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オトマール・シェック

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
オトマール・シェック
Othmar Schoeck
基本情報
生誕 1886年9月1日
スイスの旗 スイス ブルンネンドイツ語版
死没 (1957-03-08) 1957年3月8日(70歳没)
スイスの旗 スイス チューリッヒ
ジャンル 後期ロマン派音楽近代音楽
職業 作曲家

オトマール・シェックOthmar Schoeck, 1886年9月1日 - 1957年3月8日)は20世紀スイス作曲家。300曲以上にのぼる歌曲を作曲し、ピアノ伴奏つき歌曲や管弦楽伴奏つき歌曲、様々な合唱曲を遺している。その他の作品に《ヴァイオリン協奏曲「幻想曲風に」》作品21や《ホルンと弦楽合奏のための協奏曲》作品65, ハインリヒ・フォン・クライスト原作の歌劇《ペンテジレーア》作品39などがある。

1980年代半ばから、ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ白井光子の地道な努力によりシェックの再評価が始まった。

経歴

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シュヴィーツ州ブルンネンドイツ語版に、風景画家のアルフレート・シェック (Alfred Schoeck) を父として出生。父親の跡継ぎを目指して短期間チューリッヒの美術学校に籍を置いたが、結局中退してチューリッヒ音楽院に転学。音楽院を卒業後、シュトゥットガルトマックス・レーガーに出会い、1907年から1908年までレーガーの下でライプツィヒ音楽院に学んだ[1]

スイスに戻ってからは積極的な音楽活動に着手。チューリヒのいくつかの合唱団やザンクト・ガレンにおけるオーケストラの演奏会を指揮したが、徐々に創作活動に鞍替えしていった。第一次世界大戦中はチューリヒで過ごし、ピアニストのマリー・ド・サンジェール (Mary de Senger) と恋愛関係にあった。

パリフランス六人組の音楽を知ってから、旧来の伝統的な調体系を捨てた。アルバン・ベルク音列技法に関心を寄せたこともある。結局は1930年代モダニズムから離れて調性音楽に回帰したが、それでも19世紀末から20世紀初頭に流行った「調性の拡張」に従っており、自由奔放な和声進行や個性的な転調を追究している。調性への回帰と同時期にナチス・ドイツに祭り上げられ、優遇されたため、そのことが戦後シェックのタブー視につながった。

創作活動のかたわらピアニストとしても活動し、チューリヒ歌劇場で活躍した歌手、とりわけエルンスト・ヘフリガーを伴奏して自作歌曲の録音を遺した。指揮者としては、同僚のフォルクマール・アンドレーエフリッツ・ブルンと親しかった。そのほかの友人に、文豪ヘルマン・ヘッセや画家フランツ・ヴィーゲレがおり、ヘッセとブルンはシェックの旅仲間でもあった。

1945年にスイス音楽家協会作曲家大賞に選ばれた。1957年にチューリッヒで没。

作品

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作品数は数多く、歌劇や声楽曲のほか、いくつかの器楽曲も遺している。

フーゴー・ヴォルフ亡き後のドイツ語歌曲の大家のひとりに数えられ、詩の情緒や雰囲気を、絶妙かつ親密に音楽化したことにより、いくつかのリート連作歌曲が代表作として言及されている。中でも、ヨーゼフ・フォン・アイヒェンドルフニコラウス・レーナウらの詩に作曲された歌曲集《悲歌》Elegie 作品36(1921年 - 1922年)や《十の歌》(ヘッセ歌曲集)作品44(1929年)、レーナウやゴットフリート・ケラーの詩による弦楽四重奏とバリトンのための《夜曲》Notturno 作品47(1933年)、歌曲集《星々の下で》Unter Sternen 作品55(1941年 - 1943年)、《静謐なる輝き》Das Stille Leuchten 作品60(1946年)、メーリケ歌曲集《心もて足るを知る》(「好ましき慎み」とも)Holdes Bescheiden(1947年 - 1949年)が有名である。

歌劇や相当数の歌曲のほかに、いくつかの器楽曲を遺している。2つの弦楽四重奏曲や3つのヴァイオリン・ソナタバスクラリネットとピアノのためのソナタ、遺作のチェロ・ソナタチェロ協奏曲弦楽合奏のための《夏の夜》作品58がある。日本でシェックの名前を広めるのに貢献した《ヴァイオリン協奏曲「幻想曲風に」》は、バルトーク・ベーラの《協奏曲 第1番》と同じく、シュテフィ・ゲイエルに献呈された。この作品は、やはりバルトークに同じく、ゲイエルに対する恋愛感情が発端となって着手された。

劇音楽

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若書きの習作で、カール・マイ原作の歌劇《ジルバー湖の財宝》Der Schatz im Silbersee が近年[いつ?]に発見された。その音源は2005年に、カール・マイ協会の年鑑の附録品としてCD化された。

脚注

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外部リンク

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