「カスピ海横断鉄道」の版間の差分
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[[ファイル:The_Station_of_Baharden_on_the_Transcaspian_Railway.jpg|thumb|right|400px|1890年代のカスピ海横断鉄道のBahmi(Bami)駅]] |
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[[ファイル:Prokudin-GorkiTurkmenistanyTrainStation.jpg|thumb|right|400px|Train station Farab, Turkmenistan([[セルゲイ・プロクジン=ゴルスキー]]撮影、[[1911年]])]] |
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'''カスピ海横断鉄道'''([[英語]]:Trans-Caspian railway、別名:Central Asian Railway、{{lang-ru|Среднеазиатская железная дорога}})は、[[中央アジア]]西部を[[シルクロード]]に沿うような形で伸びる鉄道。'''トランス・カスピ海鉄道'''、'''中央アジア鉄道'''、'''ザカスピ鉄道'''とも呼ばれる。[[19世紀]]に中央アジアに領土を拡大した[[ロシア帝国]]によって建設された。 |
'''カスピ海横断鉄道'''([[英語]]:Trans-Caspian railway、別名:Central Asian Railway、{{lang-ru|Среднеазиатская железная дорога}})は、[[中央アジア]]西部を[[シルクロード]]に沿うような形で伸びる鉄道。'''トランス・カスピ海鉄道'''、'''中央アジア鉄道'''、'''ザカスピ鉄道'''とも呼ばれる。[[19世紀]]に中央アジアに領土を拡大した[[ロシア帝国]]によって建設された。 |
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[[1879年]]、ロシア軍ザカスピ遠征隊({{仮リンク|ニコライ・パブロビッチ・ロマキン|ru|Ломакин, Николай Павлович|label=ロマキン}}、[[ミハイル・スコベレフ|スコベレフ]]、{{仮リンク|ミハイル・アネンコフ|en|Mikhail Annenkov|label=アネンコフ}})が[[ザカスピ州]]に遠征した際({{仮リンク|第一次アクハル・テケ遠征|en|Battle of Geok Tepe 1879}})、[[カスピ海]]に面した[[:ru:Узун-Ада (порт)|Uzun-Ada港]]から内陸都市 Kyzyl-Arvat (Gyzylarbat、現在の[[トルクメニスタン]]の[[:en:Serdar (city)|Serdar]])までを結ぶ鉄道が[[1879年]]に狭軌として建設された。 |
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2014年1月5日 (日) 02:38時点における版
カスピ海横断鉄道(英語:Trans-Caspian railway、別名:Central Asian Railway、ロシア語: Среднеазиатская железная дорога)は、中央アジア西部をシルクロードに沿うような形で伸びる鉄道。トランス・カスピ海鉄道、中央アジア鉄道、ザカスピ鉄道とも呼ばれる。19世紀に中央アジアに領土を拡大したロシア帝国によって建設された。
建設工事は1879年に開始され、コーカンドでロシア軍が敗北を喫すると、ロシア軍がこの地帯での反乱鎮圧のための軍を展開するために建設の主眼が置かれた。
大英帝国のインド副王であったジョージ・カーゾンは、この鉄道がアジアでのイギリスの脅威になると述べている[1]。
歴史
1879年、ロシア軍ザカスピ遠征隊(ロマキン、スコベレフ、アネンコフ)がザカスピ州に遠征した際(第一次アクハル・テケ遠征)、カスピ海に面したUzun-Ada港から内陸都市 Kyzyl-Arvat (Gyzylarbat、現在のトルクメニスタンのSerdar)までを結ぶ鉄道が1879年に狭軌として建設された。
ミハイル・スコベレフによってロシア軍がザカスピ州を征服すると(第二次アクハル・テケ遠征、1880年~1881年)、すぐにロシア式の広軌に改められ、1886年にはアシガバートやメルブ(現在のマル)まで伸びた。
1888年にはブハラを経てサマルカンドまで完成。また、カスピ海側の起点はカスピ海の港町クラスノボツク(現在のトルクメンバシ)に変更された。
1898年、タシュケントやアンディジャンまで完成する。1901年まではアムダリヤ川を渡る堅固な橋は完成しておらず、カスピ海横断鉄道は木製の貧弱な橋を通っていたため、何度も洪水で流された。
1905年にはトルクメンバシからバクーへカスピ海を連絡する鉄道連絡船が登場した。1906年にはトランス・アラル鉄道と繋がる。
ロシア革命では鉄道の建設作業員が革命の中心勢力となり、タシュケントのソビエト設立の中心的役割を果たした[2]。また、鉄道も赤軍の軍事拠点となり、英印軍との戦闘が行われた。この鉄道の開通でタシュケントは赤軍の重要な軍事拠点となった[3]。
路線
カスピ海に面したトルクメニスタンのトルクメンバシを起点に、南東に鉄道は延びる。カラクム砂漠の外縁部に沿って進んだ後で、カラクーム運河に平行してトルクメニスタンの首都・アシガバートに達する。そこから南東に向かい山岳地帯の麓を進み、テジェンに至る。テジェンからは、イランのマシュハドに繋がる鉄道が1990年代に完成した。カスピ海横断鉄道は、テジェンからは北東に向かい、マル (Mary) に至る。ここからアフガニスタン国境のクシカ (Kushka) への支線は早くも1890年代に完成した。
カスピ海横断鉄道はさらにテュルクメナバート(かつてのチャルジョウ)でウズベキスタンのウルゲンチなどに達する支線を分岐し、ウズベキスタンのブハラではタジキスタンの首都・ドゥシャンベやテルメズに向かう支線を分岐する。最後にカスピ海横断鉄道は、ウズベキスタンのサマルカンドを経て、ウズベキスタンの首都・タシュケントに至り、ここが終点となる。
途中、シルダリヤ (Sirdaryo) でアンディジャンなどフェルガナ盆地に向かう支線がある。タシュケントでは、キルギスの首都ビシュケクやカザフスタン最大の都市・アルマトイ(かつてのアルマアタ)を経てシベリヤのノヴォシビルスクに至るトルキスタン・シベリア鉄道や、ロシアのオレンブルクに至るトランス・アラル鉄道、カザフスタンの首都・アスタナに向かう鉄道など各線と連絡している。
脚注
- G.N. Curzon Russia in Central Asia (London) 1889
- Mikhail Annenkov. Ахал-Техинский Оазис и пути к Индии (Санкт-Петербург) 1881
- George Dobson. Russia's Railway Advance Into Central Asia. W. H. Allen & Co, 1890.
- ^ Military power, conflict, and trade by Michael P. Gerace, Routledge, 2004 p182
- ^ Russian colonial Society in Tashkent, 1865-1923, by Jeff Sahedeo, Indiana university Press, 2007, p. 190
- ^ On Secret Service East of Constantinople, by Peter Hopkirk, John Murray 1994