ゲオルク・アウグスト・ツー・メクレンブルク
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ゲオルク・アウグスト Georg August | |
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メクレンブルク=シュトレーリッツ家 | |
全名 |
一覧参照
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称号 | メクレンブルク公 |
出生 |
1824年1月11日 メクレンブルク=シュトレーリッツ大公国、ノイシュトレーリッツ |
死去 |
1876年6月8日(52歳没) ロシア帝国、ペテルブルク |
配偶者 | エカチェリーナ |
子女 | |
父親 | ゲオルク |
母親 | マリー |
宗教 | キリスト教ルーテル教会 |
ゲオルク・アウグスト・ツー・メクレンブルク(独: Herzog Georg August zu Mecklenburg[-Strelitz];露: Георг-Август Мекленбург-Стрелицкий, 1824年1月11日 - 1876年6月8日)は、ドイツのメクレンブルク=シュトレーリッツ大公家の一員で、帝政ロシアの軍人。
生涯
[編集]メクレンブルク=シュトレーリッツ大公ゲオルクとその妻でヘッセン=カッセル=ルンペンハイム方伯フリードリヒ(3世)の娘であるマリー・フォン・ヘッセン=カッセルの間の第4子、次男として生まれた。全名はゲオルク・アウグスト・エルンスト・アドルフ・カール・ルートヴィヒ(Georg August Ernst Adolf Karl Ludwig)。メクレンブルク=シュトレーリッツ大公フリードリヒ・ヴィルヘルムの弟である。
1851年2月4日、ロシア皇帝ニコライ1世の弟ミハイル・パヴロヴィチ大公の娘であるエカチェリーナ・ミハイロヴナ大公女と結婚した。結婚後はロシア帝室の一員として遇され、ロシア軍に所属して陸軍少将の地位を与えられ、陸軍の兵器の近代化を推進した。
1876年6月20日にペテルブルクにて52歳で亡くなった。
死後の1918年、最後のメクレンブルク=シュトレーリッツ大公アドルフ・フリードリヒ6世の自殺によって兄フリードリヒ・ヴィルヘルムの家系が途絶えた。その後三男ミハイルが家督を引き継いだことで、以降はゲオルク・アウグストの子孫がメクレンブルク=シュトレーリッツ家の家長となっている。
子女
[編集]夫妻の間には4人の子女が生まれた。
- ニコラウス・ゲオルク・ミヒャエル・カール“ニコライ”(1854年)
- ヘレーネ・マリー・アレクサンドラ・エリーザベト・アウグステ・カロリーネ“エレナ”(1857年 - 1936年) - 1891年、ザクセン=アルテンブルク公子アルベルトと結婚
- ゲオルク・アレクサンダー・ミヒャエル・フリードリヒ・ヴィルヘルム・フランツ・カール“ゲオルギー”(1859年 - 1909年)
- カール・ミヒャエル・ヴィルヘルム・アウグスト・アレクサンダー“ミハイル”(1863年 - 1934年) - メクレンブルク=シュトレーリッツ大公家家長
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妻と3人の子ども達。左からエレナとゲオルギー、エカチェリーナにミハイル(1870年頃)
外部リンク
[編集]- The Mecklenburg-Strelitz Family, THE PRINCE GEORGE GALITZINE MEMORIAL LIBRARY
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