングランド王)|エドワード4世]]と同盟を結んだ上でベリー公・ブルゴーニュ公とも手を取り、[[1471年]]に3度目の反乱に踏み切った。この時も[[常備軍]]を所有していたルイ11世が優位を保ち、翌[[1472年]]5月にベリー公が急死して反乱軍の一角が崩れ、10月にルイ11世と和睦した。ブルゴーニュ公は戦闘を継続したが[[1477年]]の[[ナンシーの戦い]]で敗死、エドワード4世も[[1475年]]にルイ11世と{{仮リンク|ピキニー条約|en|Treaty of Picquigny}}を締結、反乱は平定されフランス王権は強化された<ref name="エチュヴェリー">エチュヴェリー、P309。</ref><ref>ロイル、P282 - P284、P331 - P338、佐藤、P177 - P179、P183 - P185。</ref>。 |
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この間、フランソワ2世は[[薔薇戦争]]でイングランドから亡命していた[[ヘンリー7世 (イングランド王)|ヘンリー・テューダー]](後のヘンリー7世)と叔父の[[ジャスパー・テューダー (ベッドフォード公)|ジャスパー・テューダー]]を[[1471年]]から[[ヴァンヌ]]に匿い、[[1476年]]にエドワード4世が2人の引き渡しを要求すると一時従おうとしたが撤回、ヴァンヌはヘンリー・テューダーを中心とする反[[ヨーク朝]]の拠点と化したが、[[1484年]]にフランソワ2世は精神障害に侵されたため、ヘンリー・テューダーはフランスへ移動した。翌[[1485年]]にイングランドへ上陸し[[ボズワースの戦い]]でイングランド王[[リチャード3世 (イングランド王)|リチャード3世]]を討ち取ったヘンリー・テューダーは国王ヘンリー7世に即位、[[テューダー朝]]を開くことになる<ref>ロイル、P371、P381 - P383、佐藤、P177 - P179、P183 - P185。</ref>。 |
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[[1483年]]にルイ11世が亡くなり息子[[シャルル8世 (フランス王)|シャルル8世]]が即位すると、摂政で姉[[アンヌ・ド・ボージュー]]と[[ブルボン公]][[ピエール2世 (ブルボン公)|ピエール2世]]夫妻がルイ11世の政策を引き継いで諸侯への干渉を企て、ブルターニュの貴族達と接触し、息子の無いフランソワ2世の死後シャルル8世をブルターニュ公とする彼等の支持を取り付けた。反発したフランソワ2世は[[1486年]]に2番目の妻との間の長女[[アンヌ・ド・ブルターニュ|アンヌ]]を後継者に定め、オルレアン公[[ルイ12世 (フランス王)|ルイ2世]](後のフランス王ルイ12世)らと結んで王家に4度目の反乱を起こした<ref>佐藤、P193 - P195。</ref>。 |
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{{仮リンク|道化戦争|en|Mad War}}と呼ばれる反乱は2年間続いたが、1488年[[7月28日]]の{{仮リンク|サン=トーバン=デュ=コルミエの戦い (1488年)|en|Battle of Saint-Aubin-du-Cormier (1488)|label=サン=トーバン=デュ=コルミエの戦い}}でブルターニュ軍は王軍に敗北し、ブルターニュも制圧され、[[8月20日]]にフランソワ2世はシャルル8世の許可なしに娘たちを結婚させてはならないとするヴェルジェ条約を受け入れざるを得なかった。戦後フランソワ2世は乗馬に熱中したが、9月9日に落馬事故で死亡した。55歳だった。当時11歳のアンヌがブルターニュ公位を継いだが、[[1491年]]にシャルル8世、後にルイ12世の2代のフランス王の妃となったことで、ブルターニュは事実上王家が手中に収めていった<ref>佐藤、P195 - P200。</ref>。 |
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== 子女 == |
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* ジャン(1463年6月29日 - 8月25日) - 早世 |
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マルグリットとの死別後にフォワ伯[[ガストン4世 (フォワ伯)|ガストン4世]]と[[ナバラ王国|ナバラ]]女王[[レオノール (ナバラ女王)|レオノール]]の娘[[マルグリット・ド・フォワ]](? - 1486年)と再婚し、2女をもうけた。 |
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* [[アンヌ・ド・ブルターニュ|アンヌ]](1477年 - 1514年) - [[シャルル8世 (フランス王)|シャルル8世]]、[[ルイ12世 (フランス王)|ルイ2世]]の妃。ブルターニュ女公 |
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* イザボー(1478年 - 1490年) |
