ヒシャーム2世
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ヒシャーム2世 هشام المؤيد بالله | |
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後ウマイヤ朝カリフ | |
ヒシャーム2世の銀貨 | |
在位 |
976年 - 1009年 1010年 - 1013年 |
出生 |
965年6月11日 |
死去 |
1013年5月18日 |
家名 | ウマイヤ家 |
王朝 | 後ウマイヤ朝 |
父親 | ハカム2世 |
母親 | スブフ |
宗教 | イスラム教スンナ派 |
ヒシャーム2世(965年[1]6月11日 - 1013年[1]5月18日)は、後ウマイヤ朝の第3代カリフ(在位[2]:976年 - 1009年、1010年 - 1013年)。
父は第2代カリフのハカム2世[3]。生母はバスク人のスブフ[3]。
略歴
976年に父ハカム2世が死去したためカリフ位を継いだがわずか11歳のため[2]、ハカム2世の大カーディであったイブン・アビー・アーミル(後の981年にアル・マンスール・ビッ・ラーヒ(「勝利者」)の称号を名乗った[2]。)が後見人となり[3]、978年にはハージブ(侍従)の地位に就いた[2]。スブフから寵愛されたアル・マンスール・ビッ・ラーヒは、最初はヒシャームの補佐として政治を執った[3]。しかし981年になると行政府をコルドバの東に造営したアルマディーナ・アッザーヒラ(「光輝の都市」)に遷し、アル・マンスール自らの名で統治した[3]。このため、後ウマイヤ朝のカリフは宗教的な役割を有するだけの存在になる[3]。アル・マンスールはバルセロナに軍を進めてレオン王国を服属させ、997年にはサンティアゴ・デ・コンポステーラの大聖堂を襲撃して略奪と破壊を行った[3]。
アル・マンスールが1002年に死亡すると、アル・マンスールの息子のアブド・アルマリクがハージブの地位に就いた[3]。アルマリクも父と同じく実質的な最高権力者として王朝を統治したが、1008年にアルマリクが死去すると実力者を欠いた後ウマイヤ朝では内紛が勃発し、6人ものウマイヤ一族がカリフに即位する大混乱状態となって急速に衰退した[4]。
ヒシャーム2世は、1013年に49歳で死去した[5]。
脚注
注釈
出典
参考文献
- 私市正年 著「第3章 西アラブ世界の展開」、佐藤次高編 編『西アジア史 1:アラブ』 第8巻、山川出版社〈新版 世界各国史〉、2002年、186-255頁。ISBN 4-634-41380-9。
- 佐藤健太郎 著「第3章 イスラーム期のスペイン」、関哲行、立石博高、中塚次郎編 編『スペイン史 1:古代 – 近世』山川出版社〈世界歴史大系〉、2008年、70-135頁。ISBN 978-4-634-46204-5。
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