コンテンツにスキップ

新三河タイムス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
印刷用ページはサポート対象外です。表示エラーが発生する可能性があります。ブラウザーのブックマークを更新し、印刷にはブラウザーの印刷機能を使用してください。
新三河タイムス
新三河タイムス社の社屋
種類 週刊紙

代表者 代表取締役:田辺雅彦[1]
創刊 1951年昭和26年)5月
前身 民報
加茂民衆新聞
加茂タイムス
言語 日本語
発行数 約1万部[1]
株式会社新三河タイムス社
本社所在地 日本の旗 日本
471-0025
愛知県豊田市西町4-26-3
北緯35度05分00.1秒 東経137度09分19.3秒 / 北緯35.083361度 東経137.155361度 / 35.083361; 137.155361
業種 情報・通信業
資本金 1000万円[1]
従業員数 12名[1]
外部リンク 公式サイト
テンプレートを表示

新三河タイムス』(しんみかわタイムス)は、愛知県豊田市に本社を置く株式会社新三河タイムス社によって発行される新聞地域紙)。1951年昭和26年)創刊[1]。毎週木曜発行の週刊紙。豊田市とみよし市の情報を扱っている[1]

歴史

加茂タイムス

豊田市中央図書館で閲覧中の加茂タイムスのマイクロフィルム

1951年(昭和26年)5月[2]愛知県挙母市(現・豊田市)で『民報』として創刊された[2][1]。題字は挙母市初代市長の渡辺釟吉[2]。当初は中澤志磨治の個人発行物のような形であり、挙母市若宮町6丁目の愛知県営住宅から発行された[3][注 1]。同年3月1日には西加茂郡挙母町が市制施行して挙母市が発足しているが、この時の挙母市には『加茂時報』、『挙母タイムス』、『三河時事新報』、『加茂ニュース』、『三州新聞』などもひしめきあっていた[3]

創刊後には『加茂民衆新聞』、『加茂タイムス』と名を変えたが、常に題字は渡辺釟吉が担当した[2]1972年(昭和47年)までは豊田市・西加茂郡東加茂郡を販売エリアとしていた[4]。論調としては政治的中立を掲げ、豊田市政の民主化や地域住民の幸せを基調に置いた[2]

新三河タイムス

1971年(昭和46年)の創刊20周年を機に、刈谷市知立市安城市への本格的な進出を開始するべく、1971年(昭和46年)6月から8月には『加茂タイムス』に代わる新紙名を公募した[5][4][6]。263通の中で『西三タイムス』や『三河タイムス』の応募数が多かったが、編集部による協議によって『新三河タイムス』に決定した[6]1972年(昭和47年)1月1日、正式に『新三河タイムス』に紙名を変更した[1]。題字は書家の堀田翠堂が担当し、デザインは豊田市在住の彫刻家である安藤菊男が担当した[7]

新三河タイムスの記者だった新見幾男は、1984年(昭和59年)に新三河タイムスのライバル紙となる『矢作新報』(矢作新報社)を創刊した[8]

1985年(昭和60年)9月の豊田市議会では、豊田市土地開発公社が異常な高値で土地を購入したとして日本共産党の外山正孝市議が同公社を追求した[3]1987年(昭和62年)11月20日には豊田市社会部長が逮捕され、11月21日から豊田市役所の一斉捜索が行われるほどの大事件(万灯山事件)となったが、当初から万灯山事件を大きく取り上げたのは新三河タイムスのみだった[3]。新三河タイムスは事件に西山孝市長が深く関与していることを明らかにし、行政・議会・地元権力者の癒着をあらわにした[3]

1990年平成2年)には豊田市西町に新たな社屋が完成した[3]

豊田市議会議員の渡久地政司[9][注 2]が代表取締役社長を務めたのち、三洋グループ会長の田辺雅彦が引き継いだ[1]

事業所

本社所在地

脚注

注釈

  1. ^ 中澤志磨治は1990年(平成2年)4月に66歳で死去。
  2. ^ 渡久地政司は1937年(昭和12年)6月2日に大阪府大阪市福島区海老江に生まれた。両親は沖縄県国頭郡国頭村出身[10]。同年11月、豊田自動織機製作所の自動車工場(現・トヨタ自動車)が挙母町(現・豊田市)に完成。これに伴い、めっき工場の職人だった父親は一家を連れて1938年(昭和13年)に挙母町に移住[11]。渡久地は愛知大学法経学部でマルクス主義を学び、大学在学中に日本共産党に入党した。ベトナム戦争期には日本にやってきた米軍脱走兵の滞在先の確保や資金集めに尽力した。1963年(昭和38年)から1987年(昭和62年)まで24年間にわたって豊田市議会議員を務めた[9]

出典

  1. ^ a b c d e f g h i 会社案内 新三河タイムス社
  2. ^ a b c d e 「20周年を迎え決意新たに」『加茂タイムス』1971年10月23日
  3. ^ a b c d e f 「新聞週間 地方紙の在り方探る 42年の伝統を守る」『新三河タイムス』1992年10月15日、1面
  4. ^ a b 「『新社名』が審査待ち "西三河タイムス"など色彩濃厚 47年 加茂タイにピリオド」『加茂タイムス』1971年9月3日
  5. ^ 「社告 題字懸賞募集!」『加茂タイムス』1971年6月3日
  6. ^ a b 「新社名決る 新三河タイムス 改題は明年一月一日」『加茂タイムス』1971年9月11日
  7. ^ 「題号変更のお知らせ!」『加茂タイムス』1971年12月24日
  8. ^ 筆者 新見幾男 矢作新報
  9. ^ a b 岩間優希『ヴェトナム戦争期の名古屋における脱走米兵支援活動」『貿易風 中部大学国際関係学部論集』中部大学、2019年、第14号、pp.7-20
  10. ^ “琉球と愛知をつなぐ2人の作家/中 本土と平等扱いせよ 渡久地さん 文化タブー視の風潮、今も /愛知”. 毎日新聞. (2020年3月28日). https://mainichi.jp/articles/20200328/ddl/k23/040/177000c 2021年12月23日閲覧。 
  11. ^ 伊藤智章 (2022年8月15日). “中国・天津で迎えた終戦 沖縄には行けず 語り継ぐ戦争”. 朝日新聞. 2023年2月14日閲覧。

外部リンク