イスラム・カリモフ
イスラム・アブドゥガニエヴィチ・カリモフ Islom Abdug‘aniyevich Karimov Ислом Абдуғаниевич Каримов | |
2016年6月23日撮影
| |
任期 | 1991年9月1日 – 2016年9月2日 |
---|---|
副大統領 | シュクルッラ・ミルサイドフ(1991–1992) |
首相 | アブドゥルハシム・ムタロフ(1992– 1995) ウトキル・スルタノフ(1995–2003) シャフカト・ミルジヨエフ(2003–2016) |
任期 | 1990年3月24日 – 1991年9月1日 |
首相 | シュクルッラ・ミルサイドフ |
任期 | 1989年6月23日 – 1991年12月29日 |
出生 | 1938年1月30日 ソビエト連邦 ウズベク・ソビエト社会主義共和国 サマルカンド |
死去 | 2016年9月2日(78歳没) ウズベキスタン タシュケント |
政党 |
|
配偶者 | ナターリア・ペトローヴナ・クチミ(1964–1960年代) タチヤーナ・カリモヴァ(1967–2016) |
子女 | グリナラ・カリモヴァ ローラ・カリモヴァ |
署名 |
イスラム・アブドゥガニエヴィチ・カリモフ(ウズベク語: Islom Abdug‘aniyevich Karimov / Ислом Абдуғаниевич Каримов、英語: Islam Abduganievich Karimov、1938年1月30日 – 2016年9月2日)は、ソビエト連邦、ウズベキスタンの政治家である。1964年ソビエト連邦共産党に入党。ウズベク・ソビエト社会主義共和国国家計画委員会第1副議長、財務相、副首相などを歴任し、1990年3月、新設された同共和国大統領に就任した。同年7月ソ連共産党政治局局員、中央委員となった。11月共和国首相(内閣議長)兼任。1991年11月ウズベキスタン人民民主党創設、党首となる。ウズベキスタン独立後の1991年12月、大統領直接選挙に当選し同国の初代大統領となった。以後2016年に死去するまで、25年間にわたって同国の大統領を務めた。
政敵や言論への弾圧、不正選挙、人権問題や報道規制などの問題により欧米諸国からは独裁者として批判を受け、パレード誌に「世界最悪の独裁者」の一人に選ばれていた[1]。経済面では、カリモフ在任中のウズベキスタンは2004年以降7%以上のGDP成長率を記録しているが、これも子どもを含む強制労働によるものとする批判がある。
経歴
[編集]ソ連時代
[編集]1938年1月30日、ウズベク・ソビエト社会主義共和国のサマルカンドで生まれた[2]。1941年、サマルカンドの孤児院に送られ、1942年に家に連れ帰られたが1945年に孤児院に送られた[3]。少年時代については模範的な学生だったという説と荒くれものであったという説の2つが存在する[4]。
1955年に高校を卒業。1960年に中央アジア工科大学(現・タシュケント国立工科大学)を卒業し、機械工学の学位を取得。1961年から1966年まで、航空機製造企業や水資源省で技術者として勤務した。
1967年にタシケント国民経済大学タシュケント国民経済大学で経済学の修士号を取得した[3]。
政治家として
[編集]1964年、ソビエト連邦共産党下部組織ウズベキスタン共産党に入党。1966年から1983年にかけて、ゴスプランの主任専門官、議長補佐官、課長、局長、副議長、第一副議長を歴任した。
1983年、ウズベク共和国の財務大臣に就任。1986年からは副首相兼ゴスプラン議長を務めた。カシュカダリヤ州の共産党第一書記を経て、1989年6月にウズベキスタン共産党中央委員会第一書記に就任した。
1990年から1991年までソ連共産党中央委員会委員、政治局員、ソビエト連邦最高会議代議員を務めた[3]。
ウズベキスタン大統領
[編集]1990年3月24日、ウズベク・ソビエト社会主義共和国の初代大統領に選出された[3]。
1991年3月に行われた連邦制維持の賛否を問う国民投票に際してはソ連への連帯を呼びかけ、95%の投票率で70%以上が連邦制に賛成した[3]。この投票結果に基づく新連邦条約の調印を控えた8月19日、モスクワでクーデターが発生。これは失敗に終わったが、結果的に新連邦条約は実現せずソ連の崩壊を招くこととなった。カリモフ自身は、ペレストロイカの行き詰まりとゴルバチョフ自身の指導力の無さを批判し、クーデターに対する支持を表明していた。
1991年8月31日に共和国独立宣言を行い、国名を「ウズベキスタン共和国」に変更した[5]。自身の率いるウズベキスタン共産党はウズベキスタン人民民主党に改称した。12月29日、ウズベキスタン大統領選挙で当選し初代大統領となった[3]。
専制政治への移行
[編集]不公正な選挙
[編集]1995年の国民投票で大統領の任期が2000年まで延長された。2000年の大統領選で90%以上の支持を得て再選[6]。選挙では白票や棄権票が「カリモフに投票した」と見なされるなど公正さに疑問があり、アメリカ合衆国からは「真の自由で公正な選挙とは言えず、ウズベク国民には選択肢が与えられていなかった」と批判を受けた[7]。2002年の国民投票で任期が2007年まで延長された[2]。
