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2021年7月31日 (土) 11:00時点における版

ドイツ国家憲法
(ヴァイマル憲法)
Die Verfassung des Deutschen Reichs
(Weimarer Verfassung)
ヴァイマル憲法
施行区域 ドイツ国の旗ドイツの旗ナチス・ドイツの旗 ドイツ国
効力 廃止
成立 1919年8月11日
公布 1919年8月14日
施行 1919年8月14日
元首 大統領
立法 国会
行政 内閣
司法 最高司法裁判所
廃止 1945年
旧憲法 ビスマルク憲法(ドイツ国憲法)
新憲法 西ドイツの旗 ドイツ連邦共和国基本法
東ドイツの旗 ドイツ民主共和国憲法
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ヴァイマル憲法(ヴァイマルけんぽう、ドイツ語: Weimarer Verfassung)は、第一次世界大戦敗北を契機として勃発したドイツ革命によって、ドイツ帝国が崩壊したあとに制定されたドイツヴァイマル共和政)の憲法である。憲法典に記されている公式名はドイツ国家憲法Die Verfassung des Deutschen Reichs)。1919年8月11日制定、8月14日公布・施行。

概要

ドイツの憲法は、フランクフルト憲法や現在のボン基本法のように、その憲法が制定された都市の名をつけて通称とする慣例があり、ヴァイマル憲法も憲法制定議会が開催された都市ヴァイマルの名に由来する通称である。ワイマール憲法と表記される場合も多い。

国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の権力掌握によって「憲法変更的立法」である全権委任法が成立すると、ヴァイマル憲法はほぼその機能を停止した。ナチス・ドイツの敗戦により全権委任法と関連法令が無効とされ、1949年ドイツ連邦共和国基本法西ドイツ、いわゆるボン基本法)とドイツ民主共和国憲法東ドイツ)の制定によってドイツの新たな憲法体制がスタートした。

制定までの経緯

1918年のドイツ革命で君主制の廃止と共和制への移行が宣言されたのを受けて、同年11月14日に人民委員評議会英語版ドイツ語版ドイツ民主党の政治家で弁護士であったフーゴー・プロイスを内務行政長官に任命し、憲法草案の起草を委託した[1]。プロイスは明文化されたものの施行されずに終わったパウロ教会憲法を下敷きに5週間で草案を作成し、1919年1月20日に草案を臨時政府に提出した。その後ドイツ各邦の代表者による討議が行われたが、全国政府への中央集権自治権のバランスを巡って激しい意見の対立が生じた[1]。2月に入り議論の場はヴァイマル憲法制定国民議会英語版ドイツ語版の憲法委員会に移され、4か月に渡って各条の審議と修正が行われた。

7月31日に本会議において最終的な採決が行われ、賛成262票、反対75票、保留1票で可決成立した。しかし、83人の議員が採決を欠席し、手続きに問題はないものの国民の総意とは言い難い採決となった[1]

初代大統領に選出されたフリードリヒ・エーベルト1919年8月11日に調印し制定、8月14日に公布・施行された。

構成

前文

原文:Das Deutsche Volk einig in seinen Stämmen und von dem Willen beseelt, sein Reich in Freiheit und Gerechtigkeit zu erneuen und zu festigen, dem inneren und dem äußeren Frieden zu dienen und den gesellschaftlichen Fortschritt zu fördern, hat sich diese Verfassung gegeben.

訳:ドイツ民族は、その諸部族の一致のもとに、かつ、国家を自由と正義とにおいて新しくかつ確固たるものにし、国内国外の平和に奉仕し、そして社会の進歩を促進せんとする意思に心満たされて,この憲法を自らに与えた。

第一主部 国家の構築と目的

第二主部 ドイツ人の権利と義務

第137条6項 以前から公法上認められていた宗教団体は、州法の規定を仕様とする納税者名簿に基づく徴税権を有す。

同条7項 一つの世界観を共同体として育むことを使命とする結社は宗教団体とみなす。

第138条1項 法律、条約もしくは特別の授権規範により国家が宗教団体へ行う給付義務は、州の議会が継承する。基本原則は中央が定める。

第三主部 ライヒ大統領と国家省庁

第48条英語版 公安に著しい障害が生じ或いはその虞がある時は、大統領は障害回復のために必要な措置を取り、また武力介入が出来る。このために大統領は基本的人権を一時的に停止出来る。

内容

ヴァイマル憲法の特徴として、人権保障規定の斬新さがある。自由権に絶対的な価値を見出していた近代憲法から、特に義務教育と雇用面での社会権保障を志向する現代憲法への転換がこのヴァイマル憲法によってプログラム規定され、その後に制定された諸外国の憲法の模範となった。当時は世界で最も民主的な憲法とされ、第1条では国民主権を規定している。

