毛利祥久
毛利 祥久[1](もうり よしひさ、1860年4月8日(万延元年3月18日)[2] - 1941年(昭和16年)12月9日[2])は、長州藩一門家老である右田毛利家の13代当主で、男爵、銀行家。
生涯
[編集]父は右田毛利家の11代当主毛利元亮で、二男として生まれる[2]。養父は12代当主毛利親信[2]。1871年(明治4年)3月に親信と姉夫婦の養子となる[3]。養父親信の没後、1885年(明治18年)6月12日に家督を相続し13代当主となり[3]、同時期に養父が頭取であった第百十国立銀行[4](後の山口銀行)の取締役となった(祥久が頭取だったとの情報もあるが、山口銀行史には取締役としか出てこない)。
1887年(明治20年)11月、「取締役毛利祥久、支配人草刈隆一の名義をもって愛知県の三河干拓(毛利新田)の築立に着手」と山口銀行史にある[5]。
1888年(明治21年)より、愛知県庁の強力なサポートで新田干拓と新田用水路の工事を進めて行った[6]。
毛利新田は度々の災害に遭いながら奮闘努力したが、1891年(明治24年)の濃尾地震で堤防が傷つき、翌年の1892年(明治25年)に暴風雨により堤防が破壊、浸水で多くの死亡者が出たことで、遂に開発を断念した[6]。
それまでの経費は41万円[3]とも言われており、明治銀行史に「明治25年、第百十国立銀行三河干拓事業の蹉跌により巨額の損失を生ず[7]」とある。
祥久は毛利新田に係わる全ての権利を1893年(明治26年)4月に初代神野金之助へ、損失額の1/10の41,000円で譲渡した[6]。
神野金之助は毛利新田の設計を踏襲し工事に工夫と堅固を加えて完成させ、1896年(明治29年)に神野新田の完工式を行った[6]。
祥久37歳、1897年(明治30年)に父元亮の遺功により男爵を授けられ、1902年(明治35年)11月には正四位を追贈せられた[3]。
祥久は1904年(明治37年)から1905年(明治38年)の日露戦争に際しては、多額の軍費を献納した事により金盃を下賜されている[3]。
晩年は悠々自適、花卉園藝を楽しんだが、1941年(昭和16年)12月、82歳の老齢で逝去した[3]。
家族・親族
[編集]- 毛利家
- 妻・ユリ(1870年 - 1930年、山口、毛利倫亮の妹[1]、毛利親彦の三女[2])
- 次男・彜亮(1892年 - 1928年、男爵木梨精一郎の養子[1])
- 四男・重雄(1901年 - 1973年)[1][2][8]
- 五男・正彦(1902年 - 1942年、広島市の古川久吉の養子)[1][2][8]
- 六男・勇夫(1905年 - 1945年、広島市の古川久吉の養子)[2]
- 長女・須賀子(1894年 - ?)[1][8]
- 二女・英子(1898年 - 1927年)[1][2] - 西村礼作の長男・圭太郎の妻[9]
- 孫[8]
- 親戚
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h 『人事興信録 第8版』モ5頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年3月13日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j 『平成新修旧華族家系大成』下巻、733頁。
- ^ a b c d e f 『開校廿周年記念東三河産業功労者伝『毛利祥久』』豊橋市立商業学校、1943年。
- ^ (株)山口銀行『山口銀行史』(1968.09) 渋沢社史データベース
- ^ (株)山口銀行『山口銀行史』(1968.09) 渋沢社史データベース
- ^ a b c d 『神野新田紀事』神野金之助、明37年7月(1904)。
- ^ (株)山口銀行『山口銀行史』(1968.09) 渋沢社史データベース
- ^ a b c d e 『人事興信録 第9版』モ5頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年4月1日閲覧。
- ^ 西村礼作『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]
参考文献
[編集]- 人事興信所編『人事興信録 第8版』人事興信所、1928年。
- 人事興信所編『人事興信録 第9版』人事興信所、1931年。
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』下巻、霞会館、1996年。
外部リンク
[編集]日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 |
男爵 右田毛利家初代 1897年 - 1935年 |
次代 毛利重雄 |