2007年11月6日、ウズベキスタン自由民主党の公認を得て大統領選挙への出馬を表明。選挙管理委員会からの承認を得たが、対立候補は「憲法に規定されている3選禁止を無視している」と批判した[8][9][10]。2007年の大統領選では90%の得票で3選を果たした[11]。選挙結果は独立国家共同体(CIS)加盟国からは歓迎されたが、欧米諸国からは「政治的な茶番であり、真の選択肢が与えられていない」として批判を受けた[12]。
2015年の大統領選で90.39%の得票を得て4選された[13]。旧ソ連構成国や中国から派遣された選挙監視団は公正な選挙として評価したが、欧米諸国からは不正な選挙として批判を受けた[14]。
政敵、言論の弾圧
[編集]政権掌握の当初から、敵対者の逮捕、拷問、投獄などの政治弾圧を行った。当局は政治的な動機で数千人を拘束し、刑務所や警察署における拷問が日常的に行われた。野党ビルリク党、エルク党、公正社会民主党などの主要メンバーが標的となり、国外退去を余儀なくされる者もあった。これらの極端な圧力によって野党の政治活動はほとんど崩壊した[15]。
2005年5月13日、アンディジャンでの反政府デモに対し、軍による鎮圧を行いデモ参加者数百人を射殺した(アンディジャン事件)[16]。その鎮圧方法をめぐり、アメリカはカリモフ政権を非難した[17]。
宗教弾圧と対テロ政策
[編集]宗教に対しても強いスタンスで対峙した。独立系イスラム教に対し規制を強化した。1998年、過激派を防ぐという名目で宗教を制限する法律を採択しモスクを事実上の国家支配下に置いた[15][18]。
1999年2月16日、タシュケントで爆破事件が発生[19]。政府はこれをカリモフ暗殺の試みとみなし、ウズベキスタン・イスラム運動(IMU)の仕業だと非難し、大規模な一斉捜査や投獄を行った[20]。ステートメディアによる反IMUプロパガンダも行われた[21]。しかし明確な証拠が出てこず、単にウズベキスタン国民の権利が損なわれただけに終わった[20]。
2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件以降、「テロとの戦い」という文脈で、イスラム原理主義や過激派の脅威を排除するために数千人のイスラム教徒と、独立系の宗教指導者を恣意的に投獄した[15]。熱湯を浴びせられて殺害された例も報告された[22]。一方で、ウズベキスタンは対テロ戦争におけるアメリカの戦略的同盟国とみなされるようになり、同年10月より始まったアフガニスタン紛争においては800人のアメリカ軍を国内に受け入れサポートした[23]。
同年6月には中国とロシアが主導する上海協力機構の原加盟国となり、テロ対策を担う地域対テロ機構(RATS)の本部がタシュケントに置かれた[24][25]。カリモフ政権とアメリカの蜜月は中露から懸念された[17]。
2004年にもタシュケントで自殺爆弾攻撃があり、カリモフはIMUあるいはヒズブ・タハリールによる犯行と非難した[20]。国営の若者向けラジオニュースでは、「邪悪なヒズブ・タハリールがわが国に入り込んで以来、若者を洗脳し、さまざまな手段で政権を奪取しようと陰謀をたくらんでいる」という報道もされた[20]。
2005年7月、アメリカ軍はにウズベキスタンから撤収するも[26]、2012年6月にはカリモフ政権は集団安全保障条約機構(CSTO)から脱退してロシアからの独立も保つ動きも行った[27]。
人権問題と報道規制
[編集]カリモフは、国際社会から長年にわたり人権や報道規制について批判を受けていた[28][29]。駐ウズベキスタン英国大使を務めたクレイグ・マレーは、カリモフ政権下の腐敗・宗教弾圧・検閲・拷問・殺害・誘拐などの問題を批判しており、大使退任後にはカリモフ政権の人権問題やアメリカとの関係を記した回顧録を出版している[30]。また、国際連合もカリモフ政権で拷問が行われていることを報告している[31][32]。
2004年から2015年にかけて。カリモフ政権下にウズベキスタンは成長率7%を超える安定した経済成長を見せた一方[33][34]、子どもを含む数百万人の国民が、国の主要作物である綿花収穫の強制労働を強いられており、国際的に批判を受けていた[35][36]。
ウズベキスタン憲法では、検閲の禁止や報道の自由が明記されている。しかしカリモフ政権は「説明責任」を理由に報道・出版を規制し、検閲官を配置して政権の宣伝を実施していた。報道される政府批判は全て検閲された。1990年代には外国メディアを許容する姿勢を示していたが、ロシアの放送局が減少したことに併せて欧米の放送局も次々に撤退し、以降十数年に渡り海外の出版物の出版を制限していた[37]。また、「政権に対して不実である」という理由で野党の出版物も規制していた[38]。
健康問題と死
[編集]カリモフの健康問題は政府によって厳重に報道規制が敷かれており、2013年3月に心臓発作を起こしたと報道された際には「事実無根」であると発表していた[39][40][41]。
