コンテンツにスキップ

大木正吾

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
大木 正吾
おおき しょうご
生年月日 1922年3月26日
出生地 日本の旗 日本 千葉県山武郡松尾町(現:山武市
没年月日 (2004-03-17) 2004年3月17日(81歳没)
出身校 日本大学法律科中退
前職 全逓信従業員組合中央執行役員
全電通書記長
全電通委員長
総評幹事
総評事務局長
所属政党 日本社会党
称号 正四位
勲二等旭日重光章

選挙区 旧千葉3区
当選回数 2回
在任期間 1990年2月18日 - 1996年9月27日

選挙区全国区→)
比例区
当選回数 2回
在任期間 1977年7月10日 - 1989年7月9日
テンプレートを表示

大木 正吾(おおき しょうご、1922年大正11年)3月26日[1] - 2004年平成16年)3月17日[1])は、昭和から平成初期の労働運動家、政治家衆議院議員(2期)、参議院議員(2期)。

来歴

[編集]

千葉県山武郡松尾町(現・山武市)出身[1]

1937年(昭和12年)東京浅草寿町郵便局勤務[1][2]。その後、日本大学法律科に入るが、1943年(昭和18年)に中退し[1][2][3]軍務に就いた[2][3]

1948年(昭和23年)全逓信従業員組合中央執行委員[1]1950年(昭和25年)日本電信電話公社関東電気通信局に移り[1]1953年(昭和28年)に全電通書記長になる[1][2]1958年(昭和33年)委員長に就任[1][2]1962年(昭和37年)総評幹事[1][2]1970年(昭和45年)から6年間事務局長を務めた[1][2]

1977年(昭和52年)第11回参議院議員通常選挙で社会党から全国区に立候補して当選[4]。1983年(昭和58年)第13回通常選挙(比例区、社会党)でも当選し[5]参議院議員を2期務めた[1][3]1989年(平成元年)に参議院議員を引退。翌1990年(平成2年)の第39回衆議院議員総選挙で郷里の旧千葉3区から立候補して衆議院初当選[6]。翌1993年(平成5年)の第40回総選挙(旧千葉3区、社会党)でも再選され[6]、衆議院議員を2期務めた[1][2]。この間、参議院逓信委員長、同産業・資源エネルギーに関する調査会長、社会党中央執行委員、同労働局長、総評顧問、全電通政治局員などを務めた[2][3]

1996年(平成8年)の第41回総選挙に出馬せず引退[1]。2004年3月17日死去、81歳。死没日をもって正四位に叙される[7]

栄典

[編集]

著作

[編集]
  • 『三千万人の春闘論 : 生活闘争から国民春闘へ』総合労働研究所、1976年。

脚注

[編集]
  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 『新訂 現代政治家人名事典』95頁。
  2. ^ a b c d e f g h i 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』124頁。
  3. ^ a b c d 『議会制度百年史 貴族院・参院議員名鑑』266頁。
  4. ^ 『国政選挙総覧:1947-2016』554頁。
  5. ^ 『国政選挙総覧:1947-2016』556頁。
  6. ^ a b 『国政選挙総覧:1947-2016』104頁。
  7. ^ 『官報』第3837号11頁 平成16年4月22日号

参考文献

[編集]
  • 『議会制度百年史 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 『議会制度百年史 貴族院・参院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 『新訂 現代政治家人名事典 : 中央・地方の政治家4000人』日外アソシエーツ、2005年。
  • 『国政選挙総覧:1947-2016』日外アソシエーツ、2017年。
議会
先代
田中恒利
日本の旗 衆議院内閣委員長
1995年 - 1996年
次代
伊藤忠治
先代
八百板正
日本の旗 参議院逓信委員長
1983年 - 1984年
次代
松前達郎