体制としては領邦を州へ格下げし中央集権を規定した。その統治制度はおおよそ次のとおりである。

  • 直接選挙で選ばれる国家大統領(任期7年)を国家元首とし、憲法停止の非常大権などの強大な権限を与えた。また、大統領は国家宰相首相)の任免を行うとする半大統領制を初めて採用した。
  • 選挙権は20歳以上の男女に与えられた[2]
  • 大統領は議会の解散権を有し、議会は不信任決議をすることで首相を罷免させることができる。
  • 議会は、国民代表の国家議会(Reichstag)と、諸州代表の国家参議院(Reichsrat)からなる両院制である。
  • 国家議会の選挙区は35、さらにいくつかの選挙区を結合した16の選挙区連合、そして一つの全国区からなる[2]
  • 国家議会の選挙方式は比例代表制で、厳正拘束名簿式である[3]。得票6万票ごとに一人が議員に選出されるため、議員定数は存在しなかった[3]
  • 国家参議院は諸州から送りこまれる代表者から構成される。
  • 司法機関は通常裁判所のほかに国事裁判所がある。
  • 志願兵からなる国軍(Reichswehr)を置き、大統領が直接指揮・監督する。
  • 一定数の有権者による国民請願国民投票など、直接民主制の要素を部分的に採用した。

また、ドイツ統一後も未統一のまま領邦の所有となっていた鉄道を、州に継承させるのではなくドイツ国営鉄道へ移管させる規定がある。「一般交通に利用される鉄道を国家の所有に移す。これを統一された交通施設として管理するのは国家の責任である」という第89条が直接の法的根拠である。移管の時期も第171条で規定された。それによれば、遅くとも1921年4月1日までというスケジュールであった。実際にはちょうど1年早く移管は実現した。買収価格は8つの鉄道合計で390億マルクと概算された。なお資金難により諸州への支払はなされなかった。

問題点

ヴァイマル憲法は、主権者を国民とする・財産に制限をつけない20歳以上の男女平等の普通選挙をおこなう・国民の社会権を承認するなど斬新性があった。だが、有権者の直接選挙で選出された大統領に首相の任免権、国会解散権、憲法停止の非常大権[4]国軍の統帥権など、かつての皇帝なみの強権が規定された。これらの権限は混乱期にあった共和制成立期においては各種の反乱鎮圧に際して実際に発動された。

制定当時はビスマルク憲法にくらべ、はるかに民主的な憲法とされた。ヴァイマル憲法では首相の指名は大統領の指名のみが条件であったが、議会は首相を不信任することもできた[5]。当時の憲法解釈では首相指名には議会優位説がとなえられており、エーベルト大統領は議会の支持が得られる人物を首相に任命していた。しかし、完全比例代表制の弊害である少数政党乱立を防止するための阻止条項たる最低得票率制限 [注釈 1]がなかったため、ヴァイマル共和政では複数政党による連立内閣となることが一般的で、政党間の連立協議がかえって政局の混乱を増幅することも多かった。選挙制度改革はたびたび議論されたものの、ついに成立しなかった[2]

この情勢を解決するため、首相指名には大統領の権限が優先されるという大統領優位説が次第に浸透するようになった[6]。もともと右翼に近い立場だったヒンデンブルク大統領は、就任当初はエーベルトの手法を忠実に引き継いで、議会で多数を得られる人物を首相に指名していたが、政治・経済の混乱のなかで議会や政党への信頼を失い、1930年に第2次ヘルマン・ミュラー内閣が倒れたあと、議会に基盤を持たないハインリヒ・ブリューニングを後継に指名した。その後はヒンデンブルクが死去するまで大統領の指名のみを基礎とする「大統領内閣」が続くことになる。大統領内閣の首相は議会で多数派を確保できず、法案制定を大統領命令に頼るようになった。ナチ党の権力掌握期に国家社会主義ドイツ労働者党が第一党を占めたにも関わらず、アドルフ・ヒトラーが首相に指名されず、1933年1月30日になってようやく指名されたのも、ヒトラーを嫌っていたヒンデンブルクが首相指名を拒んだためである。

ナチス・ドイツ期のヴァイマル憲法

炎上する国会議事堂

ヒトラー内閣成立後間もない2月27日、国会議事堂放火事件が発生した。

ヒトラーはヒンデンブルクに迫って民族と国家防衛のための大統領令ドイツ国民への裏切りと反逆的策動に対する大統領令ドイツ語版の2つの大統領令(ドイツ国会火災規則ドイツ語版)を発出させた。これにより、ヴァイマル憲法が規定していた基本的人権に関する114、115、117、118、123、124、153の各条は停止された。ヒトラーとナチ党はこの大統領令を利用し、反対派政党議員の逮捕、そして他党への脅迫材料とした。また諸州の政府を次々にクーデターで倒し、ナチ党の支配下に置いた。この時点で他の政党には、ナチ党の暴力支配に抵抗するすべはなくなった[7]