2016年8月27日、カリモフが脳出血のため集中治療室で治療を受けていることを次女のローラ・カリモヴァが明らかにした[42]。カリモフは一時心停止状態に陥ったが、20分後に回復し、人工呼吸器を装着された[43]。公式の医療報告書によると、ウズベキスタン政府は27日から28日にかけてモナコ心胸郭センター所長、ヘルシンキ大学神経外科名誉教授、ハノーファー国際神経科学研究所長、ハイデルベルク大学病院教授、モスクワ州立医科大学心臓血管外科部長にカリモフの病状について相談している[43]。
その後、カリモフが8月29日に死亡したとの未確認情報が地元メディアなどで報じられ、9月1日の独立25周年のテレビ放送では政府報道官がカリモフの演説を代読し、ローラが国民に回復を祈るように懇願した[44][45]。9月2日、脳出血のため死去したとの報道が、ウズベキスタン政府による公式な確認を得られないまま駆け巡った[46]。ウズベキスタン政府は2日の日中の段階では「重体」であるとしていたが、同日20時55分(日本時間3日0時55分)にカリモフが死去したことを国営テレビを介して公式に発表した[47]。享年78。死去の報に接し、バラク・オバマ、ウラジーミル・プーチン、習近平ら各国首脳が哀悼の意を表した。イルハム・アリエフ、ライモンツ・ヴェーヨニス、ナワーズ・シャリーフ、李克強はウズベキスタン大使館を訪れ記帳した[48][49][50][51]。
カリモフの葬儀は9月3日に執り行われた。死没地のタシュケントでは数千人の市民が集まり葬列に花を手向けたが、遺体は死去の公式発表前にタシュケントからサマルカンドに移送されていた[52]。葬儀はサマルカンドのレギスタン広場で執り行われ、シャーヒ・ズィンダ廟群にある母と兄弟の墓の隣に埋葬された[53]。葬儀にはドミートリー・メドヴェージェフ、アシュラフ・ガニー、グルバングル・ベルディムハメドフ、エモマリ・ラフモン、カリム・マシモフ、ソーロンバイ・ジェーンベコフ、モハンマド・ジャヴァード・ザリーフら17か国の代表が参列した[53][54][55][56]。また、9月5日にはキューバがカリモフの死去について服喪することを決定した[57]他、6日にはプーチンが弔問のためウズベキスタンを訪れ、遺族と会談して哀悼の意を表した[58]。
人物
[編集]親日家として知られ、経済企画庁長官だった麻生太郎が1997年に日本の閣僚として初めて面談した際、子供の頃、毎週末毎に母親に手を引かれ日本人捕虜収容所へ連れて行かれた時のことを「せがれ、ご覧、あの日本人の兵隊さんを。ロシアの兵隊が見ていなくても働く。他人が見なくても働く。お前も大きくなったら、必ず他人が見なくても働くような人間になれ。お蔭で母親の言いつけを守って、今日俺は大統領になれた」と語っている[59]。
日本人抑留兵が建設したナヴォイ劇場は1966年4月26日のタシュケント地震でもビクともせず、1996年に日本人抑留兵の功績を称えてウズベク語、日本語、英語で書かれた銘板を掲げ、日本人の功績を称えた。その際、「決して『捕虜』と書いてはいけない」と厳命したため、「極東から強制移送された数百名の日本国民」という表現になっている[60]。
家族
[編集]父はウズベク人、母はタジク人とされているが、父はユダヤ人という説もあり詳細は不明となっている。1964年にナターリア・ペトローヴナ・クチミと結婚し息子ピョートルをもうけるが、後に離婚している[61]。1967年に経済学者・共和国科学アカデミー経済研究所科学職員のタチヤーナ・ソビロヴァと結婚し、2女(グリナラ、ローラ)と5人の孫を有する[62][63]。
長女グリナラは外交官・実業家として活動していたが、父と対立したため2014年2月以降は汚職の罪により自宅軟禁に置かれていた[64][65]。2019年3月、軟禁の条件違反のため拘禁された[66]。2020年3月、恐喝やマネーロンダリングなどの罪で有罪になり、さらに13年の懲役刑を受けた[67]。
次女ローラも実業家であり、子供の権利やスポーツ振興に関する活動家として知られている[68]。
脚注
[編集]出典
[編集]- ^ “The World's Worst Dictators: Islam Karimov” (英語). Parade (2008年2月4日). 2022年10月20日閲覧。
- ^ a b “カリモフとは”. コトバンク. 2022年10月28日閲覧。
- ^ a b c d e f “Биография Ислама Каримова”. Echo of Moscow (2016年9月2日). 2016年9月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年10月20日閲覧。
- ^ “Orphaned Dictator: The Making Of Uzbekistan's Islam Karimov” (英語). RadioFreeEurope/RadioLiberty (2015年3月24日). 2022年10月31日閲覧。
- ^ “ウズベキスタン基礎データ”. Ministry of Foreign Affairs of Japan. 2022年10月29日閲覧。
