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毛利元蕃

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毛利 元蕃(もうり もとみつ、文化13年7月25日1816年8月18日) - 明治17年(1884年7月22日)は、周防徳山藩の第9代(最後)の藩主。就隆系毛利家9代。

経歴

第8代藩主・毛利広鎮の七男。母は秋元永朝の娘。兄に毛利広衷毛利寿粛堅田元琦福原元僴など。弟に秋元志朝毛利元徳がいる。正室は毛利斉熙の娘・八重子。側室は多数いる。子は娘(毛利元功正室)。官位は従五位下、従三位、山城守、淡路守。幼名は徳太郎。名を就軌、広篤、元蕃と変える。岐陽、烙庵、随風堂などのを持つ。文武の諸道、特に詩歌に秀でる。

江戸今井谷屋敷にて生まれる。七男だったが、4人の兄が早世し、兄の堅田元琦、福原元僴が養子として出たため世嗣となる。天保7年(1836年)12月、従五位下山城守(のち淡路守)に叙任し、翌天保8年(1837年)12月7日に父の隠居で跡を継いだ。

嘉永3年8月(1850年)、未曾有の風水害に際し、あまねく封内の諸村を巡視して庶民の疾苦を慰め、併せて老人をいたわり、孝子や篤農家を賞する。『省耕集』はこの時の詩文を集めて出版したものである。嘉永6年(1853年)、黒船来航により、萩藩とともに浦賀の警備を任じられる。藩政においては、洋学や国学の奨励を行なって文治政策に努め、軍備においても洋式軍隊の編成を積極的に行なうなどしている。

幕末期の動乱の中では、本家の毛利敬親の補佐を務める。元治元年7月(1864年)、禁門の変により元蕃は、萩藩主・敬親、その世子(元蕃の弟)元徳長府藩主・毛利元周清末藩主・毛利元純らと共に官位を奪われ、益田親施・福原元僴・国司親相の3家老は徳山に幽閉された。次いで、益田・国司は徳山で、福原は元蕃の庶兄なので岩国へ護送して、それぞれ自刃が命じられる。

これ以後藩論は分かれ、幾多の士が難に殉じたが、やがて藩論は統一される。慶応2年(1866年)の第2次長州征伐では、徳山藩の主力は小瀬川口に出陣し、幕府軍撃退に貢献した。慶応4年(1868年)の戊辰戦争においても、鳥羽・伏見の戦いや東北、箱館戦争などで軍功を挙げた。これらの功績を賞されて、明治2年(1869年)6月には永世賞典禄8000石を与えられている。同年、版籍奉還により徳山藩知事となる。

明治4年5月(1871年)、廃藩置県に先んじて藩知事を辞任し、その所領を本家の萩藩に返還した。同年9月、婿養子の元功に家督を譲っている。

その後は随風堂と号し、居を東京芝愛宕町五番地に移して悠々自適の生活を送った。教養人としても優れ、「省耕集」・「随風堂遺稿」・「随風集」など著作が多数ある。明治16年(1883年)3月、従四位に叙された。明治17年7月22日(1884年)、病が重く危篤に陥る。元蕃の危篤を聞いた明治天皇は特旨をもって元蕃を従三位に叙す。同日、病死した。享年69。

周南市徳山城(徳山陣屋)の跡にある祐綏神社に祭神として祀られている。