市来乙彦
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市来 乙彦 いちき おとひこ | |
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1937年(昭和12年)頃 | |
生年月日 |
明治5年4月13日 (1872年5月19日) |
出生地 | 鹿児島県 |
没年月日 | 1954年2月19日(81歳没) |
出身校 | 帝国大学法科大学 |
前職 | 大蔵官僚 |
称号 | 勲一等旭日大綬章 |
第22代大蔵大臣 | |
内閣 | 加藤友三郎内閣 |
在任期間 | 1922年6月12日 - 1923年9月2日 |
第10代 日本銀行総裁 | |
在任期間 | 1923年9月5日 - 1927年5月9日 |
在任期間 | 1928年1月7日 - 1929年2月14日 |
貴族院議員(勅選) | |
在任期間 | 1918年9月21日 - 1947年5月2日 |
選挙区 | 全国区 |
当選回数 | 1回 |
在任期間 | 1947年5月3日 - 1950年5月2日 |
市来 乙彦(いちき おとひこ、正体字:市來 乙彥、明治5年4月13日〈1872年5月19日〉 - 昭和29年〈1954年〉2月19日)は、日本の大蔵官僚、政治家。
加藤友三郎内閣の大蔵大臣、日本銀行総裁、貴族院議員(勅選)、参議院議員(1期3年)などを歴任した。
生涯
[編集]旧暦4月13日 旧薩摩藩士の三男として鹿児島県に生まれる。 1896年(明治29年)、帝国大学法科大学政治学科卒業後、大蔵省入省。主税局属[1]。
1903年(明治36年)、5月9日 主計局予算決算課長兼主計局司計課長。 1903年(明治36年)、7月25日 主計局予算決算課長。 1909年(明治42年)、3月12日 大蔵参事官。 1911年(明治44年)、9月6日 主計局長。
1916年(大正5年)、12月16日 寺内内閣の勝田主計蔵相のもとで大蔵次官(〜1918年10月2日)。 1918年(大正7年)、9月21日 貴族院勅選議員に勅任(〜1947年5月2日貴族院廃止)[2]。 1922年(大正11年)、6月12日 加藤友三郎内閣の大蔵大臣を拝命(〜1923年9月2日)、徹底した緊縮財政で第一次世界大戦後のインフレ政策是正に努める。
1923年(大正12年)、9月5日 第10代日本銀行総裁に就任、関東大震災で甚大な被害を受けた日本経済の建て直しに奔走。 1927年(昭和2年)、5月9日 金融恐慌の沈静化を区切りとして日銀総裁を退任。 1928年(昭和3年)、1月7日 第12代東京市長に互選(〜1929年2月14日)、東京の財政再建を手がける。
1947年(昭和22年)、4月22日投票の第1回参議院選挙に全国区から無所属で出馬して下位当選(任期3年)。 1950年(昭和25年)、6月4日投票の第2回参議院選挙に全国区から緑風会公認で出馬して落選、政界引退。
栄典
[編集]- 位階
- 叙勲
- 記念章
- 1921年(大正10年)7月1日 - 第一回国勢調査記念章[6]
- 1930年(昭和5年)12月5日 - 帝都復興記念章[7]
- 外国勲章佩用允許
出典
[編集]参考文献・外部リンク
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公職 | ||
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先代 西久保弘道 |
東京市長 1928年 - 1929年 |
次代 堀切善次郎 |
先代 井上準之助 |
日本銀行総裁 1923年 - 1927年 |
次代 井上準之助 |
先代 高橋是清 |
大蔵大臣 1922年 - 1923年 |
次代 井上準之助 |
官職 | ||
先代 西久保弘道 |
東京市長 官選第12代:1928年 - 1929年 |
次代 堀切善次郎 |
先代 勝田主計 |
大蔵次官 1916年 - 1918年 |
次代 神野勝之助 |