- ^ Turner, Barry (2016-12-30) (英語). The Statesman's Yearbook 2003: The Politics, Cultures and Economies of the World. Springer. ISBN 978-0-230-27131-9
- ^ “Turkistan Newsletter - Turkistan Bulteni -”. Eurasianet (2000年1月13日). 2008年10月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年10月20日閲覧。
- ^ “Islam Karimov agreed to remain the president another seven years”. Ferghana.Ru. 2007年11月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年10月20日閲覧。
- ^ “Uzbek Election Watchdog Clears Karimov For Third Term” (英語). RadioFreeEurope/RadioLiberty (2007年11月19日). 2022年10月20日閲覧。
- ^ “Official Nod To Karimov Uzbek Presidential Bid Draws Fire” (英語). RadioFreeEurope/RadioLiberty (2007年11月21日). 2022年10月20日閲覧。
- ^ “Uzbek Incumbent Wins Poll Without 'Genuine Choice'” (英語). RadioFreeEurope/RadioLiberty (2007年12月24日). 2022年10月30日閲覧。
- ^ “Uzbek Leader’s Re-Election Dismissed as Charade”. Institute for War & Peace Reporting (2007年12月28日). 2009年3月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年10月20日閲覧。
- ^ “Uzbek leader Karimov wins presidential election by landslide”. The Globe and Mail (30 March 2015). 2022年10月10日閲覧。
- ^ “Islam Karimov re-elected Uzbekistan's president in predicted landslide”. The Guardian (2015年3月30日). 2022年10月10日閲覧。
- ^ a b c “Uzbekistan: Authoritarian President Karimov Reported Dead” (英語). Human Rights Watch (2016年9月2日). 2022年10月30日閲覧。
- ^ “アンディジャン事件とは”. コトバンク. 2022年10月30日閲覧。
- ^ a b “US asked to leave Uzbek air base”. BBC News (2005年7月30日). 2018年2月21日閲覧。
- ^ “Preliminary findings of Country Visit to Republic of Uzbekistan by the Special Rapporteur on freedom of religion or belief” (英語). OHCHR. 2022年10月31日閲覧。
- ^ “Uzbekistan: Bombs Kill Nine In Assassination Attempt” (英語). RadioFreeEurope/RadioLiberty (1999年2月16日). 2022年10月30日閲覧。
- ^ a b c d “Bombings and Shootings Rock Uzbekistan”. Yale Global Online (2004年3月30日). 2016年3月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年2月21日閲覧。
- ^ “Uzbek Court Sentences Opposition in Absentia” (英語). Human Rights Watch (2000年11月16日). 2022年10月20日閲覧。
- ^ “Uzbekistan: Two Brutal Deaths in Custody” (英語). Human Rights Watch (2002年8月9日). 2022年10月30日閲覧。
- ^ “Khanabad”. GlobalSecurity.org. 2022年10月20日閲覧。
