クィントゥス・ムキウス・スカエウォラ (紀元前220年の執政官)
クィントゥス・ムキウス・スカエウォラ Q. Mucius P.f. Scaevola | |
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出生 | 不明 |
死没 | 紀元前209年 |
出身階級 | プレブス |
氏族 | ムキウス氏族 |
官職 |
執政官(紀元前220年) 法務官(紀元前215年) 前法務官(紀元前214年-紀元前212年) |
指揮した戦争 | 第二次ポエニ戦争 |
後継者 | プブリウス・ムキウス・スカエウォラ (紀元前175年の執政官)、クィントゥス・ムキウス・スカエウォラ (紀元前174年の執政官) |
クィントゥス・ムキウス・スカエウォラ(ラテン語: Quintus Mucius Scaevola、? - 紀元前209年)は紀元前3世紀後期の共和政ローマの政治家・軍人。紀元前220年に執政官(コンスル)、紀元前215年に法務官(プラエトル)を務めた。
出自
[編集]スカエウォラはプレブス(平民)であるムキウス氏族の出身。古代の歴史家は、紀元前508年にローマを包囲したエトルリア王ラルス・ポルセンナを暗殺しようとして捕虜となり、その面前で自身の右手を焼いて勇気を示した、伝説的な英雄であるガイウス・ムキウス・スカエウォラ(スカエウォラは左利きの意味)をムキウス氏族の先祖としているが、現代の研究者はこれはフィクションであると考えている[1]。実際、高官を出したムキウス氏族はプレブス系であり、歴史に登場するのは比較的遅く、クィントゥスが最初である(即ち、ガイウス以来300年近く歴史に登場していない)。
紀元前175年の執政官プブリウス・ムキウス・スカエウォラと紀元前174年の執政官クィントゥス・ムキウス・スカエウォラは彼の息子と思われ、その場合スカエウォラの父の名前はプブリウスである[2][3][4]。
経歴
[編集]カピトリヌスのファスティの紀元前 221年 - 紀元前219年の分は欠落しているが、354年のローマ歴(Chronographus anni 354)では、スカエウォラは紀元前220年にマルクス・ウァレリウス・ラエウィヌスと共に執政官に就任したとする[5]。しかし、両者は比較的は早く辞任せざるを得なかったと推測される。両者共にクラウディウス氏族の一派に属しており、対立するアエミリウス氏族とコルネリウス・スキピオ家との政治抗争に巻き込まれたものと思われる[6][7]。
スカエウォラは第二次ポエニ戦争中の紀元前215年に法務官に就任し、インペラトール(軍事指揮権)を得た。スカエウォラの担当地域はサルディニアであった[8]。そこでスカエゥオラは病を得るが、それでも前法務官(プロプラエトル)として当初2年[9]、その後さらに1年延長された [10]。
紀元前209年にスカエウォラは死去したが、そのときには式典を実施する10人委員会(decemvir sacrorum)の一人であった。
脚注
[編集]参考資料
[編集]- ティトゥス・リウィウス『ローマ建国史』
- Münzer F. "Mucius" // Paulys Realencyclopädie der classischen Altertumswissenschaft . - 1933. - Bd. XVI, 1. - Kol. 412-414.
- Münzer F. "Mucius 16" // Paulys Realencyclopädie der classischen Altertumswissenschaft . - 1933. - Bd. XVI, 1. - Kol. 424-425.
- Johnson, Paula, "Fabius, Marcellus and Otacilius: The Alliance That Never Was",
- Dorey, TA, "The Treaty With Saguntum"
- Tassilo Schmitt: M. Scaevola, Q. [I 6]. In: Der Neue Pauly (DNP). Volume 8, Metzler, Stuttgart 2000, ISBN 3-476-01478-9 , Pg. 426.
- Broughton R. "Magistrates of the Roman Republic" - New York, 1951. - Vol. I. - P. 600.
関連項目
[編集]公職 | ||
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先代 プブリウス・コルネリウス・スキピオ・アシナ、 マルクス・ミヌキウス・ルフス |
執政官 同僚:マルクス・ウァレリウス・ラエウィヌス 紀元前220年 |
次代 (補充執政官) ガイウス・ルタティウス・カトゥルス ルキウス・ウェトゥリウス・ピロ |