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ヴィルキエ男爵夫人アントワネット・ド・マニュレ([[アニェス・ソレル]]死後に[[シャルル7世 (フランス王)|シャルル7世]]の愛妾となった女性)を[[1461年]]以降愛妾とし、彼女との間に[[マシュクール]]領主フランソワ・ダヴォグールを含む5子を儲けた<ref name="エチュヴェリー"></ref>。 |
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* フランソワ・ダヴォグール(1462年 - 1510年) |
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* アントワーヌ(1463年 - 1481年) |
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* フランソワ(1465年) |
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* フランソワ(1466年) |
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* フランソワーズ(1470年 - 1500年) |
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== 脚注 == |
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== 参考文献 == |
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* [[ジャン=ポール・エチュヴェリー]]著、[[大谷暢順]]訳『百年戦争とリッシュモン大元帥』[[河出書房新社]]、1991年。 |
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* [[トレヴァー・ロイル]]著、[[陶山昇平]]訳『薔薇戦争新史』[[彩流社]]、2014年。 |
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* [[佐藤賢一]]『ヴァロワ朝 <small>フランス王朝史2</small>』[[講談社]]([[講談社現代新書]])、2014年。 |
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[[en:Francis II, Duke of Brittany]] |
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[[eo:Francisko la 2-a (Bretonio)]] |
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[[es:Francisco II de Bretaña]] |
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[[fr:François II de Bretagne]] |
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[[hu:II. Ferenc breton herceg]] |
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[[id:Francis II, Adipati Bretagne]] |
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[[it:Francesco II di Bretagna]] |
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[[nl:Frans II van Bretagne]] |
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[[pl:Franciszek II Bretoński]] |
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[[pt:Francisco II, Duque da Bretanha]] |
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[[ru:Франциск II (герцог Бретани)]] |
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[[sv:Frans II av Bretagne]] |
2024年8月17日 (土) 13:08時点における最新版
フランソワ2世 François II | |
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ブルターニュ公 | |
ナント大聖堂にあるフランソワ2世の墓碑 | |
在位 | 1458年 - 1488年 |
出生 |
1433年6月23日 ブルターニュ公国、クリソン |
死去 |
1488年9月9日(55歳没) ブルターニュ公国、クエロン |
埋葬 | ブルターニュ公国、ナント、ナント大聖堂 |
配偶者 | マルグリット・ド・ブルターニュ |
マルグリット・ド・フォワ | |
子女 |