- ^ “Eurasia: Uphold Human Rights in Combating Terrorism” (英語). Human Rights Watch (2006年6月14日). 2022年10月30日閲覧。
- ^ “Information on Regional Anti-Terrorist Structure of Shanghai Cooperation Organisation”. Shanghai Cooperation Organisation. 11 December 2008時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年8月26日閲覧。
- ^ “U.S. Evicted From Air Base In Uzbekistan”. Washington Post (2005年7月30日). 2022年10月21日閲覧。
- ^ “Uzbekistan quits Russia-led CSTO military bloc”. RT (2012年6月28日). 2022年10月20日閲覧。
- ^ “Uzbekistan: Country Reports on Human Rights Practices”. Bureau of Democracy, Human Rights, and Labor. United States Department of State (25 February 2004). 2 September 2016閲覧。
- ^ Tony Halpin (2007年12月21日). “Torture, an iron fist and twisted logic set stage for Islam Karimov's landslide victory”. Times Online. The Times. 2008年7月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年10月20日閲覧。
- ^ Murray, Craig (2011). Dirty Diplomacy : the Rough-and-Tumble Adventures of a Scotch-Drinking, Skirt-Chasing, Dictator-Busting and Thoroughly Unrepentant Ambassador Stuck on the Frontline of the War Against Terror.. New York: Scribner. ISBN 978-1-4165-6986-2. OCLC 1085160589
- ^ International Rehabilitation Council for Torture Victims (2003年2月28日). “Civil and political rights, including the questions of torture and detention”. United Nations Digital Library. 2022年10月10日閲覧。
- ^ “CIVIL AND POLITICAL RIGHTS, INCLUDING THE QUESTIONS OF TORTURE AND DETENTION”. Office of the United Nations High Commissioner for Human Rights. 2007年9月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年10月20日閲覧。
- ^ “第13回参議院政府開発援助(ODA)調査派遣報告書 第4章 ウズベキスタン共和国班報告 II.ウズベキスタン共和国における調査”. 参議院. 2022年10月31日閲覧。
- ^ Asian Development Bank (2020年5月). “Uzbekistan Quality Job Creation as a Cornerstone for Sustainable Economic Growth”. 2022年10月10日閲覧。
- ^ “For Clues on a Post-Karimov Uzbekistan, Look to the Cotton Harvest” (英語). Freedom House. 2022年10月30日閲覧。
- ^ “UN Urges End To Uzbek Abuses” (英語). RadioFreeEurope/RadioLiberty (2015年6月13日). 2022年10月30日閲覧。
- ^ “Violations of Media Freedom: Journalism and Censorship in Uzbekistan”. UNHCR. 2011年8月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年10月20日閲覧。
- ^ Bohr, p. 15.
