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カンボジア・オランダ戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
カンボジア・オランダ戦争
1643年 - 1644年
場所カンボジアメコン川
結果 カンボジアの勝利
衝突した勢力
カンボジア王国英語版 オランダ東インド会社
指揮官
アンチャン1世 ピエール・ド・ロジェモルテ  
戦力
カンボジア人マレー人部隊 432人
被害者数
死者1,000人 会社員36人死亡
兵士156人死亡
戦船を数多く失う

カンボジア・オランダ戦争1643年から1644年にかけて、カンボジア王国英語版におけるクーデターをきっかけとした戦争。マレー人の商人によりイスラム教に改宗した新王はオランダ東インド会社の社員を惨殺し、カンボジアから賠償金を要求しようとしたオランダ軍を撃退した。

戦争の経過

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1642年、カンボジア王子ボトムリヤチアがカンボジア王アンノン1世を暗殺して、アンチャン1世として即位した。マレー人ムスリム商人がクーデターの大きな助けとなったことから、アンチャン1世は即位後仏教からイスラム教に改宗、名前をムスリム風の「イブラーヒム」に変えて、マレー人の女性と結婚した[1]。続いて、彼はオランダ東インド会社を追い出すための戦争をはじめた。まず、オランダ植民地の首都でオランダ船を拿捕、オランダ東インド会社の会社員35名および大使ピエール・ド・ロジェモルテを惨殺した。続いて、メコン川で戦われた海戦で1000人を失いながらも勝利して、オランダは兵員432名のうち156名を失った上、多くの戦船がカンボジアに拿捕された[2][3][4][5][6]

戦争の影響

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アンチャン1世の兄弟たちは改宗せず仏教徒のままであり、彼らはベトナムの広南国に介入を要請して、ムスリムの王を追放する形でカンボジアに仏教を復活させた[7][8]。オランダは1643年の惨殺を経て、1670年代までにカンボジアにおける交易地全てを放棄して撤退した[9]。これによりオランダのカンボジアにおける影響力が消滅し、カンボジアでは19世紀までヨーロッパ人の介入が消えた[10]

関連項目

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脚注

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  1. ^ Osborne 2008, p. 44.
  2. ^ Kiernan 2008, p. 157.
  3. ^ Kiernan 2002, p. 253.
  4. ^ Cormack 2001, p. 447.
  5. ^ Reid 1999, p. 36.
  6. ^ Chakrabartty 1988, p. 497.
  7. ^ Kiernan 2008, p. 158.
  8. ^ Kiernan 2002, p. 254.
  9. ^ Osborne 2008, p. 45.
  10. ^ Fielding 2008, p. 27.

参考文献

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