ジャン アンヌ イザボー |
家名 | ドルー家 |
父親 | エタンプ伯リシャール |
母親 | マルグリット・ドルレアン |
フランソワ2世(François II de Bretagne, ブルトン語:Frañsez II, 1433年6月23日 - 1488年9月9日)は、ブルターニュ公(在位:1458年 - 1488年)。ブルターニュ系ドルー家最後の男系男子で、ブルターニュ公ジャン4世(5世)の孫である。父エタンプ伯リシャールはブルターニュ公ジャン5世(6世)およびアルテュール3世(アルテュール・ド・リッシュモン)の弟であり、母マルグリット・ドルレアンはオルレアン公ルイ・ド・ヴァロワの娘でシャルル・ド・ヴァロワの妹である。
生涯
[編集]1458年、嫡子のなかった伯父アルテュール3世の死後に公位を継いだ。父リシャールは1438年、フランソワの幼少時にすでに死去していた。公位は1442年から従兄のフランソワ1世・ピエール2世兄弟、伯父アルテュール3世に継承されていたが、いずれも男子が無かったため傍流だったフランソワ2世に受け継がれていった[1][2]。
諸侯への干渉と中央集権化を目論むフランス王ルイ11世と対立、1465年4月にルイ11世の弟であるベリー公シャルルおよびシャロレー伯シャルル(後のブルゴーニュ公シャルル軽率公)と公益同盟を結成したが、外交で同盟を切り崩され同年12月にルイ11世と和睦した。しかし1467年に再びベリー公・ブルゴーニュ公と謀り西からノルマンディーへ侵攻したが、ルイ11世の反撃で翌1468年9月にまたもや和睦を結び、2度の反乱でフランソワ2世は得る所が無かった[3]。
だが同年にイングランド王エドワード4世と同盟を結んだ上でベリー公・ブルゴーニュ公とも手を取り、1471年に3度目の反乱に踏み切った。この時も常備軍を所有していたルイ11世が優位を保ち、翌1472年5月にベリー公が急死して反乱軍の一角が崩れ、10月にルイ11世と和睦した。ブルゴーニュ公は戦闘を継続したが1477年のナンシーの戦いで敗死、エドワード4世も1475年にルイ11世とピキニー条約を締結、反乱は平定されフランス王権は強化された[2][4]。
この間、フランソワ2世は薔薇戦争でイングランドから亡命していたヘンリー・テューダー(後のヘンリー7世)と叔父のジャスパー・テューダーを1471年からヴァンヌに匿い、1476年にエドワード4世が2人の引き渡しを要求すると一時従おうとしたが撤回、ヴァンヌはヘンリー・テューダーを中心とする反ヨーク朝の拠点と化したが、1484年にフランソワ2世は精神障害に侵されたため、ヘンリー・テューダーはフランスへ移動した。翌1485年にイングランドへ上陸しボズワースの戦いでイングランド王リチャード3世を討ち取ったヘンリー・テューダーは国王ヘンリー7世に即位、テューダー朝を開くことになる[5]。
1483年にルイ11世が亡くなり息子シャルル8世が即位すると、摂政で姉アンヌ・ド・ボージューとブルボン公ピエール2世夫妻がルイ11世の政策を引き継いで諸侯への干渉を企て、ブルターニュの貴族達と接触し、息子の無いフランソワ2世の死後シャルル8世をブルターニュ公とする彼等の支持を取り付けた。反発したフランソワ2世は1486年に2番目の妻との間の長女アンヌを後継者に定め、オルレアン公ルイ2世(後のフランス王ルイ12世)らと結んで王家に4度目の反乱を起こした[6]。
道化戦争と呼ばれる反乱は2年間続いたが、1488年7月28日のサン=トーバン=デュ=コルミエの戦いでブルターニュ軍は王軍に敗北し、ブルターニュも制圧され、8月20日にフランソワ2世はシャルル8世の許可なしに娘たちを結婚させてはならないとするヴェルジェ条約を受け入れざるを得なかった。戦後フランソワ2世は乗馬に熱中したが、9月9日に落馬事故で死亡した。55歳だった。当時11歳のアンヌがブルターニュ公位を継いだが、1491年にシャルル8世、後にルイ12世の2代のフランス王の妃となったことで、ブルターニュは事実上王家が手中に収めていった[7]。
子女
[編集]最初に従兄フランソワ1世(ジャン5世(6世)の息子)とイザベラ・ステュアート(スコットランド王ジェームズ1世の次女でルイ11世の最初の妃マーガレットの妹)の娘マルグリット・ド・ブルターニュ(1443年 - 1469年)と結婚し、1男をもうけた。
- ジャン(1463年6月29日 - 8月25日) - 早世
マルグリットとの死別後にフォワ伯ガストン4世とナバラ女王レオノールの娘マルグリット・ド・フォワ(? - 1486年)と再婚し、2女をもうけた。
ヴィルキエ男爵夫人アントワネット・ド・マニュレ(アニェス・ソレル死後にシャルル7世の愛妾となった女性)を1461年以降愛妾とし、彼女との間にマシュクール領主フランソワ・ダヴォグールを含む5子を儲けた[2]。
- フランソワ・ダヴォグール(1462年 - 1510年)
- アントワーヌ(1463年 - 1481年)
- フランソワ(1465年)
- フランソワ(1466年)
- フランソワーズ(1470年 - 1500年)
脚注
[編集]参考文献
[編集]- ジャン=ポール・エチュヴェリー著、大谷暢順訳『百年戦争とリッシュモン大元帥』河出書房新社、1991年。
- トレヴァー・ロイル著、陶山昇平訳『薔薇戦争新史』彩流社、2014年。
- 佐藤賢一『ヴァロワ朝 フランス王朝史2』講談社(講談社現代新書)、2014年。
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