- ^ Abdurasulov, Abdujalil (29 August 2016). “Uzbekistan opens up on president's health”. BBC News 2022年9月1日閲覧。
- ^ Kramer, Andrew E. (6 April 2013). “Rumors About Uzbekistan Leader’s Health Set Off Succession Debate”. The New York Times 1 September 2022閲覧。
- ^ “Daughter of Uzbek leader tweets to deny health reports”. Reuters. (26 March 2013) 1 September 2022閲覧。
- ^ “ウズベク大統領「脳出血」/ICUで治療と次女”. 四国新聞社 (2016年8月29日). 2022年10月20日閲覧。
- ^ a b “Медицинское заключение о болезни и причине смерти Ислама Абдуганиевича Каримова” (ロシア語). Правительственный портал Республики Узбекистан (2016年9月2日). 3 September 2022閲覧。
- ^ “Rumours of Uzbek president's death raise questions over succession”. The Guardian. (2016年8月30日) 2022年9月2日閲覧。
- ^ “Uzbek President Islam Karimov's independence day speech read out on TV”. BBC News. (1 September 2016) 1 September 2022閲覧。
- ^ “カリモフ・ウズベク大統領が死去=外交筋”. ロイター. (2016年9月2日) 2022年9月2日閲覧。
- ^ “カリモフ大統領死去、ウズベク政府が正式発表”. AFP. (2016年9月3日) 2016年9月3日閲覧。
- ^ “Ilham Aliyev visited Embassy of Uzbekistan”. UzDaily (2016年9月6日). 2022年10月20日閲覧。
- ^ “Latvian President visits Embassy of Uzbekistan”. UzDaily (2016年9月6日). 2022年10月20日閲覧。
- ^ “PM signs condolence book on demise of President Islam Karimov” (英語). Samaa (2016年9月5日). 2022年10月20日閲覧。
- ^ “Premier Li mourns death of Uzbek president”. The State Council of the People’s Republic of China (2016年9月4日). 2022年10月20日閲覧。
- ^ “Uzbekistan Mourns Karimov”. Voice of America. (2016年9月3日) 2022年9月9日閲覧。
- ^ a b “「最も残酷な独裁者の一人」カリモフ大統領、埋葬される ウズベク”. AFP (2016年9月4日). 2016年9月4日閲覧。
- ^ “Strongman Uzbek leader Karimov buried”. Arab News. (2016年9月3日) 2022年10月10日閲覧。
- ^ “Uzbeks Bury Strongman Karimov” (英語). RadioFreeEurope/RadioLiberty (2016年9月3日). 2022年10月20日閲覧。
- ^ “Zarif attends Islam Karimov funeral”. Tehran Times. (2016年9月3日) 2022年10月10日閲覧。
- ^ “Cuba declares mourning over death of Islam Karimov”. UzDaily (2016年9月5日). 2022年9月10日閲覧。
- ^ “Визит в Узбекистан”. kremlin.ru (2016年9月6日). 2016年9月10日閲覧。
- ^ “第183回国会 参議院予算委員会会議録 第16号” (PDF). 参議院 (2013年5月13日). 2017年9月14日閲覧。
- ^ 片野優、須貝典子『日本人になりたいヨーロッパ人 ヨーロッパ27カ国から見た日本人』宝島社、2014年、57-58頁。
- ^ Bruce Pannier (24 March 2015). “Orphaned Dictator: The Making Of Uzbekistan's Islam Karimov”. Radio Free Europe/Radio Liberty 3 April 2015閲覧。
- ^ “Islam Karimov”. www.nndb.com. 2022年10月20日閲覧。
- ^ “President/ Biography”. gov.uz. 2007年7月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年10月20日閲覧。
- ^ Joanna Lillis (8 September 2014). “Uzbekistan's autocratic ruler may have found a way to silence his daughter”. The Guardian 2022年10月10日閲覧。
- ^ Joanna Lillis (24 March 2015). “Uzbekistan's first daughter accused of pocketing $1bn in phone deals”. The Guardian 2022年10月10日閲覧。
- ^ “Gulnara Karimova: Uzbekistan ex-leader's daughter jailed” (英語). BBC News. (2019年3月6日) 2022年10月29日閲覧。
- ^ “Swiss To Return 'Illegal' Millions Of Late Uzbek Leader's Imprisoned Daughter” (英語). RadioFreeEurope/RadioLiberty (2022年8月16日). 2022年10月29日閲覧。
- ^ “BIOGRAPHY OF LOLA KARIMOVA-TILLYAEVA”. Lola Karimova. 2022年10月20日閲覧。
公職 | ||
---|---|---|
先代 独立 |
ウズベキスタン大統領 初代:1991年 - 2016年 |
次代 ニグマティラ・ユルダシェフ (大統領代行・上院議長) |
先代 設置 |
ウズベク・ソビエト社会主義共和国大統領 初代:1990年 - 1991年 |
次代 廃止 |
党職 | ||
先代 設置 |
ウズベキスタン自由民主党党首 2007年 - 2016年 |
次代 - |
先代 設置 |
ウズベキスタン人民民主党党首 1991年 - 2007年 |
次代 ハタムツォン・キトモノフ |
先代 ラフィク・ニシャノフ |
ウズベキスタン共産党第一書記 1989年 - 1991年 |
次代 解党 |