この状況下で制定されたのが『全権委任法』である。ヒトラーは憲法改正立法である全権委任法の制定理由を「新たな憲法体制」(Verfassung)を作るためと説明した[8]。この法律自体ではヴァイマル憲法自体の存廃、あるいは条文の追加・削除自体は定義されなかったものの、政府に憲法に違背する権限を与える内容であった。当時の法学者カール・シュミットはこの立法によって憲法違反や新憲法制定を含む無制限の権限が与えられたと解釈している[9]。こうして事実上ヴァイマル憲法による憲法体制は崩壊した。

しかし、憲法停止が公式に宣言されたことはなく、また1934年2月3日の『ラント直接官吏の任免に関する大統領令』が憲法第46条を根拠としていたように[10]、その後もヴァイマル憲法を根拠とした法令はいくつか発出されている。

1934年1月30日の『国家新構成法ドイツ語版』第4条には「ライヒ政府は新憲法を制定できる」という条文が制定されている。同法では、憲法を改正しなければ改廃できない規定になっていた国家参議院の廃止が決定されており、政府が憲法制定行為を手続きなしに行うことが可能になった[11]。以降行われた『国家元首に関する法律ドイツ語版』による大統領職と首相職の統合ならびにヒトラー個人への大統領権限委譲も、この『国家新構成法』第4条を根拠としており[12]、ヒトラーは『国家元首に関する法律』の執行布告において、自らの任命が憲法上有効であると言及している[13]

これ以降、ヒトラーは自らの命令根拠が成文法にあるとは言及しなくなった[14]ナチス・ドイツ期において憲法は明文化されたものではなく「民族の種に根ざして形成される共同体の生」つまり「民族共同体」こそが憲法とされ[15]、実際の統治に当たっては「民族共同体の意志」を体現する総統による指導が行われることとなっていた[16]。すなわちナチス・ドイツ時代の「憲法体制」とは、アドルフ・ヒトラーの人格を介したナチズム運動と国家との結合という前例のない体制であった[17]

影響

ヴァイマル憲法の失敗をもとに、戦後のドイツ連邦共和国の憲法であるボン基本法は以下のように定めた。

  • 連邦大統領を連邦議会と連邦参議院による間接選挙とし、権限を儀礼的な役割に限定する。
  • 必要であれば抵抗権を行使して、自由主義民主主義を維持する義務を国民に課した(戦う民主主義)。ナチ党擁護など、明らかに自由主義・民主主義を否定する政党や政治団体には裁判所が解散命令を下すことができる。
  • 連邦議会は、次期首相候補を定めることなしに内閣不信任案を発議できない(建設的不信任制度)。
  • ドイツ連邦軍の統帥権は、大統領ではなく連邦内閣に属する。
  • 選挙制度は小選挙区比例代表併用制を採用している。比例区においては阻止条項を導入している[18] [注釈 2]
  • 国家の危機連邦参議院により認否される。

脚注

注釈

  1. ^ 現代のポーランド共和国チェコ共和国では単純なドント方式の完全比例代表制が行なわれているが、最低得票率制限が存在するため少数政党の乱立は防止されている。最低得票率制限は、ポーランド共和国では政党5%政党連合7%、チェコ共和国では5%となっている。
  2. ^ ただし、阻止条項については、憲法上の要請ではない。ドイツ連邦共和国発足後もしばらくは連邦議会議員の選挙に阻止条項は適用されていない。

出典

  1. ^ a b c 池田浩士『ドイツ革命:帝国の崩壊からヒトラーの登場まで』 現代書館 2018年、ISBN 978-4-7684-5846-4 pp.201-212.
  2. ^ a b c 村田孝雄 & 1972-10, pp. 38.
  3. ^ a b 村田孝雄 & 1972-10, pp. 39.
  4. ^ 第48条:「公共の秩序と安定」が危険にさらされ、国家が憲法の義務を履行できなくなった時、大統領は国軍の援助の下に緊急命令を発出でき、その際に身体の自由、住居不可侵、通信の秘密、言論の自由、集会結社の自由、私有財産の保護の一部または全部を停止することができる。
  5. ^ 村田孝雄 1972, pp. 2.
  6. ^ 村田孝雄 1972, pp. 3.
  7. ^ 南利明 1988, pp. 209.
  8. ^ 南利明 2002, pp. 128.
  9. ^ 南利明 1988, pp. 217–218.
  10. ^ 南利明 1989, pp. 69–70.
  11. ^ 南利明 1989, pp. 70.
  12. ^ 南利明 1989, pp. 97.
  13. ^ 南利明 1989, pp. 94.
  14. ^ 南利明 1988, pp. 108–109.
  15. ^ 南利明 2002, pp. 129.
  16. ^ 南利明 2002, pp. 130.
  17. ^ 南利明 2003, pp. 20.
  18. ^ 村田孝雄 & 1972-10, pp. 45.

参考文献

関連項